I Love NY

【I love NY】「月刊紐育音楽通信 March 2021」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

          

 

 

 私には長年の友/コンパニオン(同伴者)である小犬がいます。彼は大の恐がり屋で怯えやすく、とても繊細というか非常に神経質で気難しく、他の人間はもちろん、他の犬にも決して馴染めないのが悩みの種です。

 それは彼が虐待されていた家庭から引き取られた犬であること、それが故に私が過保護に育てすぎたことが原因で、私自身も反省していますが、やはり犬にもそれぞれ持って生まれ、そして育った環境によって形成された個性・特性というものがあります。

 公園などを散歩していて、他の犬が親しげに近づいてきても吠えてしまいますので、ドッグランなどはもっての外ですし、常に人気(ひとけ)というか犬気?の無い場所を歩かねばなりません。ヴェテリナリー(獣医)でも待合室で他の犬と一緒に待つことができないので、いつも外で待たねばなりません。グルーミングも暴れて怪我をした経験があるので、いつも自分で彼のグルーミングをしています。

 アメリカでもニューヨークは特に犬を飼う人が多く、犬のオーナー達は犬同士を遊ばせ、オーナー同士もコミュニケートすることを好みますし、犬も人間同様、ソーシャル(社交的)であることが、良い犬の目安・評価になっていると言えます。

 ニューヨーク市でも犬は外ではリーシュ(リード)を付けることが義務づけられていますが、実際には公園内だけでなくストリートでもリーシュ無しの犬を良く見かけます。それは、その犬が“ソーシャル”で決して他人に危害を加えないということを証明(というか公言)しているわけですが、そんな犬が近づいてきたら私の友/コンパニオンはたちまちパニックしてしまいます。

 よって、世間から見れば私の友/コンパニオンは完全な落伍者(落伍犬)であり、私自身も犬をしつけられないダメな人間という烙印を押されがちです。

 そんな彼と私を心配し、友人の何人かは犬の矯正トレーニング・コースやセラピー施設・病院などを勧めますが、私はそれが正しい解決法だとは思っていません。

 「そもそも犬はソーシャルな動物なんだから」とも良く言われますが、私はそれも正しいとは思っていません。

 どんな犬にも唯一無二の個性・特性があり、それを“矯正”するというのは簡単なことではありませんし、果たしてそれがその犬にとって必要なことなのか、結果的に幸せにつながるのかは、非常に判断が難しいところです。

 これは人間でも同じ事です。自閉症やADHD、躁鬱気質や分裂気質、自律神経失調症(という病名は実はアメリカではほとんど使われることがありません)、果ては同性愛まで矯正するというセラピストやドクターがアメリカにはたくさんいます。

 しかし、先天的な問題や育った環境によってもたらさえるその人の性格・特質を、罪を犯した犯罪者を更生させるがごとく矯正しようという発想(先天的な問題すらも“罪”と解釈する人達もいますが)は正しいと言えるのでしょうか。

 それが他人に危害を加えることにならなくても、社会に適用できるべく矯正することは必要なのでしょうか。

 理想論かもしれませんが、“世間に歓迎されない”性格・性質を排除して矯正するのではなく、周囲がその“違い”を寛容に受け入れることが大切だと私は思っています。

 世の中は相変わらず人種差別や宗教差別、職業差別、そして最近はコロナ差別などもはびこり、“違い”を理解できない、受け入れられない人々が、“違い”を持つ人々を傷つけ続けています。

 そうした傷というのは、怪我や病気で受けた傷よりも何倍も重い、ということを傷つける人達は理解できないようです。

 私の友/コンパニオンである彼は、私と二人でいれば、外にいるときとは信じられないほど落ち着いて、物静かで、のんびりとくつろいでいます。そんな彼に「犬はもっとソーシャルな動物なんだよ」などと言うことは私にはできません。

 

 

 

トピック:暴かれるアメリカの音楽史~ビリー・ホリデイという存在

 

 またまた古い話から始まることをご勘弁下さい。それは私がまだ小学生の頃。当時私はモータウン、特にスープリームスとジャクソン5が大好きで、ダイアナ・ロスが憧れの女神であったのですが、そんな彼女が1970年にソロ活動をスタートさせて2年ほどが経ち、遂に映画デビューを果たすことになりました。何でもビリー・ホリデイという偉大なジャズ・シンガーの役を演じるというのです。

 当時、この「ビリー・ホリデイ物語」という映画は日本では公開されず、私は2枚組のサントラ盤を買って聞きましたが、これがジャズか…という程度で、ダイアナの魅力はあまり感じられませんでした。

 

  しかし、この映画はアメリカではヒットして大変話題になりました。そのサントラ盤は彼女にとって初の全米チャート・ナンバー・ワン・アルバムとなりましたし、受賞は逃しましたがアカデミー賞の主演女優賞にもノミネートされました。

 既にビリー・ホリデイの死から10年以上が経っていましたが、この映画とサントラ盤によって、ダイアナだけではなく、ビリー・ホリデイの人気も再燃したと言われています。

 

 そんなわけで、私はその映画を機にビリー・ホリデイ本人の歌にも接するようになりました。しかし、これも何度聴いても今ひとつ。気だるい、暗い、覇気が無い…。

 しかし、「奇妙な果実(Strange Fruit)」という奇妙な曲名が気になりました。

 

 70年代当時から、ビリー・ホリデイという存在の大きさは圧倒的であったと言えます。特にフランク・シナトラやジャニス・ジョップリン、バーバラ・ストライザンドなどがビリーを大絶賛し、また多大な影響を受けていたということは、ジャズに限らない幅広い音楽分野にまで彼女の存在を知らしめることになったと言えます。

 

 ビリーはエラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンといった、ビリーよりも少し若いシンガー達と共にジャズ・ボーカルの頂点とも評されてきましたが、彼女の歌はあまりに独特ですし、音楽としてはジャズであっても、その存在感はあまりに強烈で、一つのジャンルなどには収まりきりません。

 

 10歳の時に強姦され、何度も養護・矯正施設に入れられ、売春で稼いでいた母親と共に売春容疑でも逮捕され、酒とドラッグ漬けの毎日となり、何人もの男達に利用され続け、同性愛にもひたり、ドラッグによって度々逮捕されては復帰し、最後は声も出ず、歌詞も覚えられず、酒とドラッグによる合併症で世を去る…という、あまりに悲惨で壮絶で波乱に満ちた人生を歩んだということは、これまでもよく知られています。

 

 そんなビリーの映像作品は、ドキュメンタリー作品を除くと、前述のダイアナ・ロスによる映画化と、2014年にオン・ブロードウェイに登場したミュージカル作品「Lady Day at Emerson’s Bar & Grill」というトニー賞受賞作品があります。

 どちらもそれぞれに見応えのある素晴らしい作品であったと言えますが、先日、新たな解釈と問題提起を試みた、センセーショナルなビリー・ホリデイの伝記映画が登場しました。

 タイトルは「The United States vs Billy Holiday」。アメリカ対ビリー・ホリデイという何とも物騒なタイトルですが、パンデミック故に劇場公開を断念し、去る2月26日からHuluで配信され始めました。

 

 ビリー・ホリデイのストーリーと言えば、扱われるテーマ/内容は、ドラッグに溺れ、葛藤・格闘するビリー・ホリデイというのが定石でもありましたし、実際にそれがこれまで世に出たビリー・ホリデイ・ストーリー全てに通じる骨子であるとも言えました。

 今回の新しい作品でもその点はしっかり扱われているのですが、それ以上にフォーカスされている最大のポイントは、前述の奇妙なタイトル、「奇妙な果実」なのです。

 

 この「奇妙な果実」という作品は、ニューヨーク在住の作詞・作曲家であったルイス・アレン(これはペン・ネームで、実はコミュニストであったユダヤ人)が当時新聞に掲載された黒人のリンチ死体の写真に衝撃を受けて作った曲とされています(今回の映画ではビリーが疑似体験または幻覚体験する形で、そのシーンが登場します)。

 歌詞を読めばおわかりになりますが、この「奇妙な果実」というのは木にぶら下がった、黒人のリンチ死体のことであり、それは人種差別に対する強烈なプロテスト・ソングというか告発曲であったわけです。

