【I LoveNY】月刊紐育音楽通信 September 2015

最近、やっとラップトップ・コンピューターを買い替えました。
しかも約35年間片時も離すことのなかったMacと決別しました。
などと言うとちょっと大げさですが、自分にとってはそれほど大きな出来事と言えました。

 もちろん仕事ではこれまでPC/Windowsも使っていましたし、自分はアップル信者では
ありませんが、これまでデスクトップもラップトップもデジタル音楽ディバイスも
携帯スマホも自分自身のツールはすべてはアップルでした。
今でもアップルは大好きですが、やはりスティーヴ・ジョブスの死後、アップルの製品や
方向性にかつての魅力を感じられなくなってしまったと言うのは正直なところです。

 今回購入したのはマイクロソフトのSurfaceですが、これは実は意外にアップル的とでも言うか、新鮮なアイディアをふんだんに取り込んだ楽しいツールであると言えます。
何しろキーボード(従来のラップトップ)と指(タッチパネルによるタブレット)とペン(スタイラスペンによるメモパッド)とでフレキシブルに活用できるのが大きな魅力ですし(本当はこれにSiriやCortanaのようなVAI(Voice Assistant Integration)つまり音声(ボイス)認識サポート機能が加わると完璧なのですが)、iPadやiWatchのアイディアの一方で、デスクトップとラップトップが置き去りにされているようなアップルに比べ、Surfaceはコンセプト的にも実用性においても実に柔軟で新しいツールを作り出したとも言えます。

 とは言え、私の場合は仕事柄Macのコンピューターも引き続き使い続けています。
ご存知のようにMacとWindowsと言うのは操作面でも様々な違いがありますので、両立させるのが困難な部分もあるのですが、逆に自分としてはその違いが面白く、それが頭(脳)の運動にもなって良いと感じています。

 私は時々自分のデスクの左右のレイアウトを変えたり、ハシやフォークを左右に変えて食べたり、意識的に左右や順番を変えたりするのですが、MacとWindowsの併用というのも、サビ付き始めた自分の脳の体操にはとても良いと感じています。


トピック:次世代のムーブメント、「アフロ・パンク」

          
 日本から来た人に「今ニューヨークで一番流行ってるものは何ですか?」と聞かれることがよくあるのですが、これは非常に難しい質問です。
音楽でも食でもファッションでも、すべてはその人それぞれ、その人次第というのがニューヨーク・スタイルですし、そもそも英語では「ブーム」という言葉自体が単なる一過性のもので、自分自身のスタイルになりうるポジティブな意味合いを持ったものとは言えません。

 とは言え、音楽にも食にもファッションにもムーブメントと言うものはあります。
それがエリア的・人口的にいかに広がっていくかによって流行というものが生み出されていくのだと思いますが、特に90年代後半以降、ミュージック・シーンにおいてはそうしたダイナミズムがあまり見られなかったニューヨークで、特にここ最近盛り上がってきているのが「アフロ・パンク」であると感じています。

 「アフロ」と言うのは、言うまでもなくアフリカそのもの、または強いアフリカ指向やアフリカ回帰を指しています。
一方の「パンク」は、ロックが失ってしまった反骨精神・反逆精神を、パンク(くだらない、粗悪、役立たず)という自虐的な自己表明を基盤として、破壊性を伴いながら過激にアピールするライフスタイル(ファッションではありません)と言えます。

 このどちらも非常に強い主張を持った言葉が組み合わさった「アフロ・パンク」というスタイルが一般的に認知されるようになったのは、恐らく2003年に公開された同名の映画作品以降のことであると思います。

 この映画は、音楽やアートやライフスタイルにおいて過激なパンク・スピリットを持った黒人の若者たちをとらえた1時間ちょっとのドキュメント作品で、バッド・ブレインズやフィッシュボーンといったアフロ・パンクの元祖的存在と言える有名バンドもフィーチャーしながらも、彼等から影響を受けた新世代のアフロ・パンク・アーティストたちのライブ映像やインタビューが作品の中心となっていました。

 バットブレインズやフィッシュボーンもそうですが、特に新世代のブラック・パンク・アーティストたちの音楽性というのは非常にクロスオーバーし、ミクスチャーされており、アフロとパンク・ロックをベースとしながらも、ファンク、ヒップホップ、レゲエ、ダブ、ニューウェーブ、ハードコア、エレクトロニカ、更にはフォーク的、カントリー的な要素まで取りこんでいるアーティスト達もおり、ありとあらゆる音楽の要素を自分達なりに自由奔放にミクスチャーさせたものと言うことができます。
しかも、それは音楽だけにとどまらず、アートやファッション、そしてライフ・スタイル全般にまで及んだムーブメントと言えます。

 ジェイムズ・スプーナー(監督、脚本、編集、撮影、製作)とマシュー・モーガン(製作)という、いまやアフロ・パンク・ムーブメントの生みの親であり立役者でもある2人によって生み出されたこの映画は、小規模な映画祭でいくつかの賞を受けましたが、世間一般的には、また大手映画産業の世界では、黒人でありながら白人のパンクを気取っている風変わりな若者達のドキュメント、という評価が大勢でした。

