I Love NY

【I Love NY】「月刊紐育音楽通信 June 2020」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

                

英語で「heart-wrenching(ハートレンチング)」という形容詞があります。一般的には「痛ましい」「悲痛な」と訳すことが多いですが、「ハート」に続く「レンチング」つまり「レンチ」とは「ねじり取る」「もぎ取る」という意味ですので、直訳すれば、「心臓をもぎ取られるような」という強烈な形容と言えます。レンチという工具も「ねじり取る」「もぎ取る」という言葉から来ているわけですが、私自身としてはこのレンチという工具で心臓をえぐり取られるような、おぞましい響きがあります。
 全米のテレビやオンラインで一斉に映し出された5月25日の事件の映像は、まさにこの「ハートレンチング」そのものでした。場所はアメリカ中西部ミネソタ州ミネアポリスの近郊。ラッパーでもあるジョージ・フロイドという46歳の黒人男性を、警官が4人がかりで路上(路面)に押さえ込み、その内のデレク・ショーヴィンという白人警官がフロイド氏の首を8分46秒間に渡って膝で強く押し付けて窒息死させた虐殺の一部始終が、近くにいた人達の携帯電話でビデオ撮影されて公開されたのです。
 頸動脈を塞がれ、体の反応が失われていき、言葉も出なくなっていき、最後は「息ができない。殺さないでくれ」という言葉を発し、鼻血を出して動かなくなり、到着した救急車の担架に無反応な体が乗せられ、という本来ならば公共の電波やネットでは流されるべきではない映像が、視聴者にとてつもないショックを与えました。
 この「ハートレンチング」な事件に続く全米各地でのプロテストの広がり、そして平和的なプロテストの一方で一部暴動・略奪が起きていることはニュース報道でご存じと思います。メディアというのは常にセンセーショナルな部分ばかりをフォーカスしますので(現在の大統領/政府も同じ姿勢と言えます)、「プロテスト=暴動」とも取られがちです。確かに、あまりのショックと怒り・悲しみによって、特に地元を中心としたプロテスター達は過激になっていったこと、また、警備にあたる警官達とのやりとりやもみ合いの中で過剰に反応していったことは間違いありませんが、その基本姿勢としても、また実際のアクションにおいても、プロテスト自体は平和的または非暴力を前提としたものであると言えます。
 特にここ数日は、プロテストの行進の途中で通り過ぎる病院から医療従事者達が外に出てきて拍手とニーリング(膝立ち)で出迎えてくれ、プロテスターも医療従事者への感謝と賞賛として拍手や歓声で返す姿は、コロナと人種差別という二つの大きな問題を抱える市民の共通意識・認識と連帯を表す美しい光景であると言えます。
 実際に私自身も私の子供達もプロテストに参加していますが、発生した破壊・略奪行為やその跡形というのは、まるで別世界・別次元のように思えますし、明らかに“正”と“負”の“異なる2種類のプロテスト”が存在していると強く感じます。
 よって、“負のプロテスト”を許さないのが、私達自身も含め、プロテスター達にとっても非常に大切な点であり、“正のプロテスト”を拡大して、警察・司法・自治体・連邦(国家)に対して「ジャスティス(公正、正義)」を主張し続けることが真の目的・使命であると言えます。
 今回の事件によって、コロナから抜け出す「リオープン(再開)」があらゆるレベルで後退するのは間違いないと言えます。ですが、人間の生きる権利や尊厳すら踏みにじられ、「公正」という言葉も見えない状況では、「リオープン」は形ばかりで意味の無いものであると断言しても過言ではないと言えます。「経済」を立て直して「ウイルス」を駆逐するその前に、自分達自身の「意識」を立て直して「憎しみ・差別」を駆逐する必要があることを、フロイド氏の死は語っているように思えます。
 事件から一週間後の6月1日、フロイド氏の弟であるテレンス・フロイド氏は兄が殺された場所を訪れ、泣きながら祈りを捧げた後、集まった人達に向けて「別の方法」へのチェンジを訴え、「Peace on the left, Justice on the right(左に平和を、右に正義を)」と叫びました。憎しみ・対立と不正が平然と存在する今の世の中において、この言葉はとてつもなく重いと言えるでしょう。

 

トピック:アメリカ音楽界における過去と今回のプロテストについて

 

 今回のニュース・レターでは、ようやくコロナ後のリオープンに向けて動き始めたニューヨーク・シティの様子と、前回の続きとして、ストリーミング・ライヴなどの様々な試みを始め、音楽業界の新たな動きなどについてご紹介する予定でしたが、それらは上記の事件の衝撃で全て吹っ飛ばされ、一時的に麻痺してしまっているような感があります。
 この後、事態がどのように進んでいくのかはまだ予断を許しませんが、現状としてはまだ、白人警官達によるあのおぞましいリンチ殺人とその映像、そして全米各地での破壊行為とその傷跡に、人々は放心状態になっていると言っても過言ではないと思います。
 ちなみに、私の娘のアパート(ロウワー・イースト・サイド)周辺の飲食店などはほとんどが襲撃されてダメージを受け、私がオフィスとして間借りしているビル(ミッドタウン)の向かいにある大型家電店舗は完全に破壊されました。
 私自身は幸い暴動の現場に居合わすことはありませんでしたが、自宅周辺での破壊略奪行為の最中、叫び声や銃声・破壊破裂音、サイレンや空を飛び交うヘリコプターの音で明け方まで一睡もできなかったという娘の話には戦慄しました。
 暴徒に襲撃された翌日に破壊された跡を自分の目で見た時は、もちろん大きな衝撃を受けましたが、それは19年前、2001年9月11日の同時多発テロ直後の衝撃とは明らかに質の異なるものと言えました。それは、9/11のテロが外からの攻撃であったのに対し(例え原因・理由は内にあるとしても)、今回の暴動は全てが“自分達の社会や意識の中から生まれたもの”、または“自分達の社会の結末、または意識の結果”であると言うことができると思います。それだけに、今回の傷は極めて深く、衝撃度も大きいと言えます。

 ですが、その後様々な方面から沸き起こっているポジティヴな思考や方向性、実際のプロテストの行き先や目指すところなど、力強い主張や提言によって、楽観的すぎるかもしれませんが、人々の意識は前進し始めているようにも感じます。問題は、その結果として社会がどれだけ変わることができるか(政治は少なくとも今年11月の大統領選までは変わりません)、ということであると思います。

 そうした中で、音楽界における動きも今回は非常に活発と言えますし、これまでも今回のような黒人に対する白人警察の暴力・殺人事件に対しては、音楽界は敏感且つ積極的に反応してきました。

 1965年に起きたカリフォルニア州ワッツ(その後ロサンゼルス市に吸収合併)暴動と、それに呼応したスタックス・レコードによる大コンサート「ワッツタックス(Wattstax:ワッツとスタックスを組み合わせた造語)」は、今も語り継がれる大事件&歴史的大イベントでしたが、もう少し近いところでは、1992年に起きたロサンゼルス暴動が、音楽界の幅広い分野で強い反発が起きた最初の事件とも言われています。
 これは、ロドニー・キングという黒人男性が飲酒運転&スピード違反の現行犯で逮捕された際に、警官達(白人3人とヒスパニック系1人)に警棒などでメッタ打ちにされるという事件が起こり、起訴された警官達が無罪となったことをきっかけとして起きた暴動でした。
 被害もワッツ暴動を大きく上回り、死者60人以上、逮捕者1万人以上、破壊された建物1000以上、襲撃・略奪された店舗4000以上で、当時の故ブッシュ大統領(父)が約4000人の軍隊と約1000人の暴動鎮圧特別チームを出動させるという非常事態となりました。

 この時の音楽界の反応として、最も過激で話題になったのがアイスTのメタル・バンド、ボディ・カウントによる「コップ・キラー(警官殺し)」でしたし(当時、発売中止処分)、後にレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンがロサンゼルス暴動を題材にしたアルバム「ザ・バトル・オブ・ロサンゼルス」を発表したことも良く知られています。
 ですが、そうした過激なリアクション以上に、多くのアーティスト達がプロテスト的な曲やアルバムを発表したことも注目されました。例えば、ラップ界では2パック、アイス・キューブ、ドクター・ドレ、レッドマンなど、ロック界ではブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・ボウイ、エアロスミス、トム・ペティ、ビリー・アイドル、ベン・ハーパー、スレイヤー(アイスTとの共演)、ジャズ界でブランフォード・マーサリスなどが音楽によるプロテストを行いました。

 90年台はその後も白人警官による黒人殺傷事件が続きましたが、その極めつけとも言え、音楽界も強く反発したのが、1999年ニューヨークで発生したディアーロ事件です。
 これは当時、ニューヨーク市警の警官達が、銃も持っていないアフリカ系移民のアマドゥ・ディアーロという青年に向かって41発も集中発砲して殺害したという恐るべき事件で、この時もパブリック・エネミーやワイクリフ・ジョンを初めとする多くのラップ・アーティスト達がプロテストの曲を発表しましたが、最も話題となったのはブルース・スプリングスティーンが発表した「アメリカン・スキン(41発)」であったと言えます。
 この曲はニューヨーク市警の警官達の感情を逆なでし、警官達の組合がスプリングスティーンのコンサートをボイコット(具体的にはコンサートの警備をボイコット)するという強攻策に出て、両者の間と、市民と警察の間で緊張感が高まりました。
 ちなみにこの曲は、ジャクソン・ブラウンやメアリー・J.ブライジ(ケンドリック・ラマーとの共演版もあり)などにも歌い継がれています。

 2000年に入ってからは、特にこうした警官による黒人殺害事件は急激に増えていきました。
 大きく報道された事件に限っても、2005年ニューオーリンズ(犠牲者複数。以下カッコ内は犠牲者名)、2006年ニューヨーク(ショーン・ベル氏)、2009年カリフォルニア州オークランド(オスカー・グラント氏)、2011年カリフォルニア州フラートン(ケリー・トーマス氏)、2014年ニューヨーク(エリック・ガーナー氏)、2014年ミズーリ州ファーガソン(マイケル・ブラウン氏)、2015年サウス・カロライナ州チャールストン(ウォルター・スコット氏)、2015年ボルティモア(フレディ・グレイ氏)、2015年シカゴ(ラクアン・マクドナルド氏)、2016年ミネソタ州ファルコン・ハイツ(フィランド・カスティーユ氏)、2016年オクラホマ州タルサ(テレンス・クラッチャー氏)、2018年ピッツバーグ(アントウォン・ローズ2世氏)、2018年テキサス州アーリント(オシェイ・テリー氏)と続いていき、今年2月のジョージア州ブルンズウィック(アーモー・アーベリー氏。但しこちらは警官ではなく白人親子による殺害)と先月末のミネアポリス(ジョージ・フロイド氏)に至っているという、あまりにも痛ましい状況です。

 今回の事件に対しては、まだコロナ・ウイルスによる制限下にあることから、大々的なプロテストの新曲発表やライヴ、コンサートといった形はまだありません。プロテストはソーシャル・メディア上のコメントが中心となっているわけですが、その急先鋒の一人となっているのは意外にもテイラー・スウィフトであると言えます。
 スウィフトというアーティストは、そもそも政治には全く無関心なタイプと言えました。これまでLGBTQ差別や女性差別に対しては強い態度をもって発言を続けてきましたが、それが2018年の中間選挙時に突如、彼女が選挙権を持つ地元テネシー州の上院と下院における民主党候補者への支持と投票を表明して周囲を驚かせました。
 この支持・投票表明発言を行ったツイッターの反響は極めて大きく、スウィフトの表明によって、彼女のファン層である若者層による有権者登録が7万から15万ほど増えたとも言われています(但し、機密性が重視される選挙データゆえ、それを証明することはできません)。

 さらにスウィフトは、この国には白人であることの特権というものが存在することを認めた上で、現在の黒人運動としては最も勢力を持つBLM(ブラック・ライヴス・マター)の運動への支持を表明し、益々政治色も明確にしていき、昨年の夏頃からはトランプに対する批判をツイッターで展開し始めました(当然のことながらトランプは反ツイートしています)。
 そうした彼女の最近の動きからみれば、これは至って当然とも思えるのですが、今年起きた前述のジョージア州でのアーベリー氏の事件と今回のミネアポリスのフロイド氏に関する事件に関しては明確なプロテストと共に、それらに対するトランプの対応を厳しく非難し、ツイッターの「いいね」の最高獲得数も更新しているという状況です。

 スウィフトの姿勢は今回も特に目立っていますが、他の有名アーティスト達も次々とプロテストを表明し、例えばアリアナ・グランデやホールジー、マシーン・ガン・ケリー、トラヴィス・バーカー(Blink-182のドラマー)などは実際にプロテストに参加しているようです。

 そうした中で、今回はいわゆる音楽業界の中からプロテスト・キャンペーンが生まれました。「ブラックアウト・チューズデイ」と名付けられたもので、先日2日火曜日に行われたばかりでした。これは黒人コミュニティに対するリスペクトとサポートを目的として今回の事件にプロテストするもので、簡単に言えば6月2日の火曜日に音楽業界が業務休止を行ったボイコット運動です。

 このキャンペーンをローンチさせたのは、アトランティック・レコードで要職に就いているブリアナ・アギエマンとジャミーラ・トーマスという二人の黒人女性(前者は既に退社)で、ソーシャル・メディアを通した呼びかけに対して賛同者があっという間に増え、黒人系音楽企業や黒人がトップを務める企業や黒人アーティスト達はもちろんのころ、企業では音楽業界の旧3大企業であるワーナー、ソニー、ユニヴァーサルの3社全て(更にその傘下のレコード会社各社も)が賛同・参加し、スポティファイやアップルといった現在の巨大企業や、興行界のトップであるライヴ・ネイションを始め、音楽業界の主要なビッグネーム達が顔を揃えました。
 また、アーティスト達も即座に反応し、ローリング・ストーンズ、クインシー・ジョーンズ、ビヨンセ、レディ・ガガ、リアナ、ピンク、ケイティ・ペリー、テイラー・スウィフト、ビリー・エイリッシュ、ヨーコ・オノなどといったそうそうたるアーティスト達がサポートを表明しました。

 「音楽産業は数十億ドル規模の産業であり、主に黒人達のアートから利益を得ているのです。私達の使命は、黒人達の努力、闘争、成功から利益を得ている主要企業とそのパートナーを含む業界全体を支えることです。そのためには、透明で目に見える形で、裕福さが偏ってしまった黒人コミュニティを保護し、権利を守ることが、我々の義務であるのです」というのが、このキャンペーンのミッションとなっていますが、今も搾取され続け、いびつな富の分配が成されている現状を改善することが業界の義務である、と宣言している点は、これまで誰もが感じていても公に宣言しなかった(できなかった)ことをしっかりと捉えていると言えますし、驚くべき早さでこれだけの賛同が得られ、音楽業界を超えて更に広がりを見せている大きな理由であると言えます。

 但し、このキャンペーンに対しては早速批判もいくつか起こっています。それは人種というセンシティヴな部分によるところもありますが、「今はサイレント(休止)の時ではなくアクションの時だ」という更にアクティヴな意見もあるようです。
 とは言え、今はどんな形でもアクションを起こすべき時であると言えますし、このキャンペーンがアメリカの音楽業界内の差別と搾取・不正、そしてより活発な制作活動・業務を後押しすることになればと願うばかりです。

【I Love NY】「月刊紐育音楽通信 March 2020」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

******************************************************************

 ニューヨークに移り住んで30年以上。大停電と暴動とシリアル・キラー(77年)、戦争当事国としての開戦または戦争介入(91年湾岸、2001年アフガニスタン、2003年イラク)、テロ(1993年ワールド・トレード・センター爆破テロ、2001年9/11同時多発テロ)、ハリケーン・サンディーによる大被害(2012年)など、日本では起こりえないような様々な事件を経験してきたと思っていましたが、これほどまでに日々の生活が大きく変化する経験は初めてであると言えます。

 何しろ、マンハッタンに間借りしている自分のオフィスに行くこともできず、仕事仲間と会うこともできず、同じマンハッタンに住んでいる家族(子供達)とも会うことができず、ただひたすら自宅に引きこもり、身の回りでは徐々に感染者が増えていく一方で、娘も結果的に感染した友人と接触したため2週間の自宅隔離状態となり、私自身も感染するのは時間の問題という不安にさいなまれる、といった状況に陥っているのですから。

 それぞれが抱く、明日の収入、明日の生活、そして明日の我が身すらが闇の中にあるというこの危機感・不安感というのは、やはり置かれている状況によって異なるし、結局は当事者でないとわかりづらいものであると思いますが、今回のウイルスに関しては地域差というものが大きく、特に日米または日欧の認識・理解の格差は広がるばかりと感じます。