 ビリー・ホリデイは後になってこの曲を歌い始めたわけですが、その歌詞のインパクトとビリーの真に迫る歌唱によって、この曲はビリーにとって欠かせないレパートリーとなり、ビリーの代名詞のようにも扱われていきました。

 つまり、ビリーは人種差別に対する自身のステートメントまたは心の叫びとして、この曲を歌い続けたわけです。

 

 と、ここまではこれまでの世間一般の理解であり、これまでのビリーの伝記作品でも必ず取り扱われてきた事柄なわけです。

 しかし今回は、黒人のみならず白人のファンも多く持ち、強い影響力と大きな人気を有していたビリーがこの「奇妙な果実」というプロテスト・ソングを歌うことを阻止し、ビリーのドラッグ問題をネタや口実にして、ビリーの歌手生命をも破壊しようと工作したのがアメリカ政府(具体的にはFBI)であった、というのがこの映画が訴えた“告発”であると言えます。

 

 映画の中では、ビリーに近づく黒人のFBI偽装潜入捜査官(黒人)の上司として登場するのが、この告発と糾弾の矛先であるハリー・アンスリンガーというアメリカ財務省管轄である麻薬捜査・取締局のトップとして君臨した男です。

 アンスリンガーは5人の歴代大統領の下で麻薬捜査を率い、麻薬撲滅に生涯を捧げた功労者として、特に5人目となったケネディ大統領からは敬意と信頼を得たと言われています。

 しかし、彼は実は根っからの人種差別主義者で、麻薬捜査・取締の名の元に黒人に対する不当で悪質な弾圧を行っていた、というのが、黒人女性として初めてピューリッツァー賞のドラマ部門を受賞したスーザン=ロリ・パークスによる今回の脚本の基盤となっています。

 

 アメリカ司法省の捜査局は、ビリーが「奇妙な果実」を歌い始める数年前の1935年にFBI(アメリカ連邦捜査局)に改称されましたが、FBI初代長官のエドガー・フーヴァーは、司法省の捜査局時代から数えると、約48年間も国家捜査機関のトップに君臨していました。

 フーヴァーは特にFBI長官になって以降その権力を乱用し、公然と不正な捜査を強行していました。マフィアからは賄賂を受け、歴代大統領を脅迫するにまで至り、しかも悪質な人種差別主義者として有色人種を毛嫌いし、キング牧師やマルコムXの暗殺をも仕組んでいたという疑惑が、死後、様々な証言や書籍・映画などによっても明らかになっています。

 そのフーヴァーの下で麻薬捜査を率いていたアンスリンガーが、麻薬捜査の名の下にビリー・ホリデイを徹底的にマークし、弾圧し、死に追いやった、という解釈であるわけですから、これは最近のアメリカで特に問題視されているシステミック・レイシズム(組織的な差別)の最悪のパターンと言える国家レベルでの差別・弾圧を告発した映画でもあると言えるわけです。

 

 そんな衝撃的な内容の作品である「The United States vs Billy Holiday」ですが、脚本のパークスが書き上げ、ディレクターのリー・ダニエルズが描き出す世界を、リアリティ感たっぷりに表現・体現しているのが、今回ビリーを演じたアンドラ・デイの正に体当たりで鬼気迫る演技と歌であると言えます。

 彼女はスティーヴィー・ワンダーに認められたというエピソードもあって、シンガーとしては既に誰からもその実力を認めてられていると言えますが、今回の場合は、ビリー・ホリデイを彷彿させるどころか、ビリーそのものではないかと思わせるような歌いっぷりが感動を超えて驚愕であると言えます。

 声のトーンや、ヴィブラートやフレイジングなどといったテクニック的な面はもちろんのこと、ビリー・ホリデイの独壇場とも言えるジワジワと押し寄せてくる深い情感をも自分のものとしているのですから、思わず身震いするほどでもあります。

 しかも、ドラッグで身体が蝕まれて声も荒れていく様や、曲によって、またその日その時その場の状況によって変化する微妙な情感をも表現している点は見事と言うしかありません。

 

 この映画におけるアンドラの歌と演技は方々で絶賛の嵐を巻き起こしており、早速、映画公開の二日後に開催されたゴールデン・グローヴ賞では映画演技賞ドラマ部門において主演女優賞を獲得しましたし、4月25日に開催され、3月15日にはノミネーションが発表されるアカデミー賞においても、既に主演女優賞の呼び声が高くなっています。

 

 先日、オプラ・ウィンフリーによるインタビュー映像も観ましたが、オプラはアンドラもいる前で、ディレクターのリー・ダニエルズに対してジョーク交じりで「アンドラは本当にヘロインやってないの?」と尋ねて一同は爆笑していました。

 それほど、アンドラの演技はヤバすぎるほどに迫真と言えますし、何でも麻薬中毒者の映像を見たり、経験談を聞いたり、果ては注射の際の腕の縛り方なども学んだということです。更に、普通だったら絶対に断るヌード・シーンにもスタッフや出演者全てを信頼して取り組んだというのですから、彼女のド根性は実に見上げたものであると言えます。

 

 そんな見所一杯の「The United States vs Billy Holiday」ですが、この作品によって、いよいよ音楽界においても、人種偏見・差別によって偽られ、でっち上げられた歴史や隠された事実が明るみに出る動きが活発になってくると思われます。

 その衝撃はあまりに大きいと予想されますし、今後様々な歪みや問題も引き起こすと思われます。しかし、その対価を支払ってもまだ余りあるほど、有色人種、特に黒人達はこのアメリカの音楽界においても搾取され、弾圧され、都合の良いように扱われてきたわけです。

 私自身は暴露本には一切興味がありませんが、例えばこんな私でも25年以上アメリカの音楽ビジネスに身を置いてきた中で、信じられないような秘話や醜聞は山ほど聞いています。

 そういった話を暴露し、単に金や地位名声のために利用するということはあまりに醜悪ですが、その中には“知らされなければならない事実”というものも数多くあると言えます。

 今回の映画で行われた告発は、間違いなくその一つであると思いますし、音楽界、そして世の中全体のポイジティヴなリアクションにも期待していきたいと思います。

【I love NY】「月刊紐育音楽通信 February 2021」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

          

 

 アメリカはどこも居酒屋ブーム、などと言うと大袈裟かもしれませんが、「Izakaya」

は既に英語化し、アメリカ人の食習慣には全く馴染まなかった“一品を複数の人間で小皿に分け合う”という行為も抵抗感が無くなるどころかトレンドのように解釈され、果ては食事の最後はラーメンや蕎麦で“しめる”という若者が増えている有様となれば、これは決して誇張ではないと思います。

 そもそもアメリカにおいて「居酒屋文化」というものは日本人駐在員や移住者などの間で存在していた程度のもので、若い世代の日系人達になると既に異文化と理解されていたと言えます。

 それが主に中国系を中心としたアジア系人口の増加と、それに伴うアジア文化への注目度が増す中で 居酒屋も認知されるようになってきたという説もありますが、例えばマンハッタンやブルックリンの「Izakaya」が多くの白人の若者達で溢れていることは、やはりアメリカ自体の食文化に変動が起きている証拠であると感じます。

 コロナとトランプのせいでアジア系に対する偏見・差別は助長され、アジア系に対する憎悪犯罪はかつてないほどに増加していますが、それでも食文化に関するアジア志向(そして嗜好)は止まるどころか伸び続けていると言えます。

 「Izakaya」でのドリンクの一番人気はやはり日本酒です。今の日本では日本酒よりも人気が高いと言われる焼酎は、アメリカではスピリッツ系に属するわけですが、アメリカはこのスピリッツ系が非常に豊富で、クオリティの高さはもちろんのこと、皆それぞれにこだわりをもっているので、アメリカにおける焼酎人気は思ったほど上がっていません。

 それに対して日本酒は、かつてrice wineなどとも呼ばれていたこともあり、ワイン好きの人にファンが 非常に多いことでも知られていますが、かつては「サキ」と発音されていたのが、最近はきちんと「サケ」と発音されるようにもなっています。

 しかも最近は精米歩合の%を驚異的に下げたものやスパークリング系など、これまでの日本酒のイメージを打ち破る銘柄が次々と登場してきていることも後押しとなり、アメリカ人の日本酒人口は増える一方です。

