【I Love NY】「月刊紐育音楽通信 June 2022」


※本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています。

「月刊紐育音楽通信 June 2022」

BTSのホワイト・ハウス訪問。その意図や裏事情についてはいろいろと言われていますが、それでもこれは本当に歴史的な出来事であったと言えます。
BTSのファンの方には大変申し訳ないですが、私はBTSの音楽やダンスには全く興味がありませんし、正直言えば、この憂慮すべき状況について世間の理解・認識を一層得るためにホワイト・ハウスに行くのは、BTSでなくてもアジア系(特に日中韓系)であれば実は誰でも良かったとも言えます。
ですが、それでも私はBTSの姿勢や心意気が大好きであり、何だか可愛い子供達(孫達?)を見るかのように思わず彼等を応援してしまいます。
アメリカにおけるエイジアン・ヘイト・クライムは落ち着くどころか益々拡大していると言えます。

私自身もこれまで数回それに近い嫌な目に合ったり、怖い思いをしたりもしてきましたが、去る3月はとうとう、罵倒されながらナイフで襲われました。
しばしの格闘となったものの、幸い着ていたジャケットを切り裂かれただけでしたが、怪我も無く、証人となり得る人間もその場にはいなかったため、警察は事件のレポート作成のみで、逃げた犯人を捜す事もしませんでした。
悲しいかな、これがアメリカの現実とも言えます。銃も大問題ですが、マイノリティに対する差別も同様に深刻な大問題です。
しかも先日は、差別・被害を受けている側であるアジア系の人間が、逆にヒスパニック系の人間に対して差別発言とアクションを起こしてヘイト・クライムと見なされる事件も発生しました。

やられたらやりかえすとでも言うのか、

自分よりも更に弱い立場の者を差別・攻撃の対象にする連鎖。
これはあまりに卑劣そして絶対にしてはならないことです。エイジアン・ヘイト・クライムの背景には明らかに最近の中国政府の言動も関係していますし、日本はアメリカよりもその言動の脅威にさらされていると思います。
しかし、それは恐るべき独裁者に率いられた国家が行っていることで
民衆はそれに煽動され追従しているという図式ではないでしょうか。もう一人の恐るべき独裁者による“チャイナ・ウイルス”発言が、最近のエイジアン・ヘイト・クライムに多大な影響を及ぼしている事と同じであると言えます。
個々の一般市民やレストランまたは商品などには何の恨みも無いはずなのに、
無知(単に知らない・馴染みが無い、ということ)につけ込まれて利用されている…
まあ、戦時中の日本も同様。要するに全ては情報操作の産物であると感じます。


そもそも、一つの次元の中で定義・理解しようとするから衝突する。世の中は複次元・多次元の集積だと考えれば衝突する必要も無いと思うのですが、中々そうはいかないようです。
それにしても、同じアジア系であるカマラ・ハリス副大統領とBTSとのやりとりは母子(ははこ)か叔母と甥達のよう。そして、バイデン大統領とのやりとりは、国家元首と今をときめくスーパー・グループとのそれではなく、遠い異国の地に暮らしている孫達と彼等の訪問を喜ぶ爺さんと語らいのようで、何とも微笑ましい限りでした。BTSが身につけている“デディケーション”と“シェア”というアイディアと姿勢がこの行き詰まった世界を打破するための一筋の光となることを期待したいと思います。

トピック:クリス・ブラックウェルと輝ける音楽の時代

ついにピンク・フロイドまでがTik Tokアカウントを開設!彼等の有名ヒット曲の数々が、
Tik Tok上での動画投稿時において使用解禁となりました。更には、彼等の音楽と同様に有名で
幅広く認知されているアートワークを使用したコンテンツや、様々な動画の投稿も行われていく。
有名アーティストの一部からは激しい批判・非難を浴びているTik Tokですが、やはり今回の
ピンク・フロイドのニュースは、音楽市場やTik Tokコミュニティよりも、
音楽業界内での反響が極めて高いように思われます。

好むと好まざるとに関わらず、時代は明らかにストリーミングをも吹き飛ばしてTik Tokに
接近しているようです。もちろんTik Tokに対する批判や問題点を書き連ねるならば、
個人的な意見を完全に省いたとしても数ヶ月間、このニュースレターでも扱えるとは思います。
しかし、今やそうしたことも意味の無いほど、若者文化・大衆文化としてのTik Tokは、
ここアメリカにおいて揺るぎない地位を築いてしまっていると言えます。