 しかし、彼等のライフスタイルは現実社会に不満を抱く若い黒人達を中心に、様々な若者達の心をとらえ、いろいろな形で彼等の思考と指向に影響を与えていったと言えます。

 そして2005年、モーガンとスプーナーのキュレーションによって、ブルックリンのBAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)の駐車場にて初めてのアフロ・パンク・フェスティバルが開催され、このムーブメントは映画を離れた生のムーブメント&アクティビティとして展開されていくことになります。

 特に、2008年からモーガンがオーガナイズするようになってからは、出演者の規模も年々大きくなっていき、2008年はアフリカ・バンバータやジャネル・モネー、2009年はリヴィング・カラー、2010年は場所を同じくブルックリンはフォート・グリーンにあるコモドア・バリー・パークに移してバッド・ブレインズやモスデフが参加、2011年はフィッシュボーンやシー・ロー・グリーン、2012年はエリカ・バドゥ、2013年はパブリック・エネミーのチャックDやザ・ルーツのクエスト・ラブ、2014年はディアンジェロやミシェル・ンデゲオチェロといった大物アーティストが次々と参加していき、数万人規模のイベントから数十万人規模のイベントへと急成長していきました。

 今年は去る8月22日と23日に開催され、グレイス・ジョーンズ、レニー・クラヴィッツ、ローリン・ヒルといった超大物達が参加するという豪華版となり、さらに、デス・グリップス(ラップ&アルタナティヴ・ロック)、SZA(ソウル&エレクトリック・ポップ)、サンダーキャット(ジャズ・ファンク&エレクトロニカ)、ビンテージ・トラブル(ソウル&ブルース・ロック)、スーサイダル・テンデンシーズ(ハードコア・パンク&プログレ・ファンク)、ロウリー(フォーク・ソウル&ヒップホップ)といった実に興味深く、実に多種多様な音楽性を持った気鋭のアーティスト達が参加しました(カッコ内に記した彼等の音楽スタイルは、かなり乱暴な表現であることをお断りしておきます。こうしたジャンルやスタイル分けは、彼等の音楽のユニークさやオリジナリティを軽視・過小評価することにもつながり、本意ではないのですが、アフロ・パンク・フェスと出演アーティストの多様性を知っていただくために敢えて記しました)。

 今回の大物3人についても少しお話ししたいと思います。
と言うのも、この3人のパフォーマンスとプレゼンスは実に対象的であり、ある意味でアフロ・パンクというコンセプトをそれぞれに代表している部分も大きいと思うからです。

 まず、グレース・ジョーンズは60歳代半ばになってもあまりにパンキッシュで過激・強烈でした。
なにしろコスチュームはパンティ1枚に全身ボディ・ペイントのトップレス。歌う姿も強烈でしたが、黙って立っているだけで恐ろしいほどの存在感を発していました。
彼女のアピアランスというのは、ある意味で会場に集まったアフロ・パンクス達の“権化”ということもできます。
つまりアフロ的なセンスを持った派手さや過激さというのは、アフロ・パンクの代表的なファッション・スタイルでもあるわけで、彼女はある意味でその頂点(誰も彼女の域には近づけないでしょう)にあるような存在とも言えます。

 レニー・クラヴィッツは、かつてほどのメジャー路線や人気・評価は無くなりましたが、Tシャツにジーンズにギター1本持って、激しく歌い、プレイし、動きまくる様は、まさに“裸のロッカー”という感じで、彼も圧倒的な存在感を放っていました。
音楽的にはどちらかというとオーソドックス&トラディショナルなのですが、彼が歌い演奏すると、誰にも真似のできないパワーとオーラが発せられるのです。

 そして真打はローリン・ヒルです。この3人の中では最も小柄で最も地味に見える彼女ですが、ジワジワと押し寄せる感動はダントツでした。
ピンクのシャツに短いスカートで白いコートをさりげなく羽織り、奇抜さや派手さなどは全く無く、超自然体で歌う彼女の声とパフォーマンスには、とてつもない存在感とインパクトが溢れていました。
これは本人も語りませんし、推測ではありますが、ビヨンセが目指すシンガー、そしてビヨンセが憧れているのは実はローリン・ヒルなのではないか、ということは私だけでなく指摘する人もよくいます。
実際に声のヴァイブレーション、リゾネーションはかなり似ているところもあります。
しかし、その説得力と存在感はビヨンセなど足元にも及びません。
そして、彼女の“自然体”こそが、過激なアフロ・パンクの行き先・到達点であるようにも感じてしまうのです。
それほど、彼女の奥行と深みのあるパフォーマンスにはアフロ・パンクス達もうっとりと感動していました。

 前述したように、アフロ・パンクのムーブメントにおいては、派手さ・奇抜さ・過激さが大きな特徴にもなっています。
周囲の人々から眉をひそめられ、驚かれ、呆れられ、嘲笑されることを意図的に狙っているかのような彼等のアティチュードは、明らかに社会に対する不満と反発の現れでもありますが、時としてはそれが単なる自己満足や独りよがりの自己主張に見えることもあります。
しかし、音楽もアートもカルチャーも、こうしたアティチュードがムーブメントを生み出し、時代を生み出し、大小様々な変革を引き起こしてきたわけで、その意味でも、アフロ・パンクのムーブメントは、ヒッピー・ムーブメント以来久々のサブ・カルチャー、または“文化革命”となる可能性を充分持っているように思えます。

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