 また、アメリカ人には生酒・生原酒が好きな人が多いのも特徴です。私達日本人にとっては、少々アルコール度が高くて強めに感じることもある生酒・生原酒ですが、アルコール分解力の高い多くのアメリカ人にとっては、その芳醇な味わいがたまらないようです。

 音楽業界においても、老若男女問わず日本酒好きの人に出会うことは非常に多いと言えますが、一般的に最もよく知られているのは、ラスヴェガスのレジデンシーDJとして、世界で最も稼ぎ、最もソーシャル・ネットワークのフォロワーが多いDJと言われるスティーヴ・アオキと、フー・ファイターズのデイヴ・グロールかもしれません。何しろ彼等は有名な日本酒酒造と提携して自分のブランドの日本酒まで発売しているのですから、その愛好ぶりは半端ではありません。

 スティーヴ・アオキは日系人で、日本食レストランの巨大チェーン「ベニハナ」の故ロッキー青木の息子ですから、日本酒好きで自分のブランドを持っても驚くことはありませんが、デイヴ・グロールは、上記の精米歩合の%を徹底的に下げた斬新な日本酒で知られる人気・話題の酒造とのコラボまで実現したのですから、これはちょっとしたニュースであると言えます。

 但しこのフー・ファイターズ印の特別日本酒、日本発売のみでアメリカでは発売せずということですので、アメリカの日本酒ファンにとっては非常に残念なところです。

 

トピック:音楽の持つパワーを再認識させてくれた大統領就任式

 

 「世直し」はまだ始まったばかりですし、社会も経済も政治も「修復」にはまだまだ程遠い状況ですが、それでも大統領就任式が無事済んだことには、安堵の言葉しかありません。

 なにしろ、それまでの緊張状態は半端なものではありませんでした。

 特にブルー・ステートと呼ばれる民主党基盤の州や市、エリアに暮らす人達が抱いた(過去形ではなく、まだ現在進行形と言えますが)恐怖心を同様に感じることは、同じアメリカ人でも難しいかもしれません。

 それほど1月6日の米議会議事堂襲撃という国内テロ事件は衝撃的でしたし、比較すべきではありませんが、2001年9月11日の同時多発テロに匹敵する戦慄を覚えたといっても過言では無いと思います。

 しかも、これは始まりであり、約2週間後の大統領就任式までに次なる暴動・襲撃・テロがいくつも控えているとの情報が流れ、また当局からも注意警戒勧告が出たわけですから、特に反トランプでバイデン新大統領を歓迎する市民が抱いた心配・恐怖は計り知れなかった(これもまだ現在進行形)と 言えます。

 

 前述したように、まだ先のことはわかりません。期待や希望はあっても全く楽観視できませんが、それでも音楽界が社会に対して再び元気にポジティヴに反応し始めたことは、やはり明るいニュースと言えるでしょう。

 しかもこれからのアメリカは、やはり女性が益々主役となって世の中を動かしていくことは間違いないと感じます。

 それはカマラ・ハリスという副大統領が誕生したという事実だけでなく、今回の就任式全体を覆う、ポジティヴで力強いムードとヴァイブを動かしていたのが、全て女性であったとも言えるからです。

 

 今回の就任式で、ハリス副大統領以上に輝いていた女性は、バイデン大統領夫人で         ファースト・レディ となったドクター・ジル・バイデン、国歌斉唱のパフォーマンスを行ったレディ・ガガとジェニファー・ロペス、そして大統領宣誓の後に詩を朗読したアマンダ・ゴーマンの4人と言えます。

 ドクター・ジル・バイデンは主役の一人でもあるので別格として、音楽以外の面から先に触れておくと、弱冠22歳の詩人、アマンダ・ゴーマンの存在感と視の内容と朗読のパフォーマンスは、あまりにも圧巻で鳥肌ものと言えました。

 その詩の内容と起用された経緯(ドクター・ジル・バイデンの推薦)などは様々なニュースで報道されていますのでここでは取り上げませんが、その朗読パフォーマンスには、正直言ってバイデン新大統領のみならず、歴代大統領の演説パフォーマンスを凌ぐほどの説得力とインパクトがありました。

 とは言え彼女は詩人ですし、希望と未来を謳い上げる主旨・内容は同じでも、その求心力や、人心を捉える語法・話術、そして醸し出されるオーラというものは、政治家よりもローマ法王やダライラマ、キング牧師といった宗教関係者に近いという印象も受けます。

 とにもかくにもこのアマンダ・ゴーマンの名前を私達はしっかりと記憶すべきでしょう。       なぜなら15年後に彼女がアメリカの大統領となる可能性(本人も既に出馬を示唆)は、         もはや冗談や誇張というレベルではなくなってきているからです。

 

 さて、本題の就任式における音楽パフォーマンスですが、ガガとジェイローのパフォーマンスは、オバマの時のアレサ・フランクリンの魂を揺さぶる感動や、ビヨンセのカリスマ性とは異なりましたが、この時代・この状況に相応しい感動的なものでした。

 まず、ガガは基本的に力強い熱唱が売りでもあるわけですが、そんな彼女の歌唱の力強さは、悪夢の後の門出に相応しく、未来をポジティヴに捉え、気持ち高揚させるのにピッタリであったと言えます。

 アメリカ人アーティストは国歌も自分流に歌い回すことが多いですが、ガガもいかにも彼女らしいフレージング(歌い回し)を連発し、その存在感もしっかりと誇示していました。

 

 一方のジェイローですが、実は私自身は彼女のパフォーマンスの方が感慨深く、胸を熱くするものを 感じました。

 彼女が歌ったのは国歌ではなくいわゆる愛国歌という範疇に入りますし、メドレー形式で歌った最初の歌は、小さな子供が最初に覚えるような素朴な曲で、2曲目はポピュラー曲に近いような親しみを持った曲で、どちらも国歌のような仰々しさはありません。   

 ですが、メッセージ性という点においては、メドレーで歌ったこの2曲の歌詞は国歌以上の意味合いを 持っており、それらを声を張り上げるような熱唱でもなく、派手なパフォーマンスもなく、短い時間の中で巧みに組み合わせてじっくりと歌い上げ、しかも曲間にはアメリカ国旗に忠誠を誓う一節をスペイン語で挟み込むという、入念に仕上げられた構成が感動を生み出していました。

 

 もう1人、今回の就任式では大人気カントリー・シンガーのガース・ブルックスが、新大統領の演説の 後に「アメイジング・グレイス」を披露しましたが、やはり上記二人のパフォーマンスの影に隠れてしまった感もありました。

 ですが、このブルックスの登場・存在というのは、実は今回の就任式では非常に大きな意味合いがあったと言えます。

 それは、アメリカ音楽の真髄の一つとして白人層を中心に絶大な人気を誇るカントリー音楽界からの 出演であり、またその中でも絶大な人気を誇るブルックスであり、しかも彼は長年に渡る共和党支持者であるということで、彼は今回の就任式の中で、ある意味音楽や文化を超えた役割を担っていたわけです。

 その意味でも、彼の存在と歌唱は静かな感動を呼び起こし、アメリカ人としてのアイデンティティを呼び覚ますことにも一役買ったと言えます。

 

 そうした久々に見応え聴き応えのある大統領就任式の後の夜には、新大統領の下に新たなスタートを切るアメリカを祝う特別番組「Celebrating America」が放映され、多数の音楽アーティスト達が出演して素晴らしいパフォーマンスを披露しました。

 この特別番組のタイトルは「celebrating」つまり祝うことになりますが、厳密には単なるお祝いではなく、今回のウイルスによって命を失った40万以上(現時点では既に46万人以上)のアメリカ人を追悼し、パンデミックの始まりから今に至るまで休むことなく働き続けている医療・教育他様々な分野におけるエッセンシャル・ワーカー達を称え、感謝するという主旨・目的を強く打ち出していました。

 