 日本では既にイベントが再開されたり、できる限り国や自治体による大規模な規制は行わない方向にあると聞きますし、ようやく延期となったオリンピックも、世界各地におけるウイルス蔓延の中で開催の意思や意欲が公表され続けていましたが、それらはアメリカ側から見れば信じられないことであると言えます。

 先日、ワシントン・ポスト紙は、まだオリンピック開催にこだわっている日本を“無責任“と批判する記事を掲載しました。これは日本の方々には極めて不愉快な論評であるとは思いますが、ニューヨークを始め、アメリカの一般的市民の感覚としては、正直な意見であったと思います。

 なにしろ、アメリカの感染者数は遂に中国、イタリアに続いて3番目となり、このままでは中国に迫る、または追い越すのは時間の問題と言われる。。。現在アメリカ全土の中で最大の感染者を抱えるニューヨーク州の感染者数は、ニューヨークに次いで第二位・第三位の感染者を抱えるカリフォルニア州やワシントン州(当初は感染者最多)の10倍以上となっている。。。東京都の半分ほどしか無いニューヨーク市の感染者は、既に日本全土の感染者を超え、死者も日本全国の倍以上となってしまっている。。。といった危機的状況が背景となっている部分は是非ともご理解をいただきたいと願うばかりです。

 それにしても、今回はテロ以上に目に見えないウイルスという“敵”と対峙しなければならないのですから、そのストレスや不安の大きさは計り知れません。またその反対に、目に見えないが故に現実を認識・理解できない人達、または逆に制限・禁止というストレスに満ちた現実に反駁する人達もアメリカには多いと言えます(例えば、テキサス州知事や、超保守的なキリスト教原理派など)。

 今回のウイルスで、分断されたアメリカが再び力強い絆を持つようになる、と主張するアメリカ人も多くいますが、それに関しては非常に懐疑的です。一時は敵対から強調路線へと変更するかに見えたトランプも、結局は相変わらずの排他主義とアメリカ至上主義に戻っていますし、国内のみならず、ある意味見せかけのグローバリズムの崩壊によって、国、地域、人種に関する排斥意識・差別意識は確実に以前より増していることを強く感じます(特にアジア人である自分にとっては)。

 それでも、ポジティヴな面をいくつか挙げるとするならば、みんな不健康な外食をしないようになり、車や飛行機などの利用や工場の稼働などが減って大気汚染が軽減され、自宅にとどまって自分たちの生活を見つめ直す機会になっているということでしょうか。そして何よりも、今まで以上に「時間」があり、「家族」が共にいるということ(もちろん別居・独立している家族は別ですが)。そのことを真っ先に感じ、我が家でこの状況を一番喜んでいるのは、日頃留守番ばかりであった愛犬であるようです。

 

トピック:襲い来るウイルスに対して音楽は無力なのか

 

 前述のテロや戦争、大災害の時も同様な印象を持ちましたが、今回ほど、音楽というものがあまりに無力であることを痛感したことはないと言えます。現在、ニューヨーク州では、市民の生活にとって重要(エッセンシャル)であるかどうかで、ビジネスのオープン/クローズが決められ、市民生活も厳しく規制されていますが、音楽はもちろん重要では無い(ノン・エッセンシャル)ビジネスとなりますし、その厳しい規制の中で動ける余地はほとんどありません。

 何しろ人が集まることを規制するわけですから、コンサートやライヴ・ハウスの運営は許されません。つまり、音楽ヴェニューのシャットダウンによって、ミュージシャンは完全にパフォーマンスの場を失っているというのが現状です。

 内輪の話で恐縮ですが、ドラマーである私の娘は最近、ある新人歌手のバンドに加入して、2月末からオープニング・アクト(前座)として有名アーティストの大型アリーナ・ツアーに参加し始めましたが、その矢先のこの騒動で、ツアーは3月後半から全て延期となりました。しかも、ツアー先の西海岸にいる間にカリフォルニア州で外出禁止令が出て、その後にニューヨーク州でも同様の法令が発令されて身動きが取れなくなってしまいました。飛行機はガラ空きですので、ニューヨークに帰ること自体は可能でしたが、何しろ航空会社(客室乗務員など)も空港(セキュリティ業務の空港従業員など)も感染者が続出しているので、飛行機で帰るのは感染のリスクが高すぎるということで、何と車で5日間かけてアメリカを横断してニューヨークに帰ってきました。しかも途中、アジア人であることで泊めてくれないホテルがあったり、車が故障してもやはり同様な理由で断られたりなど、散々な思いをしたようです。

 こんな話は今、ミュージシャン達の間ではあちこちで聞かれていますし(差別に関してはアジア人ならではですが)、今はショーの延期またはキャンセルと、感染の恐れという二重苦ならぬ二重の不運から逃れることは誰もができない状況です。

 一般的な興業の世界においては、所謂スケジュール変更や延期というのは可能です。特に今回の場合はアーティスト都合ではありませんし、結果的には全ての公演がずれていくという形になります。しかし、いつにずれ込むのかということに関してはまだ未定で全く確証も保証もありませんし、それまでは無収入状態が続くことになるわけです。また、延期というものにも限度がありますし、延期期間が長くなれば、その分間引き(つまり完全キャンセル)されるアーティスト達も増えていくことになります。

 音楽活動に対する制限はパフォーマンスの場だけではありません。人が集まることを規制する以上、レコーディングやリハーサルといったスタジオに集まっての活動も禁止されます。

 これは地方自治体によって多少異なりますが、現在はまだ10人以上の集まりを禁ずるところが多いので(ニューヨークなどは3人以上禁止ですが)、少人数であればまだ対応は可能な場合もあると言えますが、感染というセンシティヴな問題故、人数の問題だけではありません。なにしろ、ほとんどが外気換気が可能な窓などの無いスタジオという“密室”での作業となるわけですので、感染のリスクは極めて高くなります。

 実は先日、まだニューヨークで10人以上の集まりが禁止であった際に、エンジニアの自宅スタジオにて3人ほどでのプリ・プロダクションの話がありました。お互いによく知る間柄ですし、最初はまあ大丈夫だろうという軽い気持ちであったのですが、急激に感染が広がって深刻な状況となっていったため、一人は喘息持ちであることを理由に、もう一人は軽度ではありますが免疫システムに問題があるということを理由に、3人が集まってのプロダクションはやめようということになりました。

 ご存じのように今回のウイルスは新型の肺炎ですし、その死者の圧倒数が、呼吸器系機能の弱まっている老齢層と、既往症を持つ人達(つまり、合併症を起こして死に至る)となっています。そのため、人々は自分の持病や既往症に極めて敏感にならざるを得ませんし、安易な判断や過信は禁物となっています。

 こうした状況故、アーティスト/ミュージシャン達は益々神経質になっていき、実際に次々と活動面での行く手を阻まれているわけですが、彼らもただ手をこまねいて見ているわけではありません。今、多くのアーティスト/ミュージシャン達は、突然降ってわいた時間を使って、これまで以上に自分達の演奏スキルを向上させることや自分の音楽(曲や歌)を書くことにフォーカスすると共に、多忙な人ほど手をつけることが少なかったマーケッティングとソーシャル・メディアのスキルを磨くことに熱心になっているようです(そして、外出の多い彼らが中々見つけることのできなかった「家族との時間」も)。

 具体的には、アーティスト/ミュージシャン達はオンライン上で新しい音楽を発表し、演奏し始めています。それらはつまり、ライヴ・ストリーミングということで、これまでにも頻繁に行われてきたものではありますが、その比重と意味合いは全く変わってきたと言えます。

 これまでライヴ・ストリーミングに関しては、大がかりなイベント的な性格を持つ物以外は、どちらかというとマニアックなニーズに応えるようなものであったり、プライベートな内容のものであったり、インディーズ系など予算の無い場合が主流であったと言えますが、現在は発信する(できる)場所が基本的には自宅しかなくなっているため、自宅がスタジオであり、ライヴ・ハウスであり、大げさに言えばコンサート会場であり、全ての活動と発表の場の拠点となっているわけです。

 前回のニュース・レターをお読みの方は、今年のグラミー賞を制覇したと言えるビリー・アイリッシュに関する下りを思い出されるかもしれません。彼女の音楽パートナーとして、作編曲、レコーディング、プロデュースを手掛ける兄のフィニアス・オコネルとの音楽制作は、今回のグラミー賞受賞作品を始め、基本的には彼らの自室(寝室)を拠点としていました。つまり“宅録”という究極の低コスト・プライベート・プロダクションが彼らの基本であるわけです。

 自分のベッドルームでくつろぎながら、手頃な値段で手に入る機材を使って音楽制作を行い、しかもグラミーも制覇してしまったビリー・アイリッシュですが、そのパフォーマンスは相変わらず大勢の人の集まる音楽ヴェニューであり続けています。しかし今、その場所自体がシャットダウンされ、あらゆる場が剥奪されている状況において、音楽の発信場所、つまり現在の“音楽ヴェニュー”すらもが自宅・自室となっているわけです。

 これは非常時のやむおえぬ対応であるとは言え、音楽界における一つの“小革命”になり得ると思われます。

 もちろん、今のウイルス問題が収束すれば、音楽パフォーマンスの場は従来の音楽ヴェニュー中心へと戻っていくでしょうし、音楽産業としてはそうならねばなりません。しかし、インディーズ系を中心にほとんどの音楽活動がそのビジネス・モデルがほぼ独占的にライヴ/コンサート収入に基づいて構築されている状況と、特にメジャー系においてはしっかりとしたプラットフォームを構築することなく、安易でお手軽なチケット・リセール行為と販売サイトを公認したがために、あまりに不健全なチケット販売が主流となってしまっている状況、そしてそれらのシステムを基盤としている興行界に対して、今回の非常時対応による“小革命”がくさびを打ち込むような形になる可能性もあると期待しています。

 今回はあまりに厳しい状況故、その反動としてあまりにポジティヴというか楽観的な見方・話になってしまったかもしれません。実際に、Facebookなどを利用してライヴ・ストリーミングに取り組んでいるインディー系アーティストの収入はドネーション(寄付)頼みですので、ごく僅かです。ですが、そこには何の仲介もマージンも発生しませんし、これは極めて健全なソーシャル・メディアの利用法とも言えるかもしれません。

 また、人々は予期せず「時間」と「家族との時間」を得たわけですが、せっかく得た「時間」であっても何もすることが無いという人達は多いと言われます。必要最低限のショッピング以外は御法度で、バーやレストランでの飲食はできず、スポーツ自体も無くなり、映画も観に行けず、新しいテレビ番組すらも制作されないこの状況においては、自宅における娯楽(または癒やし)として、音楽がこれまで以上の比重を占める可能性が高まってきていることも事実です。

 毎度コントラヴァーシャルな発言で世を騒がせるマドンナは、今回のウイルスに関して「全ての人に分け隔て無く感染することで“平等”がもたらされている」という意見を述べて、またしても賛否両論を巻き起こしています。彼女は常に逆説的、または極端に誇張した物言いをする人ですから、その言葉を文面通りに捉えるのは危険ですが、

「私たちは皆同じ船に乗っている」という彼女の意見には賛同しますが、「(ウイルスが)全てを平等にする」という意見には、ウイルスに感染する確率に関しては確かに“平等”かもしれませんが、ウイルスそのものに対する認識・理解に関しては、平等どころかアジア人差別が起きているという点でも、彼女の意見には無理があると言えます。

 「ウイルスの恐ろしさが素晴らしさになる」というのも、これまた彼女ならではの極端な物言いですが、但しこれに関しては上記のライヴ・ストリーミングという取り組みが結果的に“素晴らしさ”をもたらしていると言うことは可能だと思います。

 今回起き始めている音楽表現や音楽制作(パフォーマンスでもレコーディングでも曲作りでも)の場の“解放”(つまり、ソーシャル・メディアの利点を生かしたコミュニケーションやライヴ・ストリーミング)は、音楽ヴェニューと自宅、スタジオと自宅、といった制作現場と自宅との距離感を縮めることに役立っているのは確かであると言えます。

 例えばストリーミングであれば、自閉症や何らかのハンディキャップや疾患を持った人でも、音楽ヴェニューに足を運ぶことなく、平等に音楽を楽しむことができます。具体的には、家に引きこもって孤立して出られない人に対して、音楽がよりストレートに語りかけることもできるわけです。

 また、曲を書くことや演奏すること、レコーディングすることなどが何らかの理由でうまくできない場合、ソーシャル・メディアを利用した共同作業という方法も可能です。

 つまり、ストリーミングまたはソーシャル・メディアそのものというのは、音楽表現や音楽制作においてインスピレーションを得るためのユニークなソース(源)を見つける良い機会/場となり得るわけで、これこそソーシャル・メディアのアーティスティックでクリエイティヴな活用方法と言えるのではないでしょうか。

 例えば、孤立した個人から別の孤立した個人へと繋がることもできるという点で、これまでとは異なる、また、これまで経験したことのない感情や状況を掘り起こす可能性もあると言えます。

 フリーランサーが労働力の大部分を占めている音楽ビジネスおいて、ウイルスという目の見えない敵に領土を侵された、この恐ろしいまでの不確実性に満ちた現状というのはあまりに過酷であると言えます。

 しかし、ビリー・アイリッシュではありませんが、今や音楽アーティストはいつでもどこからでも仕事ができるような状況となっています。そのための時間が与えられる結果を引き起こした今回のウイルスに対して感謝するなどという意見や考え方はもちろん不適切ですが、ウイルスによって引き起こされた生活の変化を可能な限り有効に使うということは可能なのではないでしょうか。

 苦境は人間を、そして音楽をも強くする。そう信じて私も微力ながら音楽の復活に力を注いでいきたいと思う今日この頃です。

「月刊紐育音楽通信 February 2020」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

できればニュースレターのイントロは明るくいきたいものです。しかし、今月も「悲劇」がそれを許してくれませんでした。スーパー・アスリート、コービー・ブライアント41歳のヘリコプター事故死です。
しかも13歳の娘も一緒の事故死はあまりに悲惨です。

彼の名前Kobeが「神戸」から来ていること、そしてコービー初来日の際に彼は阪神大震災からまだ3年少しの神戸に訪れて寄付を行っていることなどは、私よりも日本の皆さんの方がよくご存じでしょう。

個人的には、学生時代はバスケットボール選手で今はブルックリンの大学でアスレチック部門のディレクターを務めている私の息子にとってコービーはヒーローでしたので、コービーの試合がニューヨークである時は必ずと言って良いほど小さな息子を連れてゲームを観に行っていたことが忘れられません。

史上最強の攻撃力を持つと言われるあのレブロン・ジェイムズをして「コービーの攻撃力は欠点がゼロだ」と言わしめたコービーの“芸術的な”攻撃力(特に相手の動きを翻弄し封じてしまう彼の動き)。
コービーの師匠である名将フィル・ジャクソンをして「最も確率の低いシュートを決められる最高の選手」と言わしめたコービーのこれまた“芸術的な”シュート。本当に彼のプレイはスポーツとはあまり縁のない音楽人間の自分にとって「アート」でもありました。

かつては不倫・レイプ騒動や離婚騒動もあり、決して優等生であったわけではないコービーでしたが、両腕に妻と娘達の名前のタトゥーを入れ、特に4人の娘思いの良きパパであり、引退後はスポーツ界、特にバスケにおける女性の地位向上や進出をサポートするための事業を立ち上げていたことは、あまり知られていないかもしれません。

そんな矢先の事故死は、悔やんでも悔やみきれませんが、コービーの遺志は必ず誰かが継いでいくことでしょう。私自身まだ動揺が続いて文章もまとまりませんが、全てにおいて傑出していた偉大なアスリート、コービーの冥福を祈りたいと思います。合掌。

 

トピック:スキャンダルと悲劇と18歳。“大揺れ”の2020年グラミー賞

もはやグラミー賞が音楽界を代表するイベントなどではなく、音楽界を占うイベントでもないということは、これまでにもいろいろな角度からお話してきました。レコーディング・アカデミー(レコード協会とは別)なる、極めて政治的・権力主義的な組織によって運営され、アカデミー賞やエミー賞などに対抗する音楽界最高の賞と謳いながらも、同組織の会員のみによる秘密投票によって賞が決まるグラミー賞が、音楽の現場または音楽市場を正確に反映した賞とは言えないことは明らかです。ですが、音楽ビジネスにおける同賞の“権威”というのはやはり今も絶大であり、音楽市場とまではいかなくても“音楽世相”というものを反映したものであることは確かであると言えるでしょう。

そんな辛口の意見を述べてはいても、私自身、毎年賞の動きが気になってしまうことは否定できませんが、今年は賞の直前(10日前)にレコーディング・アカデミーの社長&CEOの解任という驚愕の事件が起き、今まで以上に注視せざるを得ませんでした。