今回のピンク・フロイドの動きについても、それはアーティストの意向であるとか、
アーティストにとっての表現方法・露出方法であるとか、そういったレベルの話ではなく、
あくまでも音楽というものを一つの商品・媒体・ツールと見なした上での、
“音楽を使った商売の話”であると思います。誤解を招く言い方かもしれませんが、
アーティスト達がどうこう言っても、Tik Tokの現状と未来を変えることはできないでしょう。
アーティスト達はTik Tokが嫌ならTik Tokを無視して、これまで同様、自分達のクリエイティヴな
活動に専念すれば良いだけであると思います。Tik Tokは音楽ストリーミングスとは違って、
純粋な音楽メディアではありませんし、アーティスト達の音楽活動を支え、基盤となるような媒体でも
手段でもないと思います。つまり要は、Tik Tokを重要な戦略の一つとして理解・認識し始めた
音楽業界と、個々のアーティスト達は今後どう付き合っていくかというレベルの話になってくるわけで、
業界内の対応も各企業によって異なることはもちろん、従来の方向性とパラレルな
“別次元”のビジネス展開という位置づけになります。

と、ここまでTik Tokネタの話をしましたが、今回は上記ニュースの主人公、ピンク・フロイドを
取っかかりに、話をこれまた“別次元”に大きく反らせてみたいと思います。まずはピンク・フロイドが
その活動を展開し始めた1960年代半ば過ぎ、彼等のちょっと形式主義的なライヴ・パフォーマンスに
接して「こんなのは自分が今まで見た中で最悪のライヴ演奏だ」と異を唱えた人がいました。
彼はレグ(レジナルド)・ドワイトという若者に出会った時も、あまりにシャイでありながらも自意識の
強過ぎるこの男が、エルトン・ジョンという芸名の優れたライヴ・パフォーマーになれるとは
決して思えません。更に彼は、1967年にプロコル・ハルムが「青い影」というメガ・ヒット曲を
生み出した時も、「4分以上の曲なんて絶対に売れない」と主張し続け、しかも歌詞の一部について
「気に食わない」と言い放ちました。

このように当時、大ブレイクの予想を見事に外した男が、イギリスの音楽業界で最も強い影響力を
持つとも言われ、イギリスにおける最も革新的なレーベルであったアイランド・レコードを生み出し、
かのヴァージン・レコードのリチャード・ブランソンと共に、世界の音楽業界において最も成功した
男とも言われているクリス・ブラックウェルです。但し、ヴァージンのブランソンが、
その後航空産業や鉄道、電話、F1、宇宙旅行など、驚異的な事業拡大を行って、実業家としての手腕を
遺憾なく発揮したのに対し、ブラックウェルはリゾート経営などにも手を広げてはいるものの、
あくまでも音楽にフォーカスして事業を展開していったと言えます。

アイランド・レコードとブラックウェルのことをあまりご存じない方のために簡単にかいつまんで
説明するとブラックウェルが創立したアイランド・レコードというのは、
スペンサー・デイヴィス・グループとそのメンバーであったスティーヴ・ウィンウッド、
そのウィンウッドが中心となって結成したトラフィック、さらにキング・クリムゾン、
ELP(エマーソン、レイク&パーマー)、ジェスロ・タル、フリー、ロキシー・ミュージック、
グレース・ジョーンズ、ウルトラ・ヴォックス、U2などといった60年代から80年代に
かけてイギリスから世界に向けて発信されて大ブレイクしていった数多くの偉大な
アーティスト/バンドを発掘し、育てた歴史的なレコード会社です。

アイランド・レコードは丸と長方形を組み合わせた「i」のロゴで知られますが、70年代半ばころまでは、
「Island」の「I」に南国の椰子の木をあしらった別ロゴをレコードのラベルに採用していました。
それは上記のUKアーティスト達の音楽性とは相容れない違和感を与えていましたが実はアイランドは
その名の通りジャマイカという「島」で誕生したレコード会社であり、それがこのレコード会社の
ユニークさを際立たせていました。ロンドン生まれのブラックウェルは、
ジャマイカをルーツとする母親を持ち、ブラックウェル自身幼少の頃と高校卒業後はジャマイカに住み、
当地で様々な仕事に従事しながら、ジャマイカのミュージシャン達との交流を深めていったそうです。

アイランド・レコードは当初、ジャマイカの音楽マーケットに向けた作品を制作しており、
それらをイギリスに持ち帰ってイギリスにおけるジャマイカ音楽の普及に貢献したことが、
大きな基盤となったと言われます。よって、上記60~80年代の所謂ブリティッシュ・ロック
アーティスト達の大成功の下地としてはジャマイカ音楽への取り組みがあり、
それが実を結んだのが、ボブ・マーリーという音楽を超えた世界的なアイコンと言えます。
既に60年代半ばからジャマイカにおいて大きな人気を得ていたウェイラーズと契約し、
彼等をイギリスに紹介したブラックウェルは、ウェイラーズの中からボブ・マーリーという
シンガー・ソングライターを大スターに仕立て上げ、ブラックウェル最大の功績とも言われている。