 そうした人々を「ヒーロー」と呼ぶことは、いかにもアメリカ的な発想ではあると言えますが、実際にこのパンデミック状況の中で、自らを犠牲にして、私達をウイルスから守ってケアしてくれる医療従事者、食に困っている人々を助けるフード・パントリー(食料配給所)で働く人々やそれらの食を 生産・供給する人々、この危機的状況の中で子供達の教育を維持すべく働き続ける教師を始めとする  教育従事者、食料品や生活日用品など私達に必要な生活物資を日夜運び続けてくれる搬送業務者達は、 他の誰よりも(少なくとも政治家の何百倍も)私達を救ってくれているヒーロー(「英雄」というよりも「勇敢な偉人」という意味合いが強い)であるわけですから、今回の番組作りは多くのアメリカ人に  とっては「お祝い」よりも「感謝」と「励まし」であったと言えます。

 

 番組自体はトム・ハンクスをメイン・ホストとしつつ、カリーム・アブドゥル=ジャバー、エヴァ・ロンゴリア、ケリー・ワシントン、リン=マニュエル・ミランダといった様々な分野の有名人達が登場して語り、間にこの厳しい状況に打ち勝つべく取り組み続ける人々を映し出すという手法は非常に好感が持て、また勇気を与えられるものでもありました。

 よって、ブルース・スプリングスティーン、ジョン・ボン・ジョビ、ジョン・レジェンド、ティム・マッグロウ、ヨーヨー・マ、ルイス・フォンジ、ヨランダ・アダムス、ケイティ・ペリー、デミ・ロヴァート、ジャスティン・ティンバーブレイク、フー・ファイターズといった様々なジャンルの錚々たる豪華アーティスト達による音楽パフォーマンスはこの番組の「主役」ではなく、その主旨・目的を支え、ブーストし、人々の萎え落ちた気持ちに対して、時に優しく寄り添い、時に力強く励ますという形になっており、これこそ音楽のあるべき姿であるとも感じられました。

 

 それぞれのパフォーマンスは、それぞれの思いが溢れ、どれも非常に印象的なものでしたが、私自身はそうした中でも、ゴスペル界の大スターであるヨランダ・アダムスと、ロックが失いつつある プリミティヴなパワーを毎度炸裂させてくれるフー・ファイターズのパフォーマンスが深い余韻と感動を与えてくれたと言えます。

 今回の出演アーティスト達のパフォーマンスには様々な感情が満ちあふれていましたが、      レナード・コーエンの名曲をアカペラで歌い上げたヨランダの感情は、失われた命に対する悲しみ・嘆き(grief)と慰めでした。この鎮魂歌に涙が止まらなかった人は私だけではないと思います。

 一方のフー・ファイターズは、2003年リリースという比較的古い曲「Times Like These」を披露しましたが、曲を始める前のデイヴ・グロールの語りがこれまた印象的でした。

 最近ネットで話題になっている若き幼稚園教師からの紹介で登場した彼は、この教師と、やはり教師であるドクター・ジル・バイデンを引き合いに出しながら、35年間公立学校の教師を務めた彼自身の母親の思い出について語り、教育の大切さと教育者達に力強いエールを送り、その思いを歌詞に乗せて激しくロックしました。

「​キミ​が再び愛する​という​ことを学ぶのはこ​ういう​時​なんだよ​​​」

 

 音楽が再びパワーを持って帰ってきた。

そんな思いを強くした今回の大統領就任式でした。

【I love NY】月刊紐育音楽通信 January 2021

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

               

一般的な物言いやカテゴライズというのは好みませんが、それでもアメリカ人というのは我慢強いなあと思うことが多々あります。「我慢」「辛抱」というのはある意味日本人に顕著な特質や美徳?の一つのようにも感じていましたし、アメリカ人が我慢強いということを意外に思う日本人も多いでしょう。しかし、”Be patient”という言葉は日常においてよく使われますし、我慢強く待ち続けるアメリカ人の姿というのは、日常のあちこちで見かけられます。

 しかし、アメリカ人と日本人とでは、我慢の意味合いや我慢しなければならない、または我慢すべき状況というものが異なることは確かだと思います。

 アメリカ人またはアメリカ社会における「我慢」とは、半ば「諦め」にも近い意味合いがあり、自分ではどうすることもできない状況(所謂、不可抗力)においてが中心と言うこともできます。

 例えば、空港で天候によるフライトの遅れに対して怒り、航空会社の従業員に当たり散らしている日本人を時折見かけますが、アメリカ人の場合はほとんどこういった態度や発想というのは見られませんし、そういった態度は逆にその人自身の人格を貶めることにもなります。

 そしてここでもう一つ重要なのは“God is at work”または“God is working”という、ある種宗教的基盤に支えられた、信頼に転じるような諦めです。つまり、自分ではどうにもならないことは“神の御手に委ねられている”わけで、そうした場合は“全てを任せて待つ(天命を待つ)”という発想になります。

 しかし、これが自分の「権利」という部分に関わってきますと、アメリカ人は決して我慢しませんし、自分に与えられている権利が阻止・阻害されると、これはもう手が付けられないくらい抵抗・反抗します。そもそも「人様」「お他人様」「お客様」といった階級社会の遺産のような自己謙遜、いわんや自己卑下的な発想の全く無いアメリカ人には、どんな問題が起きても、それは自分の責任において回避・解決すべきと考える人が多いので、その部分を他者からとやかく言われたり強制または否定されると、日本人には想像を絶する抵抗に会うことがよくあります。

 今のアメリカのコロナ状況、日本人には想像も理解もできないマスク着用や対人距離確保の義務、そして家族・友人などの集いや教会などでの集会の禁止といった規制・禁止に対する激しい抵抗は、正にそうした表れであると言えます。

 私自身は今回のパンデミック以降、教会や各種集会、コンサートなどでの集まりはもちろんのこと、家族の集まりも全て我慢しています。独立している子供達とは、サンクスギヴィングもクリスマスも正月も、全てZOOMで行い、間近では一切接触していませんし、外出は犬の散歩と最低限必要な食材・日用品の買い物のみです。

 それは自分が感染したくないというよりも、自分が感染源になってはいけないし、これ以上感染を広げてはいけない、という意識の表れですし、アメリカ人にも同様な考えを持って生活を続けている人達はたくさんいますが(特にニューヨークでは)、それでもパンデミック以降の自分の生活ぶりを改めて見つめてみると、一般的なアメリカ人との意識の差は歴然で、自分は「つくづく日本人だな」とも感じてしまいます。

 アメリカのコロナ状況と対応に関しては様々な意見や分析があると思いますが、少なくともアメリカでは規制・禁止が完全に裏目に出てしまっていることは間違いありませんし、ここでも政治・社会両面での対立は深まるばかりです。

「折衷」「妥協」といった、これまたアメリカ人には理解しにくいアイディアにこそ解決の糸口があるように思うのですが、白か黒かの二元論に陥りがちなアメリカ人そしてアメリカという国自体の膠着状態は、依然改善の兆しが見られません。

 

 

 

トピック:KISSの“激烈”2020年サヨナラ・ショーが語るもの

 

 予想はしていても、やはりこれだけ音楽イベントのないクリスマス~年末シーズンというのは改めて事の重大さを物語っており、経済的にも、そして精神的にも益々大きな打撃となっています。

 言うまでも無く、ミュージシャンを始め、音楽業界全体にとってこのクリスマス~年末のシーズンというのは最大の稼ぎ時であり、最も人と金が動く時期でもあります。

 正月特に元旦というものを祝う習慣の無いアメリカにおいては、クリスマスに続く年末、特に大晦日であるニュー・イヤーズ・イヴが新年に対するお祝い気分のピークとなり、最大のイベント日となります。

 新たな年を迎えてから「明けましておめでとう」と祝う日本に対して、アメリカでは年末の時点から「Happy New Year」と言って新たな年の幸福を祈願するのは興味深い対比であるとも言えますが、とにかくニュー・イヤーズ・イヴは“みんなで集まって騒いでパーティ”というのが、この国のお決まりパターンであり、エンタメ系特に音楽業界のビジネス需要は一気に高まるのが通例です。

 

 しかし、今年の世の中の静けさは季節感を失ってしまうほどのものであったと言えます。もちろん、小さなグループでパーティをする人達はたくさんいたようですし、私のアパートの前にあるホテルでも、大晦日の日は人の出入りがここ最近では見られないほどの多さでした(とは言え、例年に比べれば何倍も少なめですが)。