この問題ですが、解任されたのは昨年8月に同職に就任したばかりのデボラ・デューガンで、同アカデミーの運営方法やグラミー賞の選考傾向のみならず、女性に対して差別的と取られる発言などによって批判の嵐にさらされていた前社長&CEOのニール・ポートナウの後を受け、レコーディング・アカデミー史上初の女性社長&CEOとして大抜擢されたばかりでした。それが、わずか5か月程での解任というのは穏やかではありません。

レコーディング・アカデミー側の主張によれば、デューガンが“不正行為”を行ったための解任とされていますが、これはデューガンのアシスタントからの申し立てによるものらしく、平たく言えば、デューガンによる彼女のアシスタントへの「パワハラ」であるとのことですが、その内容については「現在調査中」という、何とも歯切れの悪いコメントを発表しています。それでいてデューガンが「情報漏洩」と「誤情報」も企てたとして、その隠蔽のためにレコーディング・アカデミーに対して多額の請求を行ったということにも言及しているようです。

解雇された当のデューガンも黙ってはいません、彼女はまずレコーディング・アカデミー側のコメントに対する反論として、“被害者”であるという自分のアシスタントに対する「パワハラ」を完全に否定しており、そもそもこのアシスタントが彼女の前任者ポートナウの“子飼い”のベテラン管理職スタッフであったということ、そしてこのアシスタントがパワハラ告発後、休暇を取って居所もわからないままであるということも明かしました。

デューガンの反論でショッキングなのは、デューガン自身は組織改革のために動き始めた矢先に解雇された、と主張していることです。具体的にはレコーディング・アカデミーの人事部に対し、同アカデミー内の様々な問題や苦情を詳細なメモにして提出した約3週間後の解雇であったとのことですが、デューガン自身が語ったメモの告発内容はかなり強烈なものと言えます。

まずは、デューガンの前任者ポートナウのアーティストに対するセクハラ/レイプ疑惑、そして、同アカデミーの法務顧問からの彼女自身に対するセクハラ行為、更に驚くべきは(私自身はあまり驚きませんが…)グラミー賞の指名システム/プロセスの不透明性と不正行為(賞候補は1万2千人の同アカデミー会員によって投票され、更に同アカデミーの「秘密委員会」によって上位20が審査・選択される)、そうした不正行為によって過去にエド・シーランとアリアナ・グランデの賞ノミネートと受賞が仕立て上げられたこと、などを報告したというのです。

これだけの内容であれば、例えそれらが真実であったとしても、または逆に虚偽であったとしても、同アカデミーとしてはそのような報告をする人物を社長&CEOに留めておくことはできないと言えますし、当のデューガンとしても、この体当たり戦術は当然のことながら解雇覚悟のことであったと思われます。しかもデューガンは解雇の一週間後にはアメリカの人気テレビ番組に出演して上記のことを暴露し、弁護士チームを結成してレコーディング・アカデミーと真っ向から対決する姿勢を示しているので、その度胸については大したものであると言えます。

当然のことながらレコーディング・アカデミーの方は、デューガンの主張は事実無根と相手にもしていないようですが、そうは言っても相手は単なる一従業員ではなく、例え5か月間であっても社長&CEO職にあった人間です。それを晴れのグラミー賞授賞式の僅か10日前に解雇するというのは余程のことであり、尋常なことではありませんし、メディアや音楽業界のみならず、同アカデミー内つまり会員達の動揺は極めて大きく、同アカデミーとしては騒ぎの鎮静化に必死のようです。

暫定で社長&CEOに就任したのは、デューガンの社長&CEO就任の約2か月前に、同アカデミーの議長に就任していたハーヴィー・メイソンJr.。ジャズ・フュージョン関係に詳しい方ならすぐにおわかりのように、偉大なドラマー、ハーヴィー・メイソンの息子です。

まずレコーディング・アカデミーは自分達の会員向けに、暫定措置としてデューガンの代わりにこのメイソンJr.の社長&CEO起用を伝え、同アカデミーと会員との変わらぬ信頼関係を強調するレターを送りました。それに続いて今度は同アカデミーの女性役員が会員達に、同アカデミーの女性スタッフ達が男性スタッフ達と協力し、いかに同アカデミーの多様性を進歩させてきたかを説明するレターを送り、更に今度はメイソンJr.自身が会員達に向けて、グラミー賞選考システムの透明性、指名審査委員会の多様性、利益相反を防止するための規則、および委員の名前の機密性などを強調するレターを送りました。

更にメイソンJr.は同アカデミーの変革のための具体案と計画を会員達に伝えましたが、デューガンに言わせればそれらは全てデューガンが社長&CEO就任後に彼女の指示の下で合意されたものであるとのことで、デューガン自身のアイディアを自分のアイディアにすり替えているメイソンJr.の対応についても批判しています。

 

デューガンと彼女の弁護士チームは、メイソンJr.がディーガンのアイディアをコピーしただけという具体案のみならず、レコーディング・アカデミー会員から独立した専門委員会と委員長の設置、同アカデミーにおける個人間や理事会内の取引や公的非営利資金の使用に関する真に独立した調査、グラミー賞候補上位20を審査・選択する「秘密委員会」の廃止、そしてデューガンの社長&CEO復帰を求めてアクションを起こしていますが、デューガンの主張の基盤は、やはり白人メインの男性社会(ちなみに、暫定新社長&CEOのメイソンJr.はアフリカ系アメリカ人)による同アカデミーの差別意識の撤廃と腐敗の一掃にあり、そして賞選考の透明性を最重要課題として捉えており、先日のテレビ出演でもそのようなことを力説していました。

現時点でディーガン側とレコーディング・アカデミー側双方の主張や事の真相を裏付ける証拠はまだ充分ではなく、正しい判断ができる段階にはありませんし、この後裁判闘争となれば時間の掛かる話となる可能性も高いと言えます。

また、今回のスキャンダルが、映画界のハーヴィー・ワインスタイン・スキャンダルと共に最近の#Mee Tooムーブメントと連動してくかという可能性もまだ未知数であると思いますが、少なくともグラミー史上最大のスキャンダルであることだけは間違いないと言えるでしょう。

そうした“嵐”の中で行われた今年のグラミー賞でしたが、今回は更にイントロでもお伝えしたようにコービー・ブライアントの事故死をいう悲劇が重くのしかかりました。なにしろコービーが事故死したのはグラミー賞当日の朝でしたし、グラミー賞の会場であるロサンゼルスのステイプルズ・センターは、コービーが在籍したロサンゼルス・レイカーズの本拠地でもあるわけです。

今回のグラミー賞のパフォーマンスにおいて、アリシア・キーズがこのステイプルズ・センターを「コービーが建てた」という言い方をしていましたが、確かにこのステイプルズ・センターはコービーのレイカーズ入団(1996年)後、シャキール・オニールとのコンビによって新しい黄金時代を迎えたレイカーズの人気・躍進によって1999年にオープンしたアリーナです。

しかも、オープンしたその年のシーズンからシカゴ・ブルズで3連覇を二度成し遂げた名将フィル・ジャクソンを迎えて新たな3連覇(つまりブルズ~レイカーズだと通算6連覇!)を成し遂げたわけで、その意味でもチームの主戦力であった「コービーが建てた」というのは決して過言ではないと言えます。

そうした背景もあって、コービー事故死の当日におけるこのアリーナでの授賞式やパフォーマンスというのは、アーティスト達にとってはあまりにエモーショナルで重い試練でもあると言えました。

上記のいきさつや背景を全て抜きにすれば、今回のグラミー賞はビリー・アイリッシュという18歳の少女が最年少でグラミー5部門(年間最優秀アルバム賞、年間最優秀レコード賞、年間最優秀楽曲賞、最優秀新人賞、年間最優秀ポップ・ボーカル・アルバム賞)を制覇したことが歴史を塗り替える快挙と言えました。

特に主要4部門(アルバム、レコード、楽曲、新人)の制覇というのは81年のクリストファー・クロス以来ということで、それが女性で最年少ということは長いグラミー賞の歴史においても、また音楽業界にとっても大事件であると言えます。

しかし、前述のもう一つの大事件の後では彼女の受賞にも一部で疑問が生まれています。つまり、レコーディング・アカデミー、そしてグラミー賞の存続にも影響しかねない今回の大スキャンダルから世間の目をそらすために、レコーディング・アカデミーは誰もが驚く受賞劇を仕立て上げ、更に、結果的にコービーの悲劇も利用した、というわけです。

これは受賞したアイリッシュや彼女のファン達にはあまりに酷で心ない意見・見方であると言えますし、不慮の死を遂げたコービーに対しても無礼な話です。私自身もそこまでネガティヴに物事を捉えることには賛同できませんが、それでもレコーディング・アカデミーに関してはあまりにネガティヴで不透明なことを多く、しかもその極めつけが今回の女性新社長&CEOの解任劇という結果になっているため、全てに疑いが生じてしまうという厳しい状況にあるとも言えます。

確かにアイリッシュの音楽や歌に関してはかなりの賛否両論があり、好き嫌いもはっきりと分かれます。自分のプライヴェート部分をさらけ出し、悩みや不安、特異性やコンプレックスなども一つのコミュニケーション・ツールにして同世代からの圧倒的な共感を得ている彼女の歌には、逆に言えば世代による拒否感や分裂、普遍性の欠如といった部分も存在します。しかも、グラミーでこれだけの賞を独占受賞したことには、やっかみや疑問視する意見もあると思いますが、それでも2019年のアメリカ音楽界において、アイリッシュの音楽が起こした旋風は間違いなく一つの大きな“現象”でした。

何しろ、彼女のデビュー・アルバムはメジャーなレコード会社からではなく、SoundCloudというベルリンを拠点とする音楽ファイル共有サービスからの自費リリースでしたし、アイリッシュの音楽パートナーとして作編曲、レコーディング、プロデュースを手掛ける兄のフィニアス・オコネルとの音楽制作は、今回の受賞作を始め、基本的に彼らの自室(寝室)を拠点としています。つまり、近年レコーディング・プロダクション自体がすっかり変革してきている中で、この兄妹のプロダクションというのは“宅録”という、ある意味で究極の低コスト・プライベート・プロダクションを実現しているわけです。

そのオコナルは受賞の際に「最も創造的になれるのは最もリラックスできる場所(自室)」と語り、「“手作りクッキー”でグラミー賞がもらえたのはとても光栄」とも述べていたのは非常に印象的でした。

彼らの受賞は特にこれから音楽を目指す少年・少女たちに対して、強烈なアピール/インパクトとなっていると言えます。それは、お金もプロ仕様の楽器も機材もスタジオもいらず、自分のベッドルームでくつろぎながら、手頃な値段で手に入る機材を使って音楽制作を行い、しかもグラミー賞を受賞することだって可能、という意識改革を引き起こしたとも言えるわけです。

アイリッシュは受賞のスピーチでは「グラミー賞についてはいろいろとジョークを言ったけど、今は心から感謝したい」と語っていましたが、「批判」とは言わず「ジョーク」というのは彼女らしいかわいい言い方であると思います。ですが、正確にはアイリッシュはグラミー賞自体をジョークだとも言っており、彼女にとってはグラミー賞などどうでも良い存在であったと言えるわけで、そんな彼女がグラミー賞を制したというのは最高のジョークであるとも言えます。

相変わらずダボダボの服で授賞のステージに立ったアイリッシュですが、今回の授賞式でも、相変わらず熱唱と感涙の圧倒的なパフォーマンスが披露され、パフォーマーも出席者も、女性達は自分達の考える女性らしさをアピールする思い思いの衣装で登場していました。そんな中でダボダボ服に虚ろ気な眼差しとシニカルな笑顔をたたえて戸惑いを見せながらも常に淡々としているアイリッシュの存在は、ユニークというか超異色というか、とにかく際立っていたと言えます。

ショーアップされた豪華絢爛さの中でも自分を失わず偽らず貫き通す頼もしさ。

そんな意味で彼女の受賞は、ベッドルームからそのまま飛び出したような自然体のアンチテーゼによって、グラミーの改善・改革を気付かぬうちに既に実現してしまっているとも言えるのかもしれません。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
今月もお読みいただきありがとうございました。
次の配信は3月上旬の予定です。

お問い合わせ、配信停止希望はコチラ≫≫≫

 

 

【月刊紐育音楽通信 January 2020】

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

                     


 いよいよ時代は「20年代」に突入しました。10年単位で時代を切る言い方は90年代(1990年代)までは一般的でしたが、21世紀という新しいミレミアムを迎えて「00年代」、「10年代」という言い方は今一つしっくりとこなかったようですし、一般的に浸透しませんでした。「20年代」と言うと、まだまだ1920年代を彷彿とさせるものがありますが、私のような古い時代の人間でも、20年代の記憶やリアリティというものは持ち合わせていませんし、今後は新しい“20年代”、“30年代”という言い方が普及していくと思われます。

 しかし、アメリカでは既に10年単位で時代を語る感覚は、特に若い人達の間では薄らいでいると言われます。それは時代の進み方が20世紀とは桁違いに速く、10年で時代をくくる捉え方自体にリアリティがないため、と様々なメディアや論者は語っています。
 私自身にとっては、特に「60年代」と「70年代」というのは強烈なインパクトと記憶、そしてリアリティが今でもあると言えますが、確かに「00年代」や「10年代」というくくりは言葉の響きだけでなく、実際にもほとんどリアリティは感じられませんでしたし、「20年代」という言い方も言葉の響きとしては少々親近感も感じられますが、激動の時代の只中にいると、10年単位というくくりには、もうリアリティが感じられなくなっています。

 それよりも、やはり「2020年」という言葉と響きには、アメリカにおいても日本においても、期待と不安が入り乱れた様々な思いが交錯し、多くの人々にそれなりのリアリティと、それなりの影響を与えているのではないでしょうか。
 日本は何と言ってもオリンピックの年ですし、昨年「令和」という新しい時代を迎えて何かしらの期待感や明るさも漂っているのではないかと思われますが、アメリカにおいてははっきり言って“真っ暗”と言っても良い状況であると感じます(笑)。何しろ、その結果の行方は別として「大統領弾劾」という大事件(快挙?)が起きたまま突入した2020年です(アメリカにおける「大統領」という存在の大きさは「首相」の比ではなく、それは“敬意を集める国のリーダー”であり、国の「最高指揮官・司令官」であり、ある種「国王」にも通じる絶対性をも有しています)。
 更に今年の大統領選挙はトランプ再選が濃厚と言われることによる期待感(トランプ支持者側)と絶望感(反トランプ側)の完全な二分化を引き起こしていますし(もっとも、4年前は“まさかの”トランプ当選となりましたので、今回は逆の“まさか”が起こる可能性もゼロではないと言えます)、失業率は近年最低で雇用率は上がり景気も良いなどとメディアは伝えますが、富裕層にはリアリティがあっても、ミドルクラス以下には全くといって良いほどリアリティの無い不透明・不確実な状況が続いていると言えます。
 また、その理解・解釈によって対立が続く環境問題は、現実的には自然災害が激増する更に深刻な状況を迎えてきていますし、最近は他のニュースに振り回されて取り上げられる機会が減っている移民問題は実は全く好転しないどころか益々憂慮すべき事態を迎えています。

 そして実はこれがアメリカ(のみならず全世界)にとって2020年最大のリスクとなる可能性が高いと言われる中国との問題は、香港と台湾との問題も絡めて益々ヒステリックな状況となっていますし、それ以外にも問題は山ほどあって、四方八方に“暗く巨大な壁”が横たわっていると言えます。
 そんな状況ですから、暗く不安なニュースに振り回されていては、それだけで一日が終わってしまいますし、何も前に進みません。社会意識の低い人達は、景気が良くなっている(と言われている)のだからエンジョイすれば良いではないかと様々な問題に対して益々無関心となっていますが、逆に社会意識の強い人達の中にも「無関心」・「無視」というスタンスは徐々に広がり始めているとも言われています。
 これは、ここまでどん詰まりの状況になると、参加することやプロテストすることでは何も解決しないので、「無関心」と「無視」を徹底させて、ある種のボイコット運動や意識改革に発展させようという解釈や試みとも言われていますが、果たしてその行方はいかに、といったところでしょうか。

 いずれにせよ、2020年は“和”の意識は益々薄れ、良い意味でも悪い意味でも“身勝手さ”が益々強くなっていくのは確かかもしれません。
 新年早々、先行きの不安ばかりですが、どちらにどう転ぼうとも、皆さんのご健康と ご活躍を祈り、Happy 2020!