このように、イギリスのみならず、世界の音楽業界において揺るぎない地位を築いたと言える
ブラックウェルですが、そんな彼がつい先日に、「The Islander: My Life in Music and Beyond」と
題する回想録を発表しました。その中で彼自身が明かしている予想を“外したこと”の幾つかが、
上記で紹介した逸話というわけです。

それでも、彼が“当てたこと”は“外したこと”の何百倍にも上りますし、ブラックウェル自身は
予想を外したことは全く後悔していない、とも語っています。それはつまり、自分の好みや感性を
徹底的に信じることであり、失敗や外すことを恐れないこととも言えます。

「いつも何か新しいことをしている人(アーティスト)達と仕事をしたいと思っていた」、
「何か違うものに興味があった」というブラックウェルは、ジャマイカというアイランドで
求めるものに出会えたようです。1952年にジャマイカで設立されたアイランド・レコードは、
前述のようにジャマイカの音楽マーケットに向けてビジネスを展開していったわけですが、
4年後の1962年にジャマイカがイギリスから独立すると、様々な状況が変化していき、
ブラックウェルはイギリスに戻ることになります。

当時のイギリスでは、ブリティッシュ・ブルースのブームが始まったばかり。しかし、
ブラックウェルはすぐにはそこに便乗せず、イギリス内のジャマイカ移民コミュニティー向けに
スカなどのレコード制作販売を展開し、支持と評価を得ていきます。自分のやり方に自信を深めた
ブラックウェルは当時まだ16歳であったスティーヴ・ウィンウッドと出会い、ここからいよいよ
ブリティッシュ・ロックの世界に突き進んでいくことになるわけです。

「自分が求めていた声」、「軽くて色のないレイ・チャールズ」とブラックウェルが評してぞっこん
惚れ込んだウィンウッドは、当時スペンサー・デイヴィス・グループに在籍していました。
そこでブラックウェルは、彼等の新曲にジャマイカのウィルフレッド・エドワーズを起用し、
ロンドンにおけるジャマイカ、そしてカリブ共同体を支援する姿勢を強く打ち出し、
大いに注目されます。ここにブラックウェルのイギリスとジャマイカは完全にリンクし、
両者の音楽やアーティスト達の蜜月時代とも言うべきムーブメントが生み出され、
それが上記の有名なUKアーティスト達とボブ・マーリーという鉄壁のラインナップによって
世界の音楽シーンをリードすることになっていくわけです。

こうした話以外にも、今回出版されたブラックウェルの回想録では、様々な興味深い裏話や秘話が
紹介されていますし、志半ばで世を去って行った若く有能なアーティスト達のことも追悼の意を込めて
紹介しています。また、例えばロキシー・ミュージックについては音楽ではなく、
ルックスが既にスター級であったから契約したとか、U2の音楽は好みではなかったけれど
彼等のビジネス感覚に感心し、これならば成功すると思って契約したとか、今だから言えるような
かなり赤裸々な話も出てきます。

もちろん、全ては彼自身(または彼のアシスタント、またはゴースト・ライター?)に
よる文章ですから事実関係が確かでない面も多々あると思われます。それでも自分の偉業だけを
あげつらうのではなく自分の理解や判断の甘さ、対応のつたなさなども隠さず、
それらも含めて自分のやってきたことを紹介しているのは中々興味深いと言えますし、
何よりも彼の進んできた道、やり遂げたこと、考え方などには現在の音楽界(のみならず世界全般)に
おいて大きなヒントとなる部分が多々あります。

ブラックウェルという人は入れ込み方が激しく、えこひいきの強い人間であると言われますし、
彼のお気に入りから外れたアーティスト達は、例え同じバンドの中やコミュニティー内にいても
冷たく対応されたという話はよく聞かれます。例えば、ウェイラーズを去った
ピーター・トッシュなどは、ブラックウェルのことを“最悪の白人”と呼んでいましたし、
ダブ・ミュージックのパイオニアであるリー・スクラッチ・ペリーなどは、ブラックウェルの事を
“吸血鬼”とまで言い放っていました。やはり、これだけの成功を成し遂げた人ですから賛否両論も
敵も山ほどであるのは当然と言えますが、ブラックウェルの“決め台詞”とも言える言葉は印象的でした。
「自分はアーティスト達に何をすべきか教えたことはない」
「自分は彼等に彼等ができることをするように勧めただけだ」
これらの言葉をどれだけ真に受けるかは人それぞれですが、それでも彼が発掘して世に送り出した
アーティスト達は彼自身のプロデュースや戦略などを寄せ付けないほど、あまりに強烈な個性を
持っていたことは確かであると感じます。そんな強烈な個性のアーティスト達を強烈に後押しする強烈な
個性のプロデューサー/経営者。それは音楽が本当に光り輝き、時代を動かしていた良き時代で
あったことを改めて感じさせます。

記事一覧
これはサイドバーです。