 しかし、小さなパーティで演奏するミュージシャン達から、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールの恒例イベント「クリスマス・スペクタキュラー」やタイムズ・スクエアでのカウントダウンといった大イベントに至るまで、大小あらゆる規模で動いていた音楽の需要は、リアルな現場においては全く無くなってしまいました。

 

 そこで登場するのが既に今の世の中における音楽パフォーマンスの主流となっているライヴ・ストリーミングです。

 ただし、当初主流であった自宅からのソロ・パフォーマンスに関しては視聴者側でも大分飽きが来ていることも確かですし、それだけではない試みがかなり増えてきていると言えます。

 それは以前このニュース・レターでもご紹介したようなミュージシャンとクルーと音楽ヴェニューが集まって限定的に行う無観客ライヴ、または対人距離を確保した一部観客入りのライヴのストリーミングです。

 この試みは徐々に浸透・拡大しており、有料ストリーミング・ライヴの収益見込みによって予算を確保できるミュージシャンの場合は、このスタイルが益々増えてきています。

 

 また、ライヴ・ストリーミングは場所・距離を問いませんし、通常であればスケジュールや移動によって困難なパフォーマンスが、どこでも誰に対しても可能となりますので、逆にそれがライヴ・ストリーミングならではのアドバンテージやスペシャリティといった“売り”にもなってきます。

 例えば、Blue Noteでは今回の年末年始に興味深いライヴ・ストリーミング・パフォーマンスを行いました。例年のBlue Note New Yorkでは、年末と年始は全米でトップ・クラスの知名度を誇る人気大物ミュージシャンがブッキングされますが、今年はニュー・イヤーズ・イヴつまり大晦日にHiromiこと上原ひろみが日本からストリーミング・ライヴを行い、ニュー・イヤーズ・デイつまり元旦にはウクレレの若き巨匠ジェイク・シマブクロがハワイのBlue Noteからストリーミング・ライヴを行いました。

 どちらも通常の年末年始であれば考えられないブッキングですが、逆に“遠隔”故のスペシャリティと、明るい2021年を祈願するにもふさわしい音楽ということで、話題となっていました。

 

 しかし、この“遠隔”というスペシャリティを最大限に活かし、有料ストリーミング・ライヴによる高収益を見込んで、パンデミック以降としては恐らく最大規模のストリーミング・ライヴとなったのが、ニュー・イヤーズ・イヴにUAE(アラブ首長国連邦)の大都市ドバイで行われたKISSのコンサート「Kiss 2020 Goodbye」であったと言えます。

 なにしろ、ドバイにあるリゾート・ホテル「アトランティス」のビーチ・エリアに全長約250フィート(約76メートル)の特設ステージを組んでの大コンサートですから、ステージの規模はいわゆるアリーナ級と言えます。

 広い観客スペースにはウイルス・テストを受けて陰性が確認された少数の観客が充分な対人距離を取って鑑賞するのみですが、何とその後ろにはステージと向かい合うようにアトランティスの巨大ホテルが建っており、ステージに面した部屋の宿泊客は客室のバルコニーからコンサート鑑賞が可能となりました。それでも観客のトータル数は約3000人ほどですから、これはかなりの超VIP対応と言えるでしょう。

 

 ステージ機材はこの日のイベントのためにアメリカから輸送され、コンサートのクルーも世界各国から400人以上が集結という、このパンデミック下においてはあり得ない程の数と規模でした。

 映像プロダクションは遠隔操作の無人カメラを中心にしつつも、ステージ前にはハンディ・カメラのカメラマンも加わり、計50台以上のビデオ・カメラを駆使した360度マルチ・アングルを実現。そのプロダクション規模の大きさ故に、逆にウイルスの安全対策も心配になってしまいます。

 しかし、今回のプロダクションでは、ステージ機材の搬送から当日のオンステージに至るまで、何と約80万ドル(約8200万円)がウイルス安全対策のために費やされたというのですから、これも驚きです。

 KISSのメンバー達は、それぞれ別々のキャビンに隔離されたフライトでドバイに向かい、到着後は日々テストを受け、個々のメンバーと行動を共にするのは常に2~3人までという徹底ぶり。

 その他のスタッフ達は少数のグループに分けられ、行動はグループ単位となり、別のグループと接することは無いように管理され、日々のテストと除菌・消毒作業が徹底されたとのことで、こうした対応にはKISSのメンバー達もSNS上でその対応ぶりに感嘆し、感謝・賞賛していた程でした。

 

 そもそもKISSは2019年1月から「END OF THE ROAD WORLD TOUR」と題したフェアウェル・ツアーを行っていましたが、今回のパンデミックによって2020年3月にツアーは全て一旦キャンセルとなりました。よって、この「Kiss 2020 Goodbye」はバンドにとってもフェアウェル・ツアー中断以来初のショーとなるわけです。

 私は2019年3月のニューヨークはマジソン・スクエア・ガーデンでのショーに足を運びましたが、この「Kiss 2020 Goodbye」でもセット・リストやステージ機材・設営など、大枠としては「END OF THE ROAD WORLD TOUR」のショーを基本にして構成されていると言えました。

 しかし決定的に異なるのは、“最悪であった2020年の締めくくりに、最大・最高・最強のクールなショーを実現する”というバンド(KISS)とプロモーター(ここ数年、アリシア・キーズ、ブラッド・ペイズリー、アンドレア・ボチェッリ、フー・ファイターズといった大物アーティストによるスペシャル・コンサートを開催しているLandmarks Live)とスタッフ達の意気込み、そしてその気合いを表すかのような“激烈”とでも言うべき花火と火炎のパイロ・テクニクス・ショーであったという点です。

 なにしろこのパイロ・テクニクス部分の費用だけで約100万ドル(約1億円強)を超えたというのですから、驚きを超えて唖然呆然となってしまいます。

 これは長年に渡るKISSのド派手なショーの中でも最大規模と言えますし、パンデミック以後行われてきたストリーミング・ライブ・コンサートとは一線も二線も画す特別で異例のものでしたし、世界的なパンデミックの中での大規模なロック・ショー開催というだけでなく、正に歴史に残るショーであったと言えるでしょう。

 

 このパイロ・ディスプレイの数に関しては史上最大であったということで、ショーの最後、カウントダウンの直前にはギネス・ブック公認の表彰式というおまけまで付いていました。

 そして最大の見物は、この表彰式の後のカウントダウンから始まりました。

 曲はお馴染みのKISSのアンコール・ナンバーにして、アメリカの国民的ロック名曲と言える「Rock and Roll All Nite」。この最大の盛り上がりに合わせて、ステージの周りは正に花火と火炎放射の乱舞となり、モニターを通して見ていても熱が伝わってくるほどでした。

 私自身、これほどの規模の花火というのは見たことがありませんし、それに加えて噴射される火炎と、巻き上がる白煙と黒煙の凄まじさは、まるで爆破テロや戦争のようでもありました。

 当然、曲のエンディングでは花火と火炎は更に激化し、曲が終わった直後の爆裂は、ステージにも火が付いて吹き飛んだかとも思わせるほどでした。

 

 今回の有料ストリーミング・ライブはドバイ時間での年明けカウントダウンとなりましたので、他の国ではそれぞれ時差も生じます。例えばドバイの年越し時はニューヨークではまだ31日の午後3時となりますが、今回はそれぞれの国・エリアの年越し時間に合わせたストリーミング視聴設定ができるというのも嬉しいオプションでした。

 鑑賞料は約40ドルから約1000ドル。ストリーミング視聴者は約25万人を見込んでいたそうです。私はもちろん40ドルの最安値料金でストリーミング鑑賞しましたが、それでもこれだけの内容とサービスで40ドルならば、ストリーミングであっても安いと私は感じました。

 

 もちろん今回のイベント自体、そして金の使い方にはすぐに批判も出てきました。この悲惨なパンデミックの状況下、あまりに多くの人々が命を失い、経済的危機に瀕している中で、これだけの金があればもっと多くの人々を救えるはず、というのが批判の中心を成していました。

 確かにそれはその通りですし、不遜・不埒であるという意見も否定はできません。しかし、それを言うならば州や市、そして国民・市民に対して充分で適切な援助と情報提供を怠ったトランプ政権は断罪ものと言えますし、所謂「GAFA」と呼ばれるグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンのビッグ4を始めとする巨大テック産業や金融業などの億万長者達の資産は、このパンデミックで更に激増しているわけですし、KISSの数百万ドル程度とは比較になりません。