トピック:“神聖不可侵”のクリスマス・ソング

 遅ればせながらの話題ではありますが、2019年、皆さんはどんなクリスマスを過ごされたでしょうか。チャーチ・ミュージシャンとしても活動する自分としては、この時期は大変忙しく、また心温まる季節でもあるのですが、普段の生活レベルで言えば、クリスマス・シーズンはいかに人混みを避けるか、というのが課題の一つでもあります。  
 この時期にニューヨークに来られたことのある人には言わずもがなですが、マンハッタンの中心部というのは本当にまともに移動することもできない、観光客と買い物客でごった返した“人混みの嵐”となります。そんな人混みを見学して楽しむ観光客の人達は良いですが、日々の仕事に追われ、時間に追われている人間にとってはたまったものではありません。まあこの時期に仕事をしなければならないというのが哀れというか悲しむべき状況とも言えますし、本当は長期休暇を取って暖かい場所で過ごすのが理想ではあるのですが…。

 といった愚痴はさておき、今年のアメリカ音楽業界では、クリスマスは久々にいろいろな話題がありました。まずは、既に“クリスマス・シンガー”または“ホリデー・シーズン・シンガー”とのレッテルを貼られつつあるマライア・キャリーです。マライアは2014年から、彼女としては小規模なホールと言える、マンハッタンはアッパー・ウェストにあるビーコン・シアターでのクリスマス・コンサートが相変わらずソールドアウトで、この時期は毎年話題となりますが、今年は彼女の代表曲の一つと言える「恋人達のクリスマス(原題は「All I Want for Christmas Is You」ですから「クリスマスに欲しいのはあなただけ」といったところでしょうか)が、なんと25年という長い歳月を経て、アメリカで最も権威あるチャートとされるビルボードのHot 100でナンバー・ワンになるという出来事がありました。ちなみに今回晴れてナンバー・ワンとなったのは、本人によるニュー・リミックス/ニュー・アレンジでもなく、1994年にリリースされたオリジナル曲そのものそのままです。

 チャートのナンバー・ワンに到達するまでに長い時間がかかった曲というのはこれまでにもたくさんありました。しかし、25年というのは何とも気の長いというか気の遠くなるような話であり、快挙と言えば快挙ですし、話題性としても充分と言えました。
 実はそれよりも、今回の同曲のナンバー・ワンによって、マライアの同チャートでのナンバー・ワン曲数は計19曲となり、未来永劫記録が塗り替えられることはないであろうと思われていたビートルズの20曲に、あと1曲と迫る結果となったことの方が間違いなく快挙であると言われています。

 ちなみに、マライアと共に計18曲のナンバー・ワン曲を誇っていたアーティストにはエルヴィス・プレスリーとダイアナ・ロスがいます。ですが、プレスリーの場合は18曲中半数以上がHot 100というチャートが始まった1957年以前の別チャートによるナンバー・ワンであるため、それらを加算して18曲とすることには異論もあります。
 一方、ダイアナ・ロスに関してはソロ活動前のスプリームス(発音的には「サプリームス」に近いですし、「シュープリームス」では英語として全く通じません)のナンバー・ワン曲も含めての18曲ですから(更にはライオネル・リッチーとの共作/デュエット曲もあり)、こちらもやはり異論のあるところです。

 これに対してマライアの場合は解釈的にも異論の無い19曲と言えますし、しかも一応まだバリバリの現役ですから、今後ナンバー・ワン曲を送り出して、ビートルズと並び、更にはビートルズを上回る可能性も残されています。
 ですが、音楽業界では“神聖不可侵”とも言えるビートルズですし、アメリカの音楽業界においても、既に少数とはなっていながらも、ビートルズ世代というのは長老・重鎮クラスにまだ残っています。よって、これはビートルズ・ファンのみならず、音楽業界内としても、あまり諸手を挙げて歓迎・祝福できる愉快で喜ばしい話とは言えないようです。

 そもそもマライアは、今回のチャート・ナンバー・ワン達成の前から、この自分自身の名曲の“広報宣伝”活動を活発に展開していました。テレビ・メディアへの出演、クリスマスやホリデイ・シーズン絡みの様々なイベントへの出演、そして極めつけは同曲の新ミュージック・ビデオの発表です。
 ご存じの方も多いでしょうが、同曲は1984年のリリースと共に2つのオフィシャル・ミュージック・ビデオが発表されました(その他にもリミックス・バージョンでのビデオや、ジャスティン・ビーバーとのデュエット時のビデオ等もありますが)。どちらもマライア自身のディレクションによる作品でしたが、特に最初のビデオは当時マライアが結婚していた元ソニー・ミュージック(元CBSレコード)のCEOとしてアメリカ音楽業界の帝王の一人(カサブランソニー・ミュージック・エンターテイメントを)と言われるトニー・モトーラもサンタクロース役で出演するホーム・ビデオ風の作りで、今のマライアにとってはあまり嬉しくない作品であると言われていました。

 ですから、同曲のリリース25周年として全く新しいミュージック・ビデオをリリースした意図は充分理解できますし、そのビデオ作品に続いて様々なメディアやイベントに出演して大々的なパブリシティを行ったのも当然と言えば当然です。ですが、その結果として25年後に同曲がナンバー・ワンに輝くというのは、あまりにもできすぎた話であり、できすぎたお膳立てである、というわけで、そうした中で今回の同チャート・ナンバー・ワンに対する不信・疑惑もささやかれました。

 今や大スター中の大スターであり、アメリカ音楽界における“女王様”として君臨し、誰も彼女に口を挟めるものはいないと言われ、音楽界における“トランプ級”の存在でもあるマライアですし、“豪腕”で知られるマライアと彼女のプロダクション・チームが巧みにメディア操作/チャート操作を行ったとしても何の不思議はありません。
 そもそもメディア操作というのは、今の音楽・芸能界のパブリシティにおける一つの手段ですし、ビジネス上のアドバンテージや金の動きといった部分を除けば、今やチャート自体の権威というものが完全に失墜している状況で、チャートの信頼性・信憑性をどうこう論議しても、それは大した意味もなく、やっかみにも聞こえがちです。
 実は同曲は昨年もクリスマス時期に同チャートで3位まで上昇したという経緯・伏線もありました。そのため、毎年この時期になるとチャートで上昇するこの名曲を、25年という節目を利用して一気にナンバー・ワンに上り詰めることを実現したマライア陣営の“戦略・手腕”は、実に見事であったと言うべきでしょう。

 クリスマス・ソングと言えば昨年と今年、もう一つ興味深い動きがありました。それは既存のクリスマス・ソングの名曲の放送禁止という措置です。
 具体的には昨年は「ベイビー、イッツ・コールド・アウトサイド」、そして今年は「イッツ・ビギニング・トゥ・ルック・ア・ロット・ライク・クリスマス」というクリスマス・シーズンには欠かせない代表的な名曲が立て続けに放送禁止となりました。
 ただし、放送禁止と言っても、現在はかつてのラジオ黄金時代とは違い、音楽が様々なメディアを通して流され、聴かれている世の中ですので、いわゆる全面放送禁止というわけではあいません。
 今の時代は放送に関しては、メディア・ブロードキャスティング・カンパニーという存在が、契約を結んでいる様々なメディアの企業・組織に対して音楽を供給するという形態が一般的になっていますが、今年の場合は、その大手メディア・ブロードキャスティング・カンパニーの一つであるMood Musicという会社が「イッツ・ビギニング・トゥ・ルック・ア・ロット・ライク・クリスマス」の放送禁止を発表しました。
 その結果、Mood Musicと契約しているストリーミング(パンドラ)、大型店舗(ターゲット)、ホテル(マリオット、ヒルトン、ハイアット)といった企業・組織に対しては同曲が供給されなくなり、それらを通しては同曲を耳にすることはできなくなったというわけです。

 このMood Musicは、2011年にケーブル・ラジオやインターネット・ラジオを通して商業ユースの音楽供給企業として歴史のあるMuzakを買収したことで知られています。  
1930年代のラジオ黄金時代において急成長したMuzakは、間もなくしてワーナー・ブラザーズに買収され、その後もオリジナル・コンテンツやテクノロジーの分野で発展し続けましたが、2009年に破産申請して2010年に倒産。その後、Mood Musicに買収されたという経緯を持ってます。
 ですが、商業ユースの音楽ビジネスにおいては長い歴史と豊富な経験・実績を持っており、それを受け継いだMood Musicは、上記のように大型企業に対する商業ユース音楽供給において巨大なシェアを誇っているので、その影響力は決して小さくはありません。

 今回、「イッツ・ビギニング・トゥ・ルック・ア・ロット・ライク・クリスマス」が放送禁止となった理由は、歌詞の中に「ピストル」という言葉が入っていたためでした。 
 トランプ政権下の政府や社会一般の動きとは全く逆に、リベラルなスタンスが際立ち、銃規制にも積極的である音楽業界サイドから、例えクリスマスの名曲であっても歌詞において銃を肯定的に扱う歌は放送を禁止するという、非常に明快な理念やロジックに基づいた対応であったとも言えました。
 しかし、ペリー・コモを始め、ビング・クロスビーやジョニー・マティスの名唱で知られ、毎年クリスマス・シーズンになると街中(店舗)やラジオからは必ずと言って良いほど流れてくる名曲が、一部の場所ではあっても消えてしまったというのは、何とも寂しい思いもあります。

 一方、昨年の「ベイビー、イッツ・コールド・アウトサイド」はもっと事情が複雑です。この曲の場合は、歌詞の内容が#Mee Tooムーブメントを中心とした女性の権利運動サイドからの批判を浴びて、アメリカの地方(オハイオ州クリーブランド)ラジオ局が放送禁止を発表し、続いてカナダのラジオ局も同調の動きに出ました。
 同曲は基本的に男女のデュエット曲で、クリスマス・ソングの中でもいわゆる“恋愛ソング”と言われる範疇に入るため、神聖なクリスマスに相応しい曲ではないと昔から批判や論争もあったいわく付きの曲でもあります。
 ですが、これまで実に膨大な数の有名アーティストのコンビによって歌われ続け、ざっと代表的なところを挙げると、ルイ・ジョーダンとエラ・フィッツジェラルド、ボブ・ホープとドリス・デイ、サミー・デイヴィスJrとカーメン・マクレエ、レイ・チャールズとベティ・カーター、ロッド・スチュアートとドリー・パートン、ボビー・コールドウェルとヴァネッサ・ウィリアムス、ジェイムス・テイラーとナタリー・コール、ウィリー・ネルソンとノーラ・ジョーンズ、シーロー・グリーンとクリスティーナ・アギュレラ、ダリアス・ラッカーとシェリル・クロウ等々、実に数多くの、そして意外な組み合わせのバージョンがリリースされてきました。

 ちなみに、この“意外な組み合わせ”の理由としては、歌詞の危なさから、歌う二人の危ない関係を連想させない少々ミスマッチな組み合わせが必要なため、という説もあるくらいですが、実際にこの歌の“危険度”は、ある意味で「イッツ・ビギニング・トゥ・ルック・ア・ロット・ライク・クリスマス」の比ではありません。
 そもそも歌う男女はオオカミとネズミに例えられ、簡単に言えば、デートの後に二人はオオカミの家に立ち寄り、遅くなったので帰らねばと思い迷うネズミを、オオカミがあの手この手で引き留めて口説こうとするという内容の歌であるわけです。
 「外は寒いし」と誘いをかけるオオカミの巧妙な歌詞(セリフ)も女性にとっては眉をひそめるものと言えるでしょうが、ネズミの言い訳も本心がどこにあるのかわからない曖昧な部分もあり、特に#Mee Tooムーヴメント側からは、「男性の家にいるという絶対的に不利な状況下で女性の揺れる心を描くというのは女性の地位をおとしめるもの」、「同意の下でのレイプという言い訳を容認しかねない」など、その批判はかなりエスカレートしました。しかも歌の最後の方では、ネズミが「私の飲み物に何か入れた?」とオオカミに尋ねる部分があり、これはレイプの常套手段であると糾弾されました。

 確かに1940年代半ばに書かれたこの歌詞の内容が、今の時代には全くそぐわないものであることは間違いないと言えます。今や#Mee Tooムーヴメントが多くの男性達を恐怖に陥れている(?)アメリカも、いわゆる女性の権利運動やウーマンリブ運動が盛んになるまでは、女性の地位は極めて低く、音楽の世界、中でも歌詞において女性を単に性的な対象・存在と見なす、男性側からの身勝手で差別的な視点が主流であり容認されてきました。
 それは現代においても根強く残って様々な問題や事件、悲劇を生み出し続けているというのが#Mee Tooムーブメントの主張の根底にあるわけですし、今後このようなケースは音楽、映画、演劇、文学など様々なアート&エンターテイメントの分野で噴出してくることは必死であると言えます。

 ちなみに、この曲に関しては今年のクリスマス・シーズンにジョン・レジェンドがケリー・クラークソンを相手役に迎えて、危ない部分の歌詞を変更する新バージョンを発表して話題になりました。
 つまりこれは、単に送信するメディア・サイドによる規制ではなく、アーティスト・サイド(しかも男女両サイドから)が自主的に規制・調整を行ったケースとして特筆すべき点があると言えます。
 しかしそうした試みも、前述の銃規制の観点から放送禁止とした措置も、トランプ・サポーターを始めとする保守勢力からは、“愚かなリベラル達によるアメリカ文化の破壊行為”と目の敵にされて、ここでも激しい対立の構図を生み出してしまっています。
 何をやっても国が二分されていがみ合うという今のアメリカの図式は、まだまだ当分続いていきそうです。

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 December 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある   



 アメリカはホリデイ・シーズンを迎え、各地でコンサートや音楽イベントが盛大に繰り広げられていますが、この時期ニューヨークを代表する音楽系のショー/イベントとしては、やはりラジオ・シティ・ミュージック・ホールの「クリスマス・スペクタキュラー」(特に女性ダンサー「ロケッツ」によるラインダンス)とロックフェラー・センターの巨大クリスマス・ツリーの点灯式というのが観光客向けの2大イベントと言えるでしょう。

 ですが正直言いますと、私の周りのニューヨーカー達(アメリカ人)で、これらのイベントを観に行ったという人はほとんど皆無です(笑)。強いて言えば、子供の頃に連れて行ってもらった記憶がある、という程度で、特に音楽業界の人間で上記のショー/イベントに出向くというのは仕事目的のみと言っても過言ではありません。

 特にロックフェラー・センターのクリスマス・ツリー点灯式は零下の夜の野外イベントですから、集まるのはやはり観光客ばかりということになってきます。また、このイベントは出演者側にとっても厳しいパフォーマンス環境となるのは当然で、今年出演のジョン・レジェンドを始め、生のスタジオ・ライヴを巨大スクリーンに映し出すという方法を取るパターンが増えてきているようです。

 実は笑い話としてアーティスト/ミュージシャン内では話されることもあるのですが、アーティスト/ミュージシャンにとってアメリカにおける2大“拷問”音楽イベントと言えるのは、このロックフェラー・センターのクリスマス・ツリー点灯式でのパフォーマンスと、4年に一回、1月にワシントンDCのUSキャピトル(連邦議会議事堂)の前(野外)で行われる大統領就任式典におけるパフォーマンスであるという話があります。これは本当にその通りであると思いますし、極寒の中でのパフォーマンスというのは、パフォーマーにとっても、楽器(声も含め)にとっても実に過酷なものと言わざるを得ません。

 2009年、オバマ前大統領の1期目就任式典に出演したヨーヨー・マやイツァーク・パールマン達や、2013年の2期目の就任式典に出演したビヨンセが、リップシンクによるパフォーマンスを披露して、随分とメディアに叩かれましたが、パフォーマンスを行う側から言えば、彼等が取った方法はベストとは言えなくても、責めることはできません(その一方で、1期目就任式典において“生”で熱唱したアレサ・フランクリンには頭が下がる思いです)。

 そんなわけで聴き手の側でも、これらのイベントにおけるパフォーマンスは余程の理由(パフォーマーの支持者・大ファンなど)が無い限り、地元の人間にとってはテレビ観戦するのが一番と言われるのも頷けますが、そうは言ってもパフォーマンスはやはり“生”に接するのが一番であることは間違いありません。私自身、今年のホリデイ・シーズンも可能な限り足を運んで、“生”のパフォーマンスを楽しむようにしていますが、先日のサンクスギヴィング(感謝祭)の連休では、ヘヴィ・メタルのクラブでクラウド・サーフィンやモッシングも楽しんできました。ですが、大汗をかいてクラブを出た時の寒さはさすがに身に堪えました。冬のライヴはパフォーマンスだけでなく、パフォーマンスの後も考えなければいけないと、いい歳をして思い知らされた次第でした。

 

トピック:チケット販売の大変革(取り締まり)は実現するか

 アメリカにおける興行ビジネス、特にチケット販売ビジネスの問題については、これまで何度かご紹介してきました。これまで不法・違法とされてきたチケット転売というものが、ある一定の範囲内ではあっても適法・正当なものとなり、金さえ出せば買えないチケットはない、逆に言えば、転売業者による独占で正規チケットが中々手に入らない、という事態を招いていることは、今や誰もが認める状況であると言えます。