 それよりも、この鬱積・消沈しきった状況を吹っ飛ばそうというシンプルな思いや、この最悪で悲惨な2020年にサヨナラしてケリを付け、明るく希望のある新年を取り戻そうというポジティヴな意気込みを強烈に後押しするという気持ち、そして、未だ先の見えない絶望的状況にある音楽界に何か大きな光を当てなければという思い。そうしたポジティヴな面を評価・尊重すべき、と私自身は感じています。

 

 KISSのポール・スタンレーは、音楽ライヴ・パフォーマンスが完全に停滞し、ストリーミングのみが唯一の方法となり始めた頃から「絶対にKISSは小規模なことはやらない」と断言していましたが、今回は正にそのことを証明したと言えます。

 これは単なる年明けの乱痴気パーティではなく、危機に瀕している音楽業界に対する希望の大きな象徴的イベントとして、「音楽業界に希望をもたらすために、最悪だった2020年を希望を持って終えるために、俺達はこれをやってのける必要があるんだ」とまで言っていました。

 そんなポールの言葉は説得力もあると思いますので、以下に抜粋してご紹介したいと思います。

 「2020年は一部の人にとっては不便程度だったかもしれない。でもそれ以外のほとんどの人達にとっては完全な荒廃だったんだ。俺たちはそんな状況にケリを入れなきゃならない。(KISSのメンバー達が常にステージで着用している)8インチのヒールでね。」

 「ここにいる俺達はみんな2020年を耐え抜き、生き残った。痛手を受けなかった人なんて誰一人いやしない。経済、健康、そして命..。俺達全てが苦しみ、苦しめられた。そして、その2020年が終わりを迎える。トンネルの向こうには光が見え始めたが、まだまだ油断は禁物だ。でも、俺達はまずはこの2020年を乗り越えた。だから俺達はそれを祝ってもいいだろう」

 「これはワールドワイドのパーティなんかじゃない。これは俺達にとって、スポーツではなく楽器を手にした音楽によるオリンピックみたいなものなのさ」

 

 今回のプロダクションの全ては映像に収録されているとのことで、今年5月にはドキュメンタリー作品としても公開予定であるそうです。ただし、それは映像配信とドライブイン・シアターのみである可能性はまだ高いと言えます。

【I Love NY】月刊紐育音楽通信 December 2020

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

               

 

 大統領選挙から4日後の11月7日土曜日、自宅でラップトップを睨みながら選挙結果を追っていた正午前、ついにバイデン当確が出ると同時に、外から歓声が聞こえてきました。通りに出てみると、周囲のアパートの窓から身を乗り出し、手を振り、拳を振り回し、歓喜の叫びをあげている人達が何人も見られ、道行く人達もそれに応えています。私も思わず通りのど真ん中で両手の拳を上げて絶叫しました!

 本当に長かった4年間。これほどのストレス、落ち込み、プレッシャー、悲しみ、怒りを味あわされるとは思ってもいませんでしたし、長年に渡るアメリカ生活の中で初めて、面と向かって人種差別の罵倒を浴びる(白人のトランプ・サポーターから)というとどめの一撃まで食らいました。

 正直、あと4年もこうした状況の中でこの国に暮らすことはできないと思っていましたし、トランプが再選したらこの国から出ざるを得ないということも覚悟していましたので、この喜びと安堵感・開放感は何物にも代えられないほどでした。

 もちろんこれで全てが変わるわけではありません。トランプは選挙に負けたとは言え、まだまだあれだけの数の人間達が彼を支持して投票したわけですし、この国の対立・分裂状況は何も変わりません。そして何よりもパンデミック状況と経済状況は悪化する一方なわけです。

 ですが、先の全く見えない暗闇状態に僅かな光が見えてきたことは間違いありません。トランプを引きずり下ろせた喜びで集まって大騒ぎして湧き上がる各地の映像はご覧になっている人も多いと思いますが、私自身は相変わらずマスクはしていても対人間の距離を保てないような人の集まりには近づかず、その土日はパートナーと二人だけでパーティをして盛り上がりました。

 思えばオバマ大統領当確の時も大騒ぎでした。正直言ってあんなにも早く非白人の大統領が誕生するなど夢にも思っていませんでしたし、翌年1月の就任式の時は仕事で車を運転しながらラジオで聞いていて思わず涙が出てきました。

 しかし、今回の大喜び・大騒ぎは全く質が異なります。前述のように例えようの無い安堵感と開放感はありますが、今回の勝利によって逆にトランプと彼のサポーター達の反撃・攻撃、そして対立・分裂は一層激化するだろうという不安感と緊張感が入り交じった、実に複雑な心境であると言えます。

 しかも、トランプは選挙は不正であったと主張して敗北を認めず、アメリカの選挙システム、ひいてはアメリカの民主主義まで非難・口撃してくるのですから、これほど後味の悪い選挙というのは無いと言えます。

 よって、一般市民レベルでの喜びは絶大であっても、音楽業界含め各業界の反応は思った以上に静かであり、まだ状況を見守るしかないというのが正直なところであると言えます。何しろ、このパンデミックと経済を何とかしないことには、誰が大統領になろうとこの国には未来は無いのですから。

 

 

トピック1:パンデミックに耐えるに十分な金を持っている音楽企業は?

 

 この経済的危機の中で、特に音楽業界を始めとするエンタメ業界の状況は本当に深刻です。誰もが業界全体の復活を祈り、待ち望んでいますし、それは時間が経てば実現するであろうことは誰もが信じています。ですが、問題はそれがいつやってくるのかということです。

 それを考える上でカギとなるのは、復活の時まで持ちこたえるためのキャッシュ・フローとオープン・クレジット(支払額が変動していくものに関するクレジット)、また

いわゆる「流動資産」をどの程度持っているかである、という記事があったので以下にご紹介しましょう。

 

 キャッシュとオープン・クレジットと流動資産。この3つのポイントから考えると、やはり既に上場している大企業は比較的良い状態にあると言えます。

 例えばSpotifyは3月のパンデミック以降、レコーディングされた音源に依存するビジネスは順調に推移しており、同社のCFOであるポール・ヴォーゲルは「2020年はフリー・キャッシュ・フローがプラスになると予測されている」とまで言っているそうです。

 

 つまり、こうした企業では現金が不足するという深刻な危険にさらされることがなく、現状において考えられる最悪のシナリオとしては、社会経済がより悪化した条件の中で、より多くの資金を調達する羽目に陥るということくらいであるそうです。

 その場合企業は、より高額の利子の支払いをすることになるか、投資家に株式または経営権・支配権を与えることを意味してきます。

 これは結果的に節度ある資本主義が崩壊していくことにも繋がるわけで、生き残れる企業・業種は更に限られてくるという極めて不安定な社会となり、経済的破綻・破産状況は一層深刻となるわけですから、アメリカという国がそこまでの状態に陥ることを放置することはまずないと誰もが考えています。

 

 一方、音楽業界の中で最も大きな打撃を受けているのは、やはり興業系ビジネスとなります。例えば興行界の最大手であるライブ・ネイションは、5月に12億ドルの負債を売却して、9月末時点で19億ドルの流動資産をもたらしたとされています。

 今もコンサート会場などはどこも空っぽの状態のままですが、それでも同社では現在、運用・運営コストとして月1億1,000万ドルを費やしているとされています。

 

 こうした状況は2021年半ばまで大幅に変わる可能性は無いと言われていますが、再び正常にチケット販売が行われる前に、企業はより多くの金を取り入れる必要が出てきます。

 ライヴ・ネイションの社長ジョー・バーチトールドは 「我々は現在の状況を乗り越えるための必要な流動資産があると確信しています」と言っていますが、それは今後パンデミックがいつまで続くか次第です。

 例えばこのまま来年9月末まで同様な状況が続いた場合、同社では更に10億ドルを費やすことになるだろうとも予想されています。

 

 ニューヨークのアリーナ会場の象徴でもあるマディソン・スクエア・ガーデンを運営するMSGエンターテインメントも同じ問題に直面していますが、こちらの場合は資金を費やすスピードはライヴ・ネイションよりも遙かに遅いとのことで、先日11月に同社が追加の流動資産のために借り入れたローン金額は65万ドルであったとのことです。

 

 興業、つまりライヴ・ビジネス以外で最も厳しい状況にある音楽業界企業の一つは、パンデミックに見舞われた広告市場の危機にもろに直面してしまっている大手ラジオ局であるとのことで、中でもiHeartMediaは非常に深刻な状況であると言われています。

 最近債務を再編した同社は、8億7900万ドルの流動資産とプラスのフリー・キャッシュ・フローを持っているとされますが、直近の四半期ベースで見ると、前年同期の1億5150万ドルから1430万ドルへと大幅に減少しています。つまり、同社も今後1年間で十億ドル単位が費やされていくことを想定しての流動資産確保が必須になってくると考えられています。

 

 

トピック2:パンデミックによって沈黙するジャズ・クラブ

 

 ニューヨークではブルーノートが限定的に店舗内でのライヴ鑑賞を再オープンして話題になっていますが、これはやはりまだまだ珍しいケースであると言えます。

 このままではニューヨークのジャズ・シーンは死滅しかねない。そんな危惧を誰もが抱きながらクラブ経営の動向を見守っていると言えますが、そうした中、ついにニューヨークを代表する看板ジャズ・クラブの一つが閉店をアナウンスしてしまいました。

 その衝撃度は非常に大きく、様々なメディアで取り上げられていますが、以下にその記事の一つをご紹介したいと思います。

 

 ニューヨークのジャズ・シーンは今週、マンハッタンの東27丁目にある有名なクラブであるジャズ・スタンダードがパンデミックのために閉店すると発表したことによって大きな衝撃を受けました。

 1997年にオープンし、その後ダニー・マイヤーによるBBQレストランBlue Smoke Flatironの一部として地下にある130席のこのジャズ・クラブは、今回のパンデミックによって閉鎖を余儀なくされたニューヨーク初のメジャーなジャズ・クラブと言えます。

 これは当然のことながらクラブが何ヶ月にも渡ってビジネスの機会を失ってしまった結果なわけですが、 ニューヨーク市内の音楽ヴェニュー(音楽会場)はどこも、わずかな収入または政府の救済によって、ほぼ9か月間閉鎖されたまま宙ぶらりんの状態であると言います。

 ジャズ・クラブとレストランを所有するユニオン・スクエア・ホスピタリティ・グループは12月2日水曜日の声明で、「私たちはさまざまな結果に到達するためにあらゆる道を模索してきましたが、パンデミックによる収益のない月、そして長期にわたる家賃交渉が行き詰まってしまったため、Blue Smoke Flatironとジャズ・スタンダードを閉鎖せざるを得ないという残念な結論に達しました。」と述べました。

 これに続いて今週、ロウワー・イーストサイドにある新進のロック・バンドが集結する人気クラブArlene’s Groceryが、何らかの援助が無ければ来年2月1日に閉店することをアナウンスしましたが、こちらはクラウド・ファンディングのGoFundMeによって、数日間で2万5千ドルを集めることができたとのことです。

 

 ニューヨークに限らず、アメリカ全土のミュージック・ヴェニューにとってパンデミックは、あまりに過酷なものであると言えます。

 いくつかの例外を除いて、彼らはショーを行うことができませんし、レストランやバーとは異なり、ほとんどの州政府の再開計画では全くと言って良いほど考慮されていません。

 連邦法案として提出された「Heroes Act」は、音楽ヴェニューやその他のライヴ音楽事業に100億ドルの救済を割り当てていましたが、政府の救済に関する大規模な協議が与野党内、また同じ党内でも分裂しているため、この法案はこの秋の議会において行き詰まったままとなっています。

 「ニューヨーク独立系ヴェニュー協会」による最近の調査によると、そのメンバーの68人がパンデミックの結果として2000万ドルの借金を抱えており、毎月500万ドル以上の救済が必要になっているとのことです。

 

 「ニューヨークのすべての独立したヴェニューは、既に現時点において倒れる危険性にさらされています」と、同協会の共同議長であるジェン・ライオンズは調査結果を発表する中で悲痛な声明を述べ伝えました。

 「誰も私たちを助けてくれていません。連邦政府は交渉のテーブルにさえ着いていません。州も同様です。何十年もの間、コミュニティにおける中小企業であリ続ける私達には助けが必要です、それなのに、まだ誰も私達を助けようとはしてくれません」

 

 一時休業の後、18年前に再開して以来、ジャズ・スタンダードはジャズファンや観光客、そしてグルメの人達の間でも人気があり、著名なジャズ・アーティスト達のレギュラー出演や、ミンガス・ビッグバンドによる毎週月曜日のショーといった人気の高い定期的なプログラムがありました。

 グラミー賞を受賞したジャズ作曲家のマリア・シュナイダーは、毎年感謝祭の週末に彼女の最新作を紹介する毎年恒例のシリーズを開催していましたが、今年はオンラインによって行われました。しかし、それも今年が最後となってしまいました。

 今回のパンデミックによるシャットダウンは、ニューヨークなどの主要都市におけるライヴ・パフォーマンス会場のネットワークに依存しているジャズにとって、特に困難なものであると言えます。

 去る8月には、ワシントンDCのUストリートにある、DC最後の本格的なジャズ・クラブとも言えるTwins Jazzが閉店したことも厳しい現実を物語っています。

 

 ジャズ・クラブは他の多くの音楽ヴェニューと同様、パンデミックの中で生き残る方法を見つけるのに四苦八苦しており、ライヴ・ストリームに目を向け、フード・サービスにも焦点を合わせています。

 また、フード・サービスを中心としつつ、音楽パフォーマンスを二次的で“偶発的な”な形でライヴ・ミュージックを提供しているところもあります。ちなみにこれは、レストランやバーが顧客が食事をするときに音楽を提供できるようにする、ニューヨーク州酒類局の規則に準拠したものなので違法行為ではありません。

 

 パンデミックの襲来以来閉鎖されてきたジャズ・スタンダードは、ニュージャージー州のパフォーミング・アーツ・センターと連携して提示するFacebookライブ・シリーズのようなヴァーチャル・パフォーマンスを提供し続けるともアナウンスしました。

 ただ、クラブが再開する可能性があることはについては否定せず、「私達は今もニューヨーク市での店舗展開の選択肢を模索することに専念しています」と、クラブの芸術監督であるセス・アブラムソンは述べています。

 「私達は、“ジャズ・スタンダードの次のページを書く”ということを楽しみにしています。なので、これお別れではありません。」

 

 

 このように、国も州も動かないというあまりに無責任な対応によって極めて過酷な状況の中にあるライヴ音楽業界ですが、そうした中でテキサス州オースチンが希望のある取り組みに乗り出しています。

 オースティン市は既にこの夏の間、30以上のヴェニューに80万ドルの助成金を提供しましたが、それでもライヴ音楽ヴェニューは、COVID関連の閉鎖の中でまだ苦労していると言えます。

 

 そうした中、オースティン市議会はこの木曜日(12月3日)に、「Save Austin」という救済プログラムの「Vital Economic Sectors(SAVES)」という決議の下で、大きな被害を被っている企業のために、合計1,000万ドルを確保する2つの助成プログラム(「Live Music Preservation Fund」と「Austin Legacy Business Relief Grant」)のガイドラインを承認しました。

 

 この新たな2つの助成プログラムにより、企業は閉鎖のリスクがあることを証明できれば、最大2万ドルの助成金を申請できます。

 また、6か月間、または上限が14万ドルに達するまで、毎月最大4万ドルの助成金を申請することもできます。

 ちなみに、「Austin Legacy Business Relief Grant」に関しては、オースティン市域内で20年間運営されているという条件が付きますが、劇場やギャラリー、バー、レストラン、ライヴ音楽ヴェニューなどといったクリエイティブなスペースがほぼ全て含まれています。

 但し、こちらのプログラムを受けると、もう一方のプログラムは受けることができません。

 

 市議会はまた、オースティンにおいて“象徴的”とみなされる企業に対して、同市のホテル占有税徴収による収入をより多く投入するための措置を承認しました。

 テキサス州の税法により、各都市はその税収の17%を引き出し、観光を促進する事業に充て、一部は州に還元することができるようになっています。

 昨年8月、オースティン市の評議会メンバーは、ホテル滞在に対するオースティンの税率(ホテル占有税)を引き上げることを決定し、ライヴ音楽保存基金を通じて会場を支援するためにそのお金の一部を確保する計画を承認しました。