 そうした中で先日、アメリカの下院議会の一組織であるエネルギー・商業委員会が、Live Nation、AEG、StubHub、Vivid Seats、TicketNetwork、Tickets.comといったアメリカのコンサート・ライブ/イベント発券業界に対して新たな調査開始を通告しました。その理由は、同委員会が“現状における一次及び二次チケット市場で発生する可能性のある不公正な行為について懸念している”というもので、同委員会はそうしたチケット市場を牛耳っているとも言える上記の企業に対して、懸念事項に関する文書や情報・資料の提出、そして説明会などを要求することになったというわけです。

 今回の動きの目的はもちろん、イベント・チケット販売市場において消費者を保護するためのものですが、その伏線として、コンピュータ・ソフトウェアを使用してチケットを購入することを禁止した「オンライン・チケット販売改善法」というものがあります。これは原語(英語)では「Better On-line Ticket Sales Act of 2016」というもので、通称「ボッツ・アクト(BOTS Act)」と呼ばれており、約3年前の2016年12月に当時のオバマ大統領によって調印されて発動されました。これは、簡単に言うと「チケット・ボット(BOT)」と呼ばれるテクノロジーを使って、個人や組織がチケットをまとめて購入・転売することを阻止・禁止するための法案で、正規チケット発券・販売サイトのためのセキュリティ対策とも言えました。

 具体的に言いますと、チケット・ボットとは、Ticketmasterなどのチケット・ベンダーが販売する正規チケットを自動検索・購入できるソフトウェア・プログラムです。チケット・ブローカーと呼ばれる転売(業)者&組織は、このチケット・ボットを利用すると、自動的に且つ瞬時にチケット検索と購入が可能になり、同時に数百や数千もの取引(購入)が実行できるわけです。つまり、人間が手動で行う何百・何千倍も早く、超高速で瞬時に膨大な数のチケットを一括検索・購入でき、しかも通常はパスワードなどのセキュリティ機能があるものをもスルーできてしまうという、中々優れものでありながらも恐ろしいソフトなわけです。

 但し、問題はこのチケット・ボットを使って転売を行う個人や組織のみというわけでなく、そこにはチケット・ボットを利用した転売行為が生まれてきた背景というものもあります。

 上記の「ボッツ・アクト」と呼ばれる法案が通過する少し前のことでしたが、ニューヨークの司法長官がチケット販売の現状を調査した際に、市場で販売されるチケットの内、一般の人が購入可能となっているのは全体の46%のチケットのみで、残る54%が内部の者や会員、また特別のクレジット・カードなどをもった優遇者達の手に渡っているという驚くべき結果が発表されました。要するに、一般人が購入できるチケットというのは、全体のチケット販売数の半数にも満たないというわけで、この一般への供給量の半減(以上)という状況が、転売・再販チケットの高額化という結果をもたらしたとも言えるわけです。

 そのため、正規料金の1.5倍などというのは良い方で、2倍、3倍から10倍も高くなる状況が出てきてしまったわけですが、そうした事態の中で、転売・再販業者が、圧倒的な供給量の低さに対する需要の高さにフォーカスし、チケット・ボットというソフトを使って、できるだけ多くのチケットを即座に購入するという事態が生まれたと言われています。

 購買者から見れば、チケット・ボットを使った転売・再販チケットは、それまでのいわゆる“ダフ屋”による超高額な転売・再販チケットよりは圧倒的に安いわけですから歓迎すべきものとも言えるのですが、やはりこれは不正・不法行為であることには変わりなく、正規のチケット販売業者にとっては大きな打撃となったとされています。

 一例を挙げますと、現在もブロードウェイで一番人気の「ハミルトン」というミュージカルがあります。これは、アメリカ建国の父の一人であるアレクサンダー・ハミルトンの生涯をヒップホップの音楽で綴ったミュージカル作品で、ハミルトンを含めた歴史上の白人達を有色人種が演じるという、異色・斬新とも言える解釈と演出を施した、ブロードウェイのミュージカル史上に輝く最高傑作の一つとも言われています。興業成績もダントツに素晴らしく、批評家達の評価も絶大で、2016年にはトニー賞史上最多のノミネート記録を達成して、結局11部門も受賞した他、グラミー賞でもミュージカル・シアター・アルバム賞を受賞しました。

 そんな評価・評判もあって、このミュージカルはとにかくチケットが取れないことで有名で、しばらくの間、通常$200前後のチケットが$1000も$2000もするという、異常な事態となっていました。

 そうした中で、プレステージ社というイベント・コーディネーション会社が、アメリカ最大のチケット業者と言えるTicketmasterが販売するハミルトンのチケットの約40%をチケット・ボットを使用して買い占めて転売・再販したということで、Ticketmasterがプレステージ社に対して訴訟を起こしました。

 つまりこれは、「ボッツ・アクト」で定められたオンライン・チケット販売法に違反した行為とみなされ、そうした違反行為を受けた者は訴訟を行う権利が「ボッツ・アクト」によって国(合州国連邦)レベルで認められ、例えば違法行為を受けたチケット業者が複数となる場合は、州がチケット業者に変わって集団訴訟を起こす権利も与えられるようになったわけです。

 

 少々話がややこしくなってきましたが、要は現在、チケット・ボットというソフトウェア/テクノロジーを利用した転売・再販チケットというものが大きな問題となって、チケット・ブローカー(転売(業)者&組織)達がやり玉に挙がっているわけですが、その元凶は、正規チケット業者による富裕層や手堅い高収入を狙った特待・優遇措置が現在の問題を引き起こしているとも言えるわけです。

 よって、チケット転売・再販側だけを取り締まればそれで良いのか、という問題が大きく横たわっています。法によって守られてチケットの料と量をコントロールできる正規チケット業者と、違法ではあるが明らかに安価なチケットを購入可能にしている転売・再販チケット業者。どちらを取るかと言われれば、チケット購入者側の心情としては安い方になると思いますが、業界の統制やマーケットの維持、そして利潤の集中(または拡散の防止)を目指す側からすれば、チケット転売・再販というビジネスは、足元をすくわれる危険な存在と言えるわけです。

 実は「ボッツ・アクト」の推進・施行についてはGoogleも深く関わっていると言われています。また先日、オークション・サイトのeBayが、同社のチケット販売部門であるオンライン再販チケット・サイトStubHubを同業ライバル会社とも言えるViagogoに売却するというニュースも、エネルギー・商業委員会による調査開始通告の直後というタイミングでもあったため、中々興味深い(疑惑を呼ぶ?)動きであると言えます。

 昔から国を問わず、アルコール販売と興行というのはマフィアの領域とされてきましたし、今もその構図は表には見えないレベルで残っていると言えます(ニューヨークでは更にタクシー業界というのがマフィアの領域でした。これについては何故ニューヨークではUber(ウーバー)が他州よりも高額なのかという理由・背景の一つにもなっています)。

 現在の再販・転売チケット・システムが出来上がる以前は、私自身もよくイタリアン・マフィアが運営するブローカーからチケットを購入したりしていました。しかし、80年代以降チャイニーズ・マフィアの勢力に押され、更に現在トランプの顧問弁護士として逮捕・監獄行きも噂されるジュリアーニ元ニューヨーク市長が市長時代の90年代末にマフィアを事実上表舞台から一掃したことで、イタリアン・マフィアはビジネス的にも地理的にも益々ニューヨークの外に追いやられていったと言われます。

 しかし、マフィアというのはそもそも裏舞台から表舞台を操作する組織・集団ですから、彼らは場所や形態を変えて生き残り続けていますし、興行収益の大部分を担うチケット販売に関しても、様々な形態を取って関わり続けていると言えます。

 今回は、チケットの正規販売と転売・再販に関する少々複雑な話となりましたが、国の対応がどうあれ、企業の戦略がどうあれ、またマフィアの存在がどうあれ、購買者としては少しでも求めやすい料金で入手しやすいチケット購入が実現することが最重要ですので、それを願いながら、今回の行政レベルの介入と業者の対応を注視してみたいと思っています。

 この法案は、セキュリティ対策、アクセス制御システム、またはチケット発行者がイベントチケットの購入制限を実施するため、またはオンラインの整合性を維持するために使用するチケット販売者の別の制御手段を回避しようとしている当事者を罰するために設計されましたチケット購入注文ルール。誰かが上記の意図に違反してチケットを販売したことが判明した場合、その人は訴追することができます。

 この法律は、連邦取引委員会がBOTS行為の違反が発生したと信じる理由がある場合に行動する権限を与えます。州はまた、複数のチケット所有者に代わって集団訴訟を起こす権利を有します。

 

 BOTS法は米国の法律に署名された立法行為でしたが、オンラインチケット再販市場がチケットの調達を報告する方法にさまざまな変更を加えました。

 主な変更点は次のとおりです。

 Googleは、有料広告プラットフォームを使用するセカンダリチケット再販業者に、プライマリチケット販売者ではないことを開示することを要求しています。 StubHub、Viagogo、Seatwaveなどは、2018年2月現在、これに準拠していました。

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 November 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

 

 

 

最近私は非常に悩んでいます。Amazonのサービスを利用し続けるべきか、やめるべきか…。いやこれはくだらない話のようで実はくだらない話ではないのです。つまりこれは、最近アメリカで大きな問題として取り上げられているプラスチック製品や容器の使用のように、単に使用をやめたり分別ごみを徹底させるというような話ではなく、自分の音楽ライフのみならず、ライフそのものに関わってくる問題もであるからです。

 私自身は現在、Amazonプライムの会員であることでAmazon Musicの特典(プライムに指定されているAmazon Music音源の無料ダウンロード/ストリーミング)やプライム商品の送料無料というサービスの“恩恵”を受けています。また、音楽関連のみならず、いわゆる生活必需品の類に至るまで、Amazonのオンライン・ショッピングというのは本当に便利なサービスであることは間違いありませんが、実はAmazonの触手はオンライン上の販売やサービスという世界とは別の分野にまで伸び、様々な面から人々の生活に大きな影響を及ぼしています。

 先月のニュース・レーターでも少し触れましたが、Amazonというのは今や流通業界を制しているだけでなく、データ・ビジネスの世界をも制しているわけですが、更に国や行政、軍ともつながることで、政治や一般社会のレベルにまでその影響力を広げてきているのは、まだ気づいていない人も多い重要な事実であると言えます。

 現時点において、この問題のコアな部分というのは、AmazonがICE(移民税関捜査局)に対して自社の顔認識テクノロジー(ソフトウェア)を提供しているという点です。つまり、現在のアメリカを二分する要因の一つにもなっている不法移民の摘発と強制退去に関してAmazonは“多大な貢献”を果たしているというわけで、サンフランシスコ市議会では市当局による顔認証監視技術の利用を禁止する条例案が可決しましたし、先日は400人近いミュージシャン達による抗議行動も行われました。

 Amazonはそれ以前から、プライバシーの問題に関する疑惑がありました。それはスマート・スピーカーとも呼ばれるAmazonのAI搭載スピーカーEcho(エコー)のユーザー達に起きたトラブルという形で話題沸騰したわけですが、このAI部分であるAlexa(アレクサ)が、プライバシーの侵害というよりも、結果的に個人情報の監視と盗用に一役買うという恐ろしい事態を招いたわけです。当のAmazonは中国内からのハッキング行為を理由にこの事件について弁明しましたが、何でも気軽に話せる“お相手”と思っていたAlexaの“ご乱心”(Hal 9000を思わせる異常な誤動作)に多くのユーザーは青ざめ、実はAmazon自体がAlexaを通して個人情報を監視・盗用しているのではないか、という疑惑も出てきたわけです。

 もう一つは、ニューヨークのロング・アイランド・シティに建設予定であったAmazonの第二本社に関する騒動です。ここは実は私が住んでいるエリアなのですが、もしもAmazonの第二本社ができると、地価が急上昇して多くの地元民が追い出される結果となりますし、Amazon移転による公共交通機関の大混雑と整備の必要性(つまり莫大な金がかかる)、そしてニューヨーク市や州による地元市民のための再開発費予算がAmazonへの助成金や税優遇措置によって大幅に削られる結果にもなります。そのため、この移転計画は地元の猛反発を食らって結果的には撤退となりましたが、Amazonは地元行政を抱き込んで引き続き移転の実現を画策していると言われています。

「今、中国よりも危険なのはAmazon」こんな意見も巷ではあちらこちらで聞かれます。

さて、皆さんはAmazonとどう付き合われますか?

 

 

トピック:ドリー・パートンはアメリカを癒せるか?

 

 アメリカは11月の第一月曜日の翌日火曜日が「エレクション・デー」、つまり選挙日です。よって、10月は選挙と政界絡みの話題が一層賑やかになりましたが、先日は故プリンスの地元ミネアポリスにおけるトランプの再選キャンペーン中に「パープル・レイン」が使用されたことにプリンスの財団が強く抗議したというニュースがありました。

 プリンスは2006年大統領選の6か月少しほど前に亡くなりましたが、選挙戦から大統領就任後もプリンスの財団はトランプに対してプリンスの一切の楽曲の使用不許可を通告し、昨年はプリンスの弁護団がトランプに対して公式・法的な手紙も出していました。ですが、法規などまるで気にしない(つまり無法者)トランプですから、性懲りもなくプリンスの曲を使っていたようです。

 

 2016年の大統領選時の本ニュー・レターでもお伝えしましたが、トランプはアメリカ史上で最も有名ミュージシャン達に嫌われている大統領と言え、逆に彼を支持する有名ミュージシャンというのは数える程しかいません。

 どこを向いてもアンチ・トランプだらけの有名ミュージシャン達の中でも特に目立っているのは、ニール・ヤング、リアナ、ジョン・レジェンド(とパートナーのクリッシー・テイガン)、エルトン・ジョン、ファレル・ウィリアムス、テイラー・スウィフト、セリーナ・ゴメス、スヌープ・ドッグ、エミネム、ブルース・スプリングスティーンなどといったところではないでしょうか。

 中でもジョン・レジェンドとクリッシー・テイガンに関してはトランプ自身も目の敵にしており、ことあるごとにツイッターで非難を浴びせていますが、不思議なことにトランプが毛嫌いしているジェイZとビヨンセは、トランプを非難しつつもあまり相手にはしていないようで、まだこれといった“直接対決”は実現していません。

 

 トランプにとっては”A級戦犯”とも言える上記有名ミュージシャン達に続いて、“B級戦犯”的存在とも言えるのがポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソン財団、ローリング・ストーンズ、ポール・ロジャース(フリー)、クイーン、(特にブライアン・メイ)、エアロスミス(特にスティーヴン・タイラー)、ガンズ&ローゼズ(特にアクセル)、R.E.M.(特にマイケル・スタイプ)、アデル、シャナイア・トゥウェイン、ルチアーノ・パヴァロッティなどと言ったところで、彼等は楽曲不使用を中心にトランプに対するノーを公表し続けています。

 

 そうした中で先日、「ドリー・パートンはアメリカを癒せるか」という面白い記事を見つけました。カントリー音楽のみならず、アメリカ音楽界を代表するアイコン的な元祖ディーヴァ&女王の一人であり、アメリカの国民的大スターとして、日本で言えば美空ひばり級の人気・地位・評価を誇るドリーですが、彼女こそが、南北戦争以来と言われるほどに分断され、反目・憎悪と攻撃的な姿勢・論争に満ち溢れた今のアメリカを、その音楽と人間性または存在感によって癒すことができるのではないかという内容でした。

 

 そもそもこの記事の発端となったのは、ニューヨークのローカルFM局であるWNYCのポッドキャスト(インターネット・ラジオ)・プログラムとして去る10月15日から12月8日まで週一でスタートしたトーク番組で、10月末の時点で既に3つのエピソードが配信されています。プロデューサー兼ホストのジャド・アブムラドはレバノン移民のアメリカ人ですが、ドリー・パートンと同じくテネシー州の出身で、アメリカの社会・世相を反映した切り口の鋭いラジオ番組をプロデュース(そしてホスト)することで知られています。

 今回のドリー・パートンの番組でも、彼自身によるドリーへのインタビューを軸に、ゲストも交えながら自らコメント・分析し、話の前後で、過去のドリーのインタビューやレコード、コンサート、テレビ番組などの音源も実に手際よくカットアップしてつなぎ合わせ、1時間近いプログラムを全く飽きさせずに仕上げています。

 

 番組の作りも実に印象的で興味深いと言えますし、ドリー・パートンの功績よりも、その実像をアメリカの社会や動きと対比させながらくっきりと浮かび上がらせる手法は見事と言えますが、やはり最も印象的なのは、ドリー・パートンという稀有なミュージシャンその人であると言えます。

 ドリーはジョークのセンスにも非常に長けた人で、相手のジョークや突っ込みを一層のジョークで笑い飛ばすことでも知られています。とにかく明るく陽気で優しいお姉さん(かなり過去)⇒おばさん(少し過去)⇒お婆さん(現在)というイメージで、これまでも特定の個人やグループを傷つけることも怒らせることもなく(狂った性差別主義者から脅迫されたことなどはありましたが)、50年以上その強烈なキャラを維持し、愛されてきたことは驚くべきことです。

 

 また、彼女はファン層の広さにおいてもダントツで、そのグラマラスな容姿やキャラからLGBTQコミュニティでも非常に高い支持を集めている一方で、ゴリゴリの保守派・原理派クリスチャンのおばさん達にも愛され、フェミニストのキツいお姉さんたちからも一目置かれている一方で、トラック野郎や炭鉱労働者などのマッチョな男達からも愛されるという点は、マリリン・モンローとレディ・ガガが合体?したような振れの大きさとでも言うのか、他に類を見ないユニークな存在と言えます。

 しかも、ドリーの面白さは、そうした幅広い層の全てに対して愛情を持ちつつも、特定のグループとは同調・共闘はしない(逆の言い方をするならば、相手を攻撃しない)という、全てに関してある一定の距離を置いているとも言える点で、そこには本来アメリカの美徳でもあった個人(尊重)主義が貫かれているという見方もできます。

 

 シンガー/パフォーマーとしてのインパクトが強い彼女ですが、実は彼女自身はシンガーである前に作曲家として活躍・成功したシンガー・ソングライターです。

 これは私自身、今回のラジオ番組で再認識したことですが、彼女の初期の曲というのは、彼女自身が「Sad Ass Songs」(「悲しい歌」に「Ass=ケツ(尻)」という言葉を挟むことで汚っぽく強調しているスラング。彼女はちょっと汚いスラングをよく使うのですが、それも逆に親しまれている点でもあります)と呼んでいるように、ひどい話の悲しい歌というのが数多くあります。

 それは、女性ならではの心の痛み、古い女性観から来る女性の行動(主に性行動)に対する偏見・非難、女性(妻)に対する家庭内暴力、男(夫)に騙されること・男(夫)を騙すことによる苦痛、を告白・代弁するといったかなり生々しい内容です。そうした中の頂点の一つとして、未婚の若い女性が妊娠したことで相手の彼氏や自分の家族にも見放され、最後は孤独な状況の中で陣痛が起きて死産を迎えるという、あまりにも悲惨な曲もあります(これはラジオ番組中、ドリー自身が最もお気に入りの曲と語っていました)。

 この曲はその後、ナンシー・シナトラやマリアンヌ・フェイスフルなどにも歌われましたが、発表された1970年当時はラジオで放送禁止にもなりました。しかし、こんな悲惨で物議を醸す歌を歌っても、そのイメージが崩れることなく、明るいキャラを維持しているというのは本当に驚きでもありますし、それは恐らく彼女の深い人間性に根差しているようにも思えます。

 

 今回の記事、そして上記の話を含めたドリーのラジオ番組を聴いていて感じたのは、彼女のシンパシーや社会意識というのは、最近話題となっているような様々な問題よりももっと世の中の根底・底辺にあるという点です。

 アメリカでは多くの人達が知る有名な話ですが、ドリーはテネシーの片田舎で12人兄弟の4番目として生まれ育ち、幼少の頃は一部屋しかない“掘っ立て小屋”で暮らす極貧生活であったそうです(その家の写真が昔、彼女のアルバムのカバーに使われたこともありました)。

 厳しい冬を前にお母さんが端切れを縫い合わせてコートを作ってくれて、学校ではみんなに馬鹿にされても、彼女自身はそのコートを誇りに思う、という涙ものの話も有名ですが(これは彼女の代表曲の一つにもなっています)、そうした極貧時代の辛かった経験が、逆に彼女の優しさと芯の強さの基盤となっているようです。

 ドリーの慈善活動に関しては彼女自身が設立したドリーウッド基金による取り組みがよく知られていますが、彼女自身の経験がバックグラウンドとなっていることもあり、その対象は識字率の向上であったり、景気の落ち込んだ地域の雇用促進であったり、常に忘れられ、切り捨てられそうになっている社会の底辺に生きる人々に向けられています。

 彼女は保守か革新かと問われれば、間違いなく保守に属する人であると言えます。ですが、彼女の保守というのは世に言うところの政治的スタンスとしての保守ではなく、アメリカの良心、というよりも人間としての良心を保ち守る、という意味での保守と言えます。

 自分がかつて徹底的に弱者であったことから弱者を絶対に見捨てないという強い信念と行動(音楽においても、慈善活動においても)が彼女の“保守”であり、この極端なまでのピラミッド社会(つまり底辺の数が圧倒的に多い)であるアメリカにおいて、彼女の活動は保守も革新も、右も左も、誰もが支持する結果となっていることも特筆すべきことでしょう。

 

 ドリーはカントリー音楽界を代表する白人のアーティストですが、パティ・ラベルや故マイケル・ジャクソンを始めとする数多くの黒人アーティスト達との交友でもよく知られ、故ホイットニー・ヒューストンがドリーの曲をお気に入りのレパートリーにしていたこともよく知られています(映画「ボディ・ガード」で歌われた「I Will Always Love You」)。

 ドリーは私生活においては二十歳の時に結婚(相手は道路舗装業を営んでいた一般人)して以来、今もおしどり夫婦であり続けています。子供はありませんが、マイリー・サイラスの名付け親であるなど、多くの人達から母親的な存在ともされてきましたが、容姿ではなく中からにじみ出る彼女の母性というのは、若いころ幼い妹や弟たちの母親代わりを務めてきたことから来ているとも言われます。

 

 私自身も70年代からドリーのファンでしたが、この人の圧倒的なカリスマ的存在感と、それでいて温かで優しい包容力溢れる隣のお姉さん(当時)的な親しみやすさというのは、膨大な数のスター達の中でも全くもって唯一無二のものであり、極めてユニークであるとも言えます。

 また、彼女はアメリカのスター達の中では珍しく完全なノンポリであり、政治的な発言は決してしない人でもあるので、その意味でも益々左右両極化が進み、中道でさえも引き裂かれつつある今の荒れ果てたアメリカを、音楽によって癒すことのできる”切り札”となるかもしれない、という今回のラジオ番組や記事における意見は中々面白いと感じました。

 もしかするとドリー・パートンが2020年の大統領に?いや、そんなことはあり得ないと思いますが(笑)、トランプが大統領ということ自体があり得ないことでもあるので、今のアメリカであり得ないことは何もない、と言えるのかもしれません。

 なにしろ映画俳優が大統領(ロナルド・レーガン)になる国ですから、そろそろミュージシャンが大統領になってもおかしくはないかもしれませんね(ジェイZやカニエ・ウェストはその座を狙っているとも言われていますが…)。

 

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 November 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

             

 

 最近私は非常に悩んでいます。Amazonのサービスを利用し続けるべきか、やめるべきか…。いやこれはくだらない話のようで実はくだらない話ではないのです。つまりこれは、最近アメリカで大きな問題として取り上げられているプラスチック製品や容器の使用のように、単に使用をやめたり分別ごみを徹底させるというような話ではなく、自分の音楽ライフのみならず、ライフそのものに関わってくる問題もであるからです。

 私自身は現在、Amazonプライムの会員であることでAmazon Musicの特典(プライムに指定されているAmazon Music音源の無料ダウンロード/ストリーミング)やプライム商品の送料無料というサービスの“恩恵”を受けています。また、音楽関連のみならず、いわゆる生活必需品の類に至るまで、Amazonのオンライン・ショッピングというのは本当に便利なサービスであることは間違いありませんが、実はAmazonの触手はオンライン上の販売やサービスという世界とは別の分野にまで伸び、様々な面から人々の生活に大きな影響を及ぼしています。

 先月のニュース・レーターでも少し触れましたが、Amazonというのは今や流通業界を制しているだけでなく、データ・ビジネスの世界をも制しているわけですが、更に国や行政、軍ともつながることで、政治や一般社会のレベルにまでその影響力を広げてきているのは、まだ気づいていない人も多い重要な事実であると言えます。

 現時点において、この問題のコアな部分というのは、AmazonがICE(移民税関捜査局)に対して自社の顔認識テクノロジー(ソフトウェア)を提供しているという点です。つまり、現在のアメリカを二分する要因の一つにもなっている不法移民の摘発と強制退去に関してAmazonは“多大な貢献”を果たしているというわけで、サンフランシスコ市議会では市当局による顔認証監視技術の利用を禁止する条例案が可決しましたし、先日は400人近いミュージシャン達による抗議行動も行われました。

 Amazonはそれ以前から、プライバシーの問題に関する疑惑がありました。それはスマート・スピーカーとも呼ばれるAmazonのAI搭載スピーカーEcho(エコー)のユーザー達に起きたトラブルという形で話題沸騰したわけですが、このAI部分であるAlexa(アレクサ)が、プライバシーの侵害というよりも、結果的に個人情報の監視と盗用に一役買うという恐ろしい事態を招いたわけです。当のAmazonは中国内からのハッキング行為を理由にこの事件について弁明しましたが、何でも気軽に話せる“お相手”と思っていたAlexaの“ご乱心”(Hal 9000を思わせる異常な誤動作)に多くのユーザーは青ざめ、実はAmazon自体がAlexaを通して個人情報を監視・盗用しているのではないか、という疑惑も出てきたわけです。

 もう一つは、ニューヨークのロング・アイランド・シティに建設予定であったAmazonの第二本社に関する騒動です。ここは実は私が住んでいるエリアなのですが、もしもAmazonの第二本社ができると、地価が急上昇して多くの地元民が追い出される結果となりますし、Amazon移転による公共交通機関の大混雑と整備の必要性(つまり莫大な金がかかる)、そしてニューヨーク市や州による地元市民のための再開発費予算がAmazonへの助成金や税優遇措置によって大幅に削られる結果にもなります。そのため、この移転計画は地元の猛反発を食らって結果的には撤退となりましたが、Amazonは地元行政を抱き込んで引き続き移転の実現を画策していると言われています。

「今、中国よりも危険なのはAmazon」こんな意見も巷ではあちらこちらで聞かれます。

さて、皆さんはAmazonとどう付き合われますか?

 

 

トピック:ドリー・パートンはアメリカを癒せるか?

 

 アメリカは11月の第一月曜日の翌日火曜日が「エレクション・デー」、つまり選挙日です。よって、10月は選挙と政界絡みの話題が一層賑やかになりましたが、先日は故プリンスの地元ミネアポリスにおけるトランプの再選キャンペーン中に「パープル・レイン」が使用されたことにプリンスの財団が強く抗議したというニュースがありました。

 プリンスは2006年大統領選の6か月少しほど前に亡くなりましたが、選挙戦から大統領就任後もプリンスの財団はトランプに対してプリンスの一切の楽曲の使用不許可を通告し、昨年はプリンスの弁護団がトランプに対して公式・法的な手紙も出していました。ですが、法規などまるで気にしない(つまり無法者)トランプですから、性懲りもなくプリンスの曲を使っていたようです。

 

 2016年の大統領選時の本ニュー・レターでもお伝えしましたが、トランプはアメリカ史上で最も有名ミュージシャン達に嫌われている大統領と言え、逆に彼を支持する有名ミュージシャンというのは数える程しかいません。

 どこを向いてもアンチ・トランプだらけの有名ミュージシャン達の中でも特に目立っているのは、ニール・ヤング、リアナ、ジョン・レジェンド(とパートナーのクリッシー・テイガン)、エルトン・ジョン、ファレル・ウィリアムス、テイラー・スウィフト、セリーナ・ゴメス、スヌープ・ドッグ、エミネム、ブルース・スプリングスティーンなどといったところではないでしょうか。

 中でもジョン・レジェンドとクリッシー・テイガンに関してはトランプ自身も目の敵にしており、ことあるごとにツイッターで非難を浴びせていますが、不思議なことにトランプが毛嫌いしているジェイZとビヨンセは、トランプを非難しつつもあまり相手にはしていないようで、まだこれといった“直接対決”は実現していません。

 

 トランプにとっては”A級戦犯”とも言える上記有名ミュージシャン達に続いて、“B級戦犯”的存在とも言えるのがポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソン財団、ローリング・ストーンズ、ポール・ロジャース(フリー)、クイーン、(特にブライアン・メイ)、エアロスミス(特にスティーヴン・タイラー)、ガンズ&ローゼズ(特にアクセル)、R.E.M.(特にマイケル・スタイプ)、アデル、シャナイア・トゥウェイン、ルチアーノ・パヴァロッティなどと言ったところで、彼等は楽曲不使用を中心にトランプに対するノーを公表し続けています。

 

 そうした中で先日、「ドリー・パートンはアメリカを癒せるか」という面白い記事を見つけました。カントリー音楽のみならず、アメリカ音楽界を代表するアイコン的な元祖ディーヴァ&女王の一人であり、アメリカの国民的大スターとして、日本で言えば美空ひばり級の人気・地位・評価を誇るドリーですが、彼女こそが、南北戦争以来と言われるほどに分断され、反目・憎悪と攻撃的な姿勢・論争に満ち溢れた今のアメリカを、その音楽と人間性または存在感によって癒すことができるのではないかという内容でした。

 

 そもそもこの記事の発端となったのは、ニューヨークのローカルFM局であるWNYCのポッドキャスト(インターネット・ラジオ)・プログラムとして去る10月15日から12月8日まで週一でスタートしたトーク番組で、10月末の時点で既に3つのエピソードが配信されています。プロデューサー兼ホストのジャド・アブムラドはレバノン移民のアメリカ人ですが、ドリー・パートンと同じくテネシー州の出身で、アメリカの社会・世相を反映した切り口の鋭いラジオ番組をプロデュース(そしてホスト)することで知られています。

 今回のドリー・パートンの番組でも、彼自身によるドリーへのインタビューを軸に、ゲストも交えながら自らコメント・分析し、話の前後で、過去のドリーのインタビューやレコード、コンサート、テレビ番組などの音源も実に手際よくカットアップしてつなぎ合わせ、1時間近いプログラムを全く飽きさせずに仕上げています。

 

 番組の作りも実に印象的で興味深いと言えますし、ドリー・パートンの功績よりも、その実像をアメリカの社会や動きと対比させながらくっきりと浮かび上がらせる手法は見事と言えますが、やはり最も印象的なのは、ドリー・パートンという稀有なミュージシャンその人であると言えます。

 ドリーはジョークのセンスにも非常に長けた人で、相手のジョークや突っ込みを一層のジョークで笑い飛ばすことでも知られています。とにかく明るく陽気で優しいお姉さん(かなり過去)⇒おばさん(少し過去)⇒お婆さん(現在)というイメージで、これまでも特定の個人やグループを傷つけることも怒らせることもなく(狂った性差別主義者から脅迫されたことなどはありましたが)、50年以上その強烈なキャラを維持し、愛されてきたことは驚くべきことです。

 

 また、彼女はファン層の広さにおいてもダントツで、そのグラマラスな容姿やキャラからLGBTQコミュニティでも非常に高い支持を集めている一方で、ゴリゴリの保守派・原理派クリスチャンのおばさん達にも愛され、フェミニストのキツいお姉さんたちからも一目置かれている一方で、トラック野郎や炭鉱労働者などのマッチョな男達からも愛されるという点は、マリリン・モンローとレディ・ガガが合体?したような振れの大きさとでも言うのか、他に類を見ないユニークな存在と言えます。

 しかも、ドリーの面白さは、そうした幅広い層の全てに対して愛情を持ちつつも、特定のグループとは同調・共闘はしない(逆の言い方をするならば、相手を攻撃しない)という、全てに関してある一定の距離を置いているとも言える点で、そこには本来アメリカの美徳でもあった個人(尊重)主義が貫かれているという見方もできます。

 

 シンガー/パフォーマーとしてのインパクトが強い彼女ですが、実は彼女自身はシンガーである前に作曲家として活躍・成功したシンガー・ソングライターです。

 これは私自身、今回のラジオ番組で再認識したことですが、彼女の初期の曲というのは、彼女自身が「Sad Ass Songs」(「悲しい歌」に「Ass=ケツ(尻)」という言葉を挟むことで汚っぽく強調しているスラング。彼女はちょっと汚いスラングをよく使うのですが、それも逆に親しまれている点でもあります)と呼んでいるように、ひどい話の悲しい歌というのが数多くあります。

 それは、女性ならではの心の痛み、古い女性観から来る女性の行動(主に性行動)に対する偏見・非難、女性(妻)に対する家庭内暴力、男(夫)に騙されること・男(夫)を騙すことによる苦痛、を告白・代弁するといったかなり生々しい内容です。そうした中の頂点の一つとして、未婚の若い女性が妊娠したことで相手の彼氏や自分の家族にも見放され、最後は孤独な状況の中で陣痛が起きて死産を迎えるという、あまりにも悲惨な曲もあります(これはラジオ番組中、ドリー自身が最もお気に入りの曲と語っていました)。

 この曲はその後、ナンシー・シナトラやマリアンヌ・フェイスフルなどにも歌われましたが、発表された1970年当時はラジオで放送禁止にもなりました。しかし、こんな悲惨で物議を醸す歌を歌っても、そのイメージが崩れることなく、明るいキャラを維持しているというのは本当に驚きでもありますし、それは恐らく彼女の深い人間性に根差しているようにも思えます。

 

 今回の記事、そして上記の話を含めたドリーのラジオ番組を聴いていて感じたのは、彼女のシンパシーや社会意識というのは、最近話題となっているような様々な問題よりももっと世の中の根底・底辺にあるという点です。

 アメリカでは多くの人達が知る有名な話ですが、ドリーはテネシーの片田舎で12人兄弟の4番目として生まれ育ち、幼少の頃は一部屋しかない“掘っ立て小屋”で暮らす極貧生活であったそうです(その家の写真が昔、彼女のアルバムのカバーに使われたこともありました)。

 厳しい冬を前にお母さんが端切れを縫い合わせてコートを作ってくれて、学校ではみんなに馬鹿にされても、彼女自身はそのコートを誇りに思う、という涙ものの話も有名ですが(これは彼女の代表曲の一つにもなっています)、そうした極貧時代の辛かった経験が、逆に彼女の優しさと芯の強さの基盤となっているようです。

 ドリーの慈善活動に関しては彼女自身が設立したドリーウッド基金による取り組みがよく知られていますが、彼女自身の経験がバックグラウンドとなっていることもあり、その対象は識字率の向上であったり、景気の落ち込んだ地域の雇用促進であったり、常に忘れられ、切り捨てられそうになっている社会の底辺に生きる人々に向けられています。

 彼女は保守か革新かと問われれば、間違いなく保守に属する人であると言えます。ですが、彼女の保守というのは世に言うところの政治的スタンスとしての保守ではなく、アメリカの良心、というよりも人間としての良心を保ち守る、という意味での保守と言えます。

 自分がかつて徹底的に弱者であったことから弱者を絶対に見捨てないという強い信念と行動(音楽においても、慈善活動においても)が彼女の“保守”であり、この極端なまでのピラミッド社会(つまり底辺の数が圧倒的に多い)であるアメリカにおいて、彼女の活動は保守も革新も、右も左も、誰もが支持する結果となっていることも特筆すべきことでしょう。

 

 ドリーはカントリー音楽界を代表する白人のアーティストですが、パティ・ラベルや故マイケル・ジャクソンを始めとする数多くの黒人アーティスト達との交友でもよく知られ、故ホイットニー・ヒューストンがドリーの曲をお気に入りのレパートリーにしていたこともよく知られています(映画「ボディ・ガード」で歌われた「I Will Always Love You」)。

 ドリーは私生活においては二十歳の時に結婚(相手は道路舗装業を営んでいた一般人)して以来、今もおしどり夫婦であり続けています。子供はありませんが、マイリー・サイラスの名付け親であるなど、多くの人達から母親的な存在ともされてきましたが、容姿ではなく中からにじみ出る彼女の母性というのは、若いころ幼い妹や弟たちの母親代わりを務めてきたことから来ているとも言われます。

 

 私自身も70年代からドリーのファンでしたが、この人の圧倒的なカリスマ的存在感と、それでいて温かで優しい包容力溢れる隣のお姉さん(当時)的な親しみやすさというのは、膨大な数のスター達の中でも全くもって唯一無二のものであり、極めてユニークであるとも言えます。

 また、彼女はアメリカのスター達の中では珍しく完全なノンポリであり、政治的な発言は決してしない人でもあるので、その意味でも益々左右両極化が進み、中道でさえも引き裂かれつつある今の荒れ果てたアメリカを、音楽によって癒すことのできる”切り札”となるかもしれない、という今回のラジオ番組や記事における意見は中々面白いと感じました。

 もしかするとドリー・パートンが2020年の大統領に?いや、そんなことはあり得ないと思いますが(笑)、トランプが大統領ということ自体があり得ないことでもあるので、今のアメリカであり得ないことは何もない、と言えるのかもしれません。

 なにしろ映画俳優が大統領(ロナルド・レーガン)になる国ですから、そろそろミュージシャンが大統領になってもおかしくはないかもしれませんね(ジェイZやカニエ・ウェストはその座を狙っているとも言われていますが…)。

 

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 October 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

             


 最近、どうにもスマホやiPodで聴く音楽(音質)に飽き飽きして、時代と逆行するのは承知の上でポータブルのCDプレイヤーを購入しました。アメリカでは中高年層や人種・人口的にマイノリティとされる移民を中心に、ポータブルCDプレイヤーの需要というのはまだまだあります。SONYやパナソニックも依然人気ブランドですし、アメリカのオーディオ機器メーカーや家電メーカーの安価ブランドも根強い人気がありますが、それらのほとんどは中国製です。更に最近は、中国ブランドの進出が著しく、高級モデル並みの高音質やスペックを破格の値段で実現しているため、評価・レビューも高く、ダントツの人気とベスト・セラーを誇っています。

 しかし、天邪鬼の私はそうした製品には手を出す気になれず、いろいろと探して日本製日本ブランドのプレイヤーを見つけて手に入れました。ブランドはオンキヨー(オンキョーではありません)で、裏には1992年8月製造というラベルが貼ってあり、「MADE IN JAPAN, NISSHIN-CHO NEYAGAWA-SHI OSAKA」と明記されています。

 発売当時は、カセット・ウォークマンもCDウォークマンも、そのコンパクトさと軽量化に感動したものですが、スマホ時代の今となっては「ポータブル」とも言えないほどデカいし、重いし、すぐに音飛びするし、ディスクや電池の交換も面倒だし、若者には驚きのまなざしで見られるし、という有様。人によってはジャンクとも言われてしまうビンテージ機器をカバンに入れて、ニューヨークの地下鉄やストリートで音楽を聴いている私をアホな物好きと呼ぶ人もいますが、しかしこの音には何故か安心感や心地良さを感じます。状態の良い品に当たったため、27年経っても再生機能はもちろんのこと、全て問題無く作動するのもラッキーでしたが、思えば90年代半ばころまでは、日本はオーディオ機器でも楽器でも車でも、本当にクオリティの高い製品を作っていたと思います。実はアメリカ人の中にもそのことを良く知っている人間は多いですし、今も日本製を愛用している人間にも時折出会うことがあります。

 肝心の音質ですが、ポータブル機器はやはりポータブル機器ですし、最近の高品質指向をこの機器に求めようとは思いませんし、高級なイヤホン/ヘッドホンを組み合わせようとも思いません。そもそも、耳の問題で密閉型ヘッドホンやイヤホンが苦手な私は必然的にノイズ・キャンセリングとは無縁であり、最近流行りのハイレス(ハイレゾ)ヘッドフォンにもそれほど興味がなく、この古びたディバイスとの相性も考えて小さな開放型ヘッドホンを使っています。そもそも、世界一の騒音都市ニューヨークの街中では音質も何もあったものではない、とも言えますが、私自身は街の騒音と音楽の混ざり具合というのが結構好きで、ちょっと違った(変わった?)音楽鑑賞法の一つとして楽しんでいます。
 ですが、この機器の本領発揮となるのは、やはりカフェなどの静かなスペースでゆったりと音楽を聴く時であると言えます。最近はすっかり耳慣れたスマホの音とは違う音の質感を、どう説明すれば良いのでしょうか。そこに90年代当時のCD主流であった音楽制作現場の“息吹”のようなものをも感じるというのは私の妄想でしょうか。今回は、そんなイントロから本題に入っていきたいと思います。

トピック:「ハイレゾ」と「ロスレス」の魅力と罠?
世の音楽ファン、特にオーディオ・マニア系の音楽ファンには、「音質はレコードからCD への移行、更にCD からダウンロードやストリーミング(デジタル・ファイル)への移行によって悪化している」と主張する人が多いと言えますが、この主張に対して皆さんは同意されますでしょうか。または、どのように反論されますでしょうか。音質というのは、可聴範囲というフィジカルな面と、好みや心地よさといったメンタル面や感覚面の両方に関わってきますので、万人にとっての統一見解や回答というのはあり得ないと言えます。

 例えば私自身は以前、耳の病気を患ったときに聴力検査というものを何度となく受けた経験がありますが、その時の検査によって、私の聴力はあるレベルの高周波の音には非常に敏感で、逆にあるレベルの低周波の音には鈍感であるということが分かった(診断された)のですが、こうした可聴範囲の差異というのは誰にでも少なからずあることであると思います。

音質の好みや心地よさといったメンタル・感覚面に関しては、更に人によって千差万別です。特にその人にとっての”良い音”というのは極めて感覚的・主観的なものと言えますし、透き通ったような高域のクリアなサウンドが好きなのか、中域の膨らんだ温かなサウンドが好きなのか、いわゆるドンシャリの音が好きなのか、または、とにかく重低音がブーストしてないと気持ちよくない等々、人によって好みはそれぞれです。「原音再生」や「ライヴ音再現」、また「音の解像度」といった言い方や音のクオリティの基準と言われるものもありますが、これも「原音」やライヴの音を捉える聴覚や感性によって“再生度”・“再生具合”も変わってきますし、音を数値で解像することは可能であっても、実際にそれらをどう知覚し、感じるかによって、「解像度」自体も絶対的な価値を持つとは言えなくなってきます。ですが、そうした中にも音の良し悪しではなく、聴覚や感性でもない、テクノロジーに関する明確な“違い”というものは明らかに存在します。それはつまりアナログ(LP)とデジタル(CD)という音の記録・再生方式の違いと、同じデジタルにおいても圧縮の有(MP3 などのデジタル・ファイル)無(CD)といった音の保存方式の違いです。改めて説明するまでもなく、圧縮というのは言葉通り音を圧縮するわけではなく、聴感上において問題ないと思われる(つまり、人間の可聴範囲を超える音域情報)を間引き(カット)してデータ量を減らすわけです。よって、カットされること自体は音質の低下と言えますが、要はカットされた音を人間は聞き分けられるのか、という問題が残ります。

圧縮率はビットレート(kbps)という単位で表されますが、諸説異論はあるものの、一般的に人間が圧縮音源の音質差を聞き分けられるのは、せいぜい128kbps か160kbps程度までとも言われています。例えばアメリカにおいて最も人気の高いストリーミング・サービスであるSpotify の場合、モバイル向けには96kbps、デスクトップ向けには160kbps、そして有料のプレミ
アム会員は、高音質の320kbps のビットレートとに分けて圧縮して配信しています。Spotify のプレミアムは音質の良さが売りですし、実際に私の周りのプレミアム会員達もそのことを強調しますが、その一方で私の周りのAmazon Music やApple Music(どちらも256kbps)愛用者達の多くは、Spotify プレミアムの高音質というのは聴覚上はAmazon Music やApple Music と変わらないとも主張しています。また、Spotify に続く人気ストリーミング・サイトのTidal は1411kbps という、い
わゆる「ロスレス」を実現させ、Spotify やAmazon、Apple などとは比較にならない高音質を売りにしていますが、ここまで来ると判別・比較は更に難しいと言えるようです。実際にこちらのメディアでは以前、数曲の音源をそれぞれ160kbps、320kbps、1140kbps の3 種類のビットレートで聞かせる比較テストを一般に公表して話題になりましたが、その違いを判別できた人は半数にも満たなかったとのことです。そうした中で、Spotify がTidal 並み、またはそれ以上の高音質を実現するSpotifyHiFi の開発に取り組んでいるというニュースがあったのが2 年以上も前のことでした。しかし、2019 年9 月現在、このSpotify HiFi のサービスはまだ登場してはおらず、どうなったのかと思っていたところに、何とアマゾンが去る9 月にAmazon Music のコンテンツを高音質の「ロスレス」で聴くことのできるストリーミング・サービス、Amazon Music HD をスタートさせました。デジタル・ファイルの圧縮に関しては、これまでほとんどがデータ量を削減するロッシー圧縮(非可逆圧縮)によって行われてきたわけですが、今回のAmazon の新サービス登場によって、時代はいよいよ、データを削減しないロスレス圧縮(可逆圧縮)の時代に突入したと言えるのかもしれません。

 ちなみに、Amazon Music HD のビットレートは最大850kbps とのことで、Tidal には少々及びませんが、それでもこれまでの2.5 倍以上の数値です。更に今回、Amazon はHD の上のULTRA HD という目下最高音質のサービスも開始させ、こちらは何と3730kbp という、これまでの10 倍以上の数値となっています。また、Amazon のHD はビット深度(量子化ビット数)16 ビットにサンプリング周波数44.1kHZ という、通常のCD 仕様(リニアPCM 方式)を実現していますが、その上ULTRA は24 ビットで192kHZ という「ハイレゾ」CD、またはDVD-Audio と同じ規格を実現しています。

 アメリカのメディアは音楽系を中心に今回のAmazon Music HD のニュースを様々な面からかなりポジティヴに捉えていると言えますし、ストリーミングに関して特に若年層ユーザーではSpotify などに遅れ気味であったAmazon が、いよいよストリーミングの最前線におどり出し、物販の世界を制覇したAmazon が今度はデータ販売の世界も制覇するであろう、といった扇動的な論調まで出ています。しかし、Amazon は何かと敵やAmazon 嫌いも多いですし、一般レベルから専門分野に至るまで、Amazon Music HD の高音質、そして「ロスレス」そのものに対しての懐疑的な意見・論調も見受けられます。特に肝心の音質面においては、再生機器がスマホとイヤホン使用が圧倒的な現状においては、ディバイス側の対応や互換性の問題も含め、ユーザーの耳に届く音の段階で、HD やULTRA の優越性というものがどれだけ感じられるのか、という疑問です。また、音質を追求すれば容量が増えていくことになるわけで、益々「データ・ビジネス」の罠にはまっていくことになり、つまりそれこそがAmazon の狙いである、という別の見方もあります。

 そうした状況の中で、イヤホン/ヘッドホンも高級・高品質化がかなり進み、イヤホン/ヘッドホンに100 ドル台(人によっては200~300 ドル台)のお金をかける若い音楽ファンもずいぶんと増えてきているようです(私は地下鉄に乗っている時でも、周囲の人間が使用しているイヤホン/ヘッドホンにどうしても目が行ってしまいます)。そうした機器の中には「ハイレゾ」(英語ではハイレス:Hi-Res)仕様のものも増えてきていますが、これに関してもユーザーとメディアの両サイド(更にはメーカー・サイドにおいても)で賛否両論があると言えます。この問題は冒頭でも述べたように、聴覚というフィジカルな部分と“聴いた感じ”という感性的な部分との両面が関わってくるため、数値のみで立証したり、優劣をはっきりと結論付けるのは難しいのですが、私がこちらで長年一緒に仕事をし、信頼している優れたマスタリング・エンジニア(アメリカ人)の話が私としてはかなり同意・納得できるものと言えました。それは、例えば再生周波数帯域が広い、いわゆる「ハイレゾ」仕様のイヤホン/ヘッドホンで聴いたからといって今まで聴こえなかった音が聴こえるということではなく、“聴こえ方”が違ってくるのだ、というものです。
人間の可聴範囲というのは大体20Hz~20kHz と言われていますので、その範囲をカバーしているイヤホン/ヘッドホンであれば問題はないわけですが、例えば5Hz~40kHzなどといった「ハイレゾ」仕様のイヤホン/ヘッドホンの場合は、可聴範囲外の音が直接聴こえるわけではなく“含まれている”ことによって、音の緻密さや自然さといった“聴こえ方”に影響を及ぼすというわけです。

 しかし、騒音に満ちたニューヨークで、特に地下鉄などで音楽を聴くのであれば、そんなものは何の意味もなく、ノイズ・キャンセリング機能をもったイヤホン/ヘッドホンの方が高音質を求める上でははるかに効果的だ、とも彼は言っていました。
そしてこの“聴こえ方”の問題に関して、このエンジニア氏は再生周波数よりもサンプリング周波数の違いの方が重要であるとも話していました。つまり、サンプリング周波数が44.1kHz に比べて192kHz というのは1 秒間に読み込むデータの細かさが4.5 倍近いわけで、その細かさの方が音の緻密さや自然さに直結するというわけです。実はこれは結果的にレコードの音質に近いものとも言えるようですが、これも再生機次第であることには変わりがありませんので、現在のスマホ自体または対応ディバイス自体が更にグレードアップしていかない限り、現状においてHD やULTRA の優位性をそのまま捉えることには懐疑的である、との意見でした。それよりもこのエンジニア氏が強調していたのは、感性と経験に支えられたマスタリングの意義・重要性でした。これはマスタリング・エンジニアとしてはもっともな意見であると思いますが、レコードの時代からCD を経てデジタル・ファイルに変わり、今回の「ハイレゾ」に至るまで、マスタリングというのはそのフォーマットの特性に合った、そしてその時代や人々(アーティストとリスナー双方)が求める音に仕上げられていったという背景があります。

 このエンジニア氏が音楽の世界、特にミュージシャンからエンジニアの世界に入っていくきっかけとなったのは、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク52 番街」であったというのも興味深い話です。ご存じのようにこのアルバムは1992 年に世界で初めて商業CD 化された作品であるわけですが、1978 年の発売直後からレコードで愛聴していたこのエンジニア氏は、CD 版発売後、あるミュージシャンの家でCD 版を聴いてその音の違いに驚愕したそうです。そして彼は、音楽を作曲や演奏という方法で生み出さなくても、エンジニアリングという技術と才能で生み出す方法がある、と確信したのだそうです。実際に、音楽・音源は同じでも、レンジや音質特性の異なるレコード、CD、デジタル・ファイル、そして「ハイレゾ」ではマスタリングは異なるわけですし、そこには単なるテクノロジーや数値だけではない、職人の感性と経験というものがしっかりと介在しているわけです。

 そうして生み出された音楽メディアに接するリスナーは、そこから更に自分の聴覚と感性に応じていろいろな“聴こえ方”を楽しむことができる(事実これまでも楽しんできた)のだと思います。「ハイレゾ」、「ロスレス」の議論はこれからも続くでしょうし、それらに合わせた機器やアプリは次々と登場してくると思います。ですが、そこには常に送り手と受け手の側の知覚と感性という両面が、記録された音楽を感動と共に生き生きとしたものに甦らせてきたことを忘れてはならないと思います。

 つまり、そうした“作業”をAI の手に譲り渡してはならない、というオチで今回のニュースレターの〆(シメ)とさせていただきます。

【I Love NY】月刊紐育音楽通信 September 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

             

 

 私がニューヨークが好きな理由の一つに、大都会でありながらも緑が多いということがあります。マンハッタンを初めとするニューヨーク市内には、本当に公園と木々が数多くあり、それが理由に鳥や小動物達も数多く共存しています。

 更に市外に出れば、あっという間に豊かな自然の中に包まれていくことになりますし、州として見れば、ナイアガラの滝も州内にあるニューヨーク州は全米でも屈指の自然の豊かな州でもあるわけです。

 物価の安さや、人々の優しさ・暖かさ・穏やかさという面も大きな魅力です。東海岸は都心部を離れると圧倒的に白人が多くなり、有色人種にとっては居心地の悪さや問題も無いとは言えませんが、それでも全米50州の中でもニューヨークは自由と平等に対するリベラル感覚がダントツに高いと思うのは少々地元びいきが過ぎるでしょうか。

 音楽に関しても、マンハッタンから車で1時間ほどのエリアでも魅力的なミュージック・ヴェニューが数多くありますが、マンハッタンの東側ロングアイランドのウェストバリーという町にあるシアター・アット・ウェストバリーは、キャパ3000人弱のアリーナ・タイプの中型シアターで、ステージがゆっくりと回転することから、客席のどこに座っても同様に楽しめるという点が特徴です。

 シアター内の飲食物もマンハッタンに比べると圧倒的に安くて量も多くて種類も豊富ということで、観客には嬉しいことばかりであると言えます。しかも、観客は地元の人達がほとんどですので、シアター内は演奏前後の飲食エリアも演奏中の観客席も和気あいあいといった感じで、マンハッタンでは味わえないくつろいだ雰囲気は、ニューヨークの豊かな音楽カルチャーの一面を物語っているとも言えるでしょう、

 

トピック:ニューヨークを代表するコンサート・ヴェニュー

 

 今年の夏は、私自身としては例年以上にライヴ・パフォーマンスに足を運んだ感がありますが、ニューヨークのコンサート事情が大分変化してきていることも実感します。私が始めてニューヨークでコンサートに足を運んだのは1977年2月、マジソン・スクエア・ガーデン(以下MSG)におけるKISSの全米ツアー(その約1ヵ月半後に日本初来日公演を果たします)でしたが、思えばそれ以降、数々のコンサートに足を運びつつも、数々の名演を残してきたホール/シアターが生まれては消え、消えては生まれていきました。

 以前、私よりもちょっと世代が上の人達からは「フィルモア・イーストはもう無いんですよね?」と尋ねられたこともよくありましたが、1968年から1971年までの約3年ちょっとの間に、当時“ロックの教会”とまで言われて多くの名盤も残した、イーストヴィレッジにあったこの歴史的なコンサート・ホールなどはその代表的な存在と言えるでしょう。このホールはその後ゲイ・バーにもなりましたが、その入り口は今は銀行となっており、当時を偲ばせるものはありません。

 

 いわゆるスタジアムやアリーナ、また大ホールを除くと、ニューヨークのホールというのは昔、様々な人種や民族の移民達の集会所的な劇場や、かつては富裕層が集まって賑わったいわゆるボールルームと呼ばれる“舞踏場”であったケースが多いと言えます。  

 従って、改装は何度か行っていても、元々が古い建物ですし、内装も昔の雰囲気を残しているホールが非常に多いと言えます(それが“ニューヨークのホールはボロい”とよく言われる所以でもあります)。

 例えば、フィルモア・イーストというのは、そもそもはユダヤ人達の居住エリアにあったこともあって、ユダヤ人達の劇場の一つだったわけです。

 更にこのフィルモア・イーストは、70年代末から80年代にかけてパンクやニュー・ウェーヴの拠点的なホールであったアーヴィング・プラザ(約1000人収容)にその名前を付け加えて、2000年代には「フィルモア・ニューヨーク・アット・アーヴィング・プラザ」と名付けられていましたが(その後、フィルモアの部分は取り除かれて、現在は以前のアーヴィング・プラザの名称に戻っています)、このホールもそもそもはポーランド系移民のコミュニティ・センターでした。

 

 そんなわけで、今回はニューヨーク(ニューヨーク市内中心)を代表する現在運営中のミュージック・ホール/シアター/アリーナについて少しお話しようと思います。と言っても全てをご紹介できるわけではありませんし、いわゆるクラブと呼ばれるライヴハウスに関しては今回は除外しました。

 

 まず規模の大きさから話を始めるとなれば、ニューヨーク最大級のアリーナは旧名ジャイアンツ・スタジアムのメットライフ・スタジアム(約8万人収容)です(厳密に言えば、ここはニュージャージー州、つまり他州となるわけですが)。例えばローリング・ストーンズやブルース・スプリングスティーンといった超大物のコンサートとなれば、まずはこことなります。

 他にはヤンキー・スタジアム(約5万人収容)とシティ・フィールド(約4万5千人収容)もありますが、前者はヤンキース、後者はメッツというニューヨークの大リーグ(MLB)・チームの球場で、春から秋までがシーズンとなるため、音楽イベントとして使用できる回数はそれほど多くはありません。それに対してメットライフ・スタジアムはニューヨークのアメフト(NFL)・チーム、ジャイアンツとジェッツの本拠地で、フットボールは秋から冬にかけての寒い時期に行われますので、NFLのシーズン・オフとなる春夏のコンサート・シーズンにはうってつけとなるわけです。

 ちなみに、ビートルズのニューヨーク公演でも有名なシェイ・スタジアム(約6万人収容)は上記メッツの本拠地でしたが、隣接した当時の駐車場部分に新たにできたのが上記シティ・フィールドであり、シェイ・スタジアムの跡地は現在シティ・フィールドの駐車場となっています。

 

 規模の大きさで言えば、これまで何度も歴史に残る野外コンサートが行われたセントラル・パーク(サイモン&ガーファンクルのコンサートで50万人以上収容)もありますが、ここは特設の音楽イベント・エリアとなりますので、今回はそれ以上は触れません。

 

 スタジアムに続く、いわゆるコロシアムやアリーナとも呼ばれるクラスが前述のMSG(約2万人収容)、ブルックリンのバークレーズ・センター(約1万7千人収容)、そしてNY市外・郊外のロングアイランドにあるナッソ-・コロシアム(約1万7千人収容)となり、スタジアムは別格として、通常はこれらがメジャー・アーティストの最大級コンサート会場となります。

 これらのコロシアムは基本的にはスポーツ・アリーナであり、MSGはバスケ(NBA)のニックスとホッケー(NHL)のレンジャースの本拠地であり、バークレーズはバスケ(NBA)のネッツ、そしてナッソーはホッケー(NHL)のアイランダーズの本拠地となります。

 

 これらに近いキャパシティー規模ですが、マンハッタンを離れた野外アリーナとして夏を中心に人気の高い音楽ヴェニューが、ニューヨーク郊外ロングアイランドの海に面したジョーンズ・ビーチ・シアター(約1万5千人収容)と、昔のUSオープン・テニスの会場であったニューヨーク市クイーンズ区のフォレスト・ヒルズ・スタジアム(約1万4千人収容)です。

 ジョーンズ・ビーチは、セントラル・パークの無料野外コンサートであるサマー・ステージと共に、ニューヨークの夏の音楽風物詩を物語る人気ヴェニューで、潮風を受けながら飲み物を片手に音楽を楽しめるのが魅力ですが、意外とニューヨーカーでもあまり知らない人がいて、行ったことがない人も多いのがフォレスト・ヒルズ・スタジアムです。

 それもそのはず、全米初のテニス・スタジアムであるこのスタジアムは、USオープン・テニスのメイン・コートとして1923年にオープンしましたが、1978年にUSオープン・テニスの会場が現在のフラッシング(同じくニューヨーク市クイーンズ区でメッツのシティ・フィールドの隣り)に移ってからは、90年代まではまだコンサートも行われていましたが、それ以降は半ば廃墟と化していきました。それが2013年からは野外コンサート・ホールとして復活したのですが、閑静な高級住宅街の中にあるため、近隣住民との騒音問題でコンサート自体はそれほど頻繁に行っていません。

 しかし、このスタジアムは特に1960年代から70年代にかけてはニューヨークを代表する音楽ヴェニューとして知られ、ビートルズ、フランク・シナトラ、ジュディ・ガーランド、ダイアナ・ロスとスプリームス、ジミ・ヘンドリクス、ローリング・ストーンズ、バーバラ・ストライザンド、ドナ・サマーなどといった様々な音楽ジャンルの錚々たるアーティスト達が名演を繰り広げてきた、“忘れ去られたコンサート会場”でもあるわけです(かつて、日本のアルフィーもここでコンサートを行いました)。

 

 次に1万人以下ながら大ホールとして代表的なのがラジオ・シティ・ミュージック・ホール(約6千人収容)です。1932年オープンという歴史のあるホールで、既に85年も続いているニューヨークを代表するクリスマス・ショー「クリスマス・スペクタキュラー」の会場として知られています。

 建設当時の流行でもあったアール・デコ調のデザイン(1930年には同じくアール・デコ調のクライスラー・ビルがオープン)が特徴的なこのラジオ・シティは、元々メトロポリタン歌劇場のオペラ・ハウスとして計画されたのですが、ロックフェラー・センターの建設で劇場はその一部となり、結果的に複合メディアの大シアターに計画変更されたといういきさつがあります。名前も当時最大のメディアであったラジオにちなんでいるわけですが、オープン当時は世界最大のオーデトリアムと言われ、2つの劇場がありましたが、その後、改築・増築、破産・再建といった紆余曲折の長い歴史を経て、現在の姿となったのが1980年のことです。

 今も大物アーティストの公演が行われていますが、どちらかというとイベントやスペシャル・プログラムといった傾向が強く、これまでトニー賞、エミー賞、グラミー賞の受賞式、MTVビデオ・ミュージック・アワードの受賞式、またアメフトのNFLのドラフトなども行われています。

 

 メトロポリタン歌劇場のオペラ・ハウスは1880年代からありましたが、その後上記ロックフェラー・センターによる計画断念を経て、現在のオペラ・ハウス(約3800人収容。アメリカン・バレエ・シアターの本拠地でもある)がリンカーン・センターにできたのは1966年です。

 このリンカーン・センターには他に2つの大劇場があり、ニューヨーク・フィルの本拠地であるデヴィッド・ゲフィン・ホール(約2700人収容)とニューヨーク・シティ・バレエの本拠地であるデヴィッド・コーク・シアター(約2500人収容)が隣接して建ち並び、これらに加えて、ミッドタウンにあるカーネギー・ホール(約3000人収容)がクラシック音楽における代表的な大ホールとなります。

 

 カーネギー・ホールは1891年オープンという、ニューヨークで現存する最古のミュージック・ホールとなりますが(実は1886年オープンのウェブスター・ホールという現クラブがありますが、場所と建築はそのままながら、中身はすっかり改装されています)、アコースティック音響は今も本当に素晴らしく、時折通りの騒音が聞えてくるという驚くべき欠点もありますが、実は上記のデヴィッド・ゲフィン・ホールの音響の悪さはニューヨークでも有名ですし、いまや地元の名門ニューヨーク・フィルの演奏をこの名門ホールであるカーネギーで聴けないというのは何とも残念でなりません(1962年までは、このカーネギーがニューヨーク・フィルの本拠地でした)。

 ちなみに、カーネギーは今や完全な貸ホールとなっており、基本的にはレンタル料さえ払えば借りることは可能となっています。

 

 クラシック音楽においては3000人前後の規模は大ホールと言えますが、ロック/ポップスなどのポピュラー音楽系ですと、ニューヨークではこのキャパ・クラスは中規模または小ぶりの大ホールといった括りになります。代表的なホールとしては、どちらも歴史のあるハマースタイン・ボールルーム(約3500人収容)とビーコン・シアター(約3000人収容)が挙げられます。

 1906年オープンのハマースタインは、メトロポリタンとは別のオペラ団の本拠地としてスタートし、スポーツ、受賞式、テレビ番組収録、大会議などにも対応できる構造・設備となっていることから、これまで音源のみならず映像としても様々な名作品を世に送り出してきました。昔はフリー・メーソンの集会場としても使用され、70年代には統一教会に買い取られもしましたが、かなり老朽していながらもアコースティック音響は中々素晴らしいと言えます。

 もう一つのビーコンは1929年にオープンした映画館でしたが、70年代以降はコンサート会場としてニューヨーカーに愛されてきたシアターで、様々な有名バンドが定期的なコンサートを行っていることでもよく知られています。中でも1992年から2014年の解散まで、ほぼ毎年10回以上の連続公演を行ってきたオールマン・ブラザーズ・バンドは、このビーコンをニューヨークの本拠地にしてきたと言えます。

 

 この3000人キャパ・クラスのホール/シアターは、音楽興業ビジネスにおいては最もディマンドや利用率も集客数も高い、ニューヨークのコンサート・カルチャーの中心とも言えます。もちろん、ニューヨークの音楽シーンは多数のクラブ(ライヴ・ハウス)によっても支えられているわけですが、コンサート形式となれば、2000~3000人規模のヴェニューが、運営サイドとしても最も魅力的且つリスクの少ないビジネスであるとも言えますし、今も新たなヴェニューが次々と登場しています。

 

 タイムズ・スクエアのど真ん中にあるプレイステーション・シアター(約2100人収容)は、2005年オープンですので、もう14年が経ちますが、巨大スクリーンや無数のテレビ・モニター、最新型の電光掲示板などのマルチ・メディア機能を備えた新しいタイプのシアターとして登場し、その後のシアター作りにも大きな影響を与えました。ですが、残念なことに今年12月にはクローズと発表されています。

 

 このプレイステーション・シアターを運営するイベント会社のザ・バワリー・プレゼンツ(現在はAEG Liveが株式取得)は、ここ数年特に注目の存在で、マンハッタンとブルックリンに斬新なコンセプトのホール/シアターを次々とオープンさせています(前述のフォレスト・ヒルズ・スタジアムやウェブスター・ホールも運営)。

 その中でも特に、以前麻薬取り締まりによってクローズした有名なナイトクラブを改築・改装し、2007年に改装オープンしたターミナル5(約3000人収容)と、鉄工所をそのまま利用したライヴ・スペースである2017年オープンのブルックリン・スティール(約1800人収容)は、今最も注目度の高いミュージック・ヴェニューであると言えます。

 また、ハリケーンによる壊滅的な損害から復興したサウス・ストリート・シーポートにあるピア17のルーフトップに昨年2018年にオープンしたルーフトップ・アット・ピア17(約3000人収容)は、特にニューヨーカーには人気の高いスポットであるルーフトップそのものをコンサート会場に仕上げるという新しいコンセプトのヴェニューと言えます。

 

 その他にも小規模のシアター/ホール、クラブとホールの中間的なヴェニューなど、ご紹介したいニューヨークの音楽ヴェニューはまだまだたくさんありますが、それらはまた機会がありましたらご紹介したいと思います。