 同市は更に、文化芸術や歴史的保存プロジェクトを支援するためにも、その税収の一部を確保しています。

 

 また、同市は商業ビルの経営者達、つまり商業ビルの大家達に企業の家賃を下げるよう奨励するプログラムも承認しました。

 現在、商業ビルにおける家賃滞納による立ち退き規定は、今年の12月末日まで延長されていますが、更に延長すべく検討・対応中とのことです。

 

 上記のSAVESは去る10月に決議通過し、ガイドラインも整ったので、同市は2月までにプログラムを開始することを期待していますが、それでも連邦政府による救済の見通しが全く不透明であることから、オースティンの有名なライヴ音楽コミュニティ内のヴェニュー、ミュージシャン、その他の人々は一日も早い実施を待ち望んでいます。

 同市の経済開発局が詳細を明らかにしたことは大きく評価できますが、やはり2つの助成プログラムの全体的なタイムラインを一層明確にして迅速に施行することが急務であると言えるでしょう。

 

 以前、本ニュースレターでも紹介しましたが、オースティンというところはアメリカ音楽文化の中でも特別な存在のミュージック・シティとして注目されリスペクトされ続けており、間違いなくアメリカ音楽文化におけるメッカの一つであり、非常に重要な拠点の一つであると言えます。

 そんなオースティンが地元の音楽コミュニティや音楽ビジネスに理解ある対応策を講じ始めたことは、「さすがオースティン」、「やはりオースティン」という感もあり、今後他都市においても、今回のオースティンの措置が一つの指針となっていけばと期待するばかりです。

【I Love NY】月刊紐育音楽通信 November 2020

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

               

 

アメリカは再び感染者数・入院者数・死者数が急増し、これから冬にかけて最悪の事態を迎えると言われていますが、そうした中でも経済はパンデミックで落ち込んだ分を3分の2ほど戻したと言われています。

 先日、アメリカ経済の第三四半期、いわゆるQ3のレポートが発表されましたが、GDP(国内総生産)は何と33.1%という記録的な年率で成長したことが明らかになりました。

 設備投資は70.1%、事業投資は年率20.3%、住宅投資は59.3%と、いずれも急増しています。

 しかし、失業率は7.9%。これは、パンデミックによって落ちきった14.7%からは大幅に戻してはいますが、それでも歴史的に高い水準にあります。

 失業手当を求める人数もわずかに減少して751,000人とのことで、これは3月以来最も少ない申請数だそうですが、歴史的に見ればそのレベルはやはり高い状態です。

 雇用も3ヶ月連続で減速し、パンデミックで失われた約2200万人の雇用は、まだ半数ほどしか回復していないとのことです。

 つまり、パンデミックが依然として多くの雇用者に仕事の削減を強いていることを示しているわけですが、このGDPとの開きは一体何なのでしょう。

 

 NASDAQは史上空前の高値を維持し、金融業界や不動産業界などは潤っても、トランプ・サポーター達も含めた中流クラス以下の生活は悪化する一方です。

 ここに、アメリカの資本主義の構造、そしてトランプの真のサポーターは誰なのかという答えがあると言えます。

 MAGAの帽子やTシャツを身に着けて熱心にトランプをサポートしている人々は本当に気の毒です。トランプにとって彼等は真のサポーターではなく、単に票集めのため、そして運動を盛り上げるための駒でしかありませんが、彼等は未だ現実の状況が好転しなくても“手に届かない美味しそうな餌”に集まっています。

 では、本当の“美味しい餌”を得ているのは誰なのでしょうか。それが上記の数字を裏付ける富裕層・大企業であることは言わずもがなです。

 

 ニューヨーク州北部のウッドストックに移り住んだ娘に聞けば、これまで安さが魅力であった同地の土地物件が、パンデミック以降ニューヨーク市内のユダヤ系土地ブローカーや超富裕層達に次々と買い占められ、空前の高値を記録しているとのことです。

 また、ニューヨーク市のクイーンズやブルックリンのある細長い島ロング・アイランドの東端となり、白人富裕層の住むハンプトンやワイナリー・エリアでは、トランプによる富裕層や優良大企業に対する大幅減税や助成金といった支援救済措置によって、経済は落ちるどころか更に潤っている、と地元に住む長年の友人は語っていました。

 この友人本人は反トランプですが、彼の会社(ユダヤ系)は熱心にトランプをサポートしており、パンデミックがどうであろうが、トランプがいくら非難されようが、白人富裕層や優良大企業のトランプに対する支持は絶大ですので、「メディアの報道や世論調査がどうあれ、トランプが負けることは無いと思う」とまで言っていました。

 さて、泣いても笑って、その結果がもうすぐわかります。アメリカはどこに向かうでしょうか。

 

トピック:パンデミック下でのライヴ・エンジョイ法

 

 日本のクラブ/ライヴ・ハウスなどでは、人数制限しての部分的な演奏使用が行われており、ホールも徐々に演奏使用の受入れを再開し始め、スタジアムでは50%・80%と実験的に集客数を増やしながら再開に向けて進んでいる、などと聞きますが、ウイルス対策に完全失敗(というか現状無視・対応無視)したアメリカは、そのツケを目一杯に払わされていると言えます。

 

 ほとんどのミュージシャン達は今もストリーミング・ライヴや限られた野外イベントなどで僅かな収入を得つつも、基本的には失業保険による給付金に頼らざるを得ません。

 私もゴスペル・チャーチでのチャーチ・ミュージシャン仕事は、ほとんどのチャーチが今もリモート状態ですので、仕事自体がありませんし、かろうじて仕事を得ているオルガン・プレイヤーなども仕事数や収入は激減しています。

 

 以前少しお話したと思いますが、ドラマーである私の娘も、ウッドストックに拠点を移して以来、ストリーミング・ライヴと限られた野外イベントを演奏活動を続けていましたが、やはり生活のためには別の方法を取らねばならず、今は幸運にもウッドストックのレコーディング・スタジオでアシスタント・エンジニアの職を得て、ミュージシャンとの両立生活を続けています。

 

 状況としては、ストリーミングがライヴの主流である状態が続いているわけですが、おかげで私もパンデミック以降、いろいろなストリーミング・ライヴを観てきましたし、大物アーティストによる有料ストリーミング・ライヴにも大分慣れて、新しいライヴ鑑賞感覚を養えるようになってきたとも言えます。

 

 とは言え、ストリーミング・ライヴであっても、ライヴ・パフォーマンス自体は今も厳しい制限・規制の中にありますので、やはりソロが中心で、対人距離を充分に確保した少人数のバンドやアンサンブルなどといった形になってきます。

 

 巷では「ソロ・パフォーマンスは飽きた」という声も聞かれ始めていますが、それでも普段はバンド単位で動いている有名ミュージシャンによるソロ演奏というのは、機会としてもレアであり、逆に付加価値がついて、見応えがあるものもいくつかあります。

 例えば先日はピアノのブルース・ホーンズビーの有料ストリーミング・ソロ・ライヴを観ましたが、彼の場合は元々ソロ・パフォーマンスも高く評価されてツアーも行っていました。ですが、彼の場合は自分のバンド活動や他の人との共演があまりに多忙で、ソロ・パフォーマンスの機会が非常に限られていたのですが、こういう状況になると逆にソロしかなくなってくるため、ボリューム/内容共にこれまで以上のライヴに接することができました。

 

 ジャズやカントリーは、基本的に編成や動きもこじんまりしていますし、ストリーミング・ライヴといってもライヴDVDや番組を観ているような感じで、それほどの目新しさや臨場感は無いと言えますが、意外と楽しめたのがメタルでした。

 私の大のお気に入りであるLamb of Godを始め、ここ最近はいくつかのメタル・ライヴも鑑賞しましたが、メタルはやはりバンド形態ですからソロというわけにはいきません。

 そのため、基本的にはバンド・メンバー達はクラブ内で距離を取って演奏するパターンが多いのですが、カメラとライティングを贅沢に使って演奏を捉えているものが多いので、これまでのライヴDVDよりも、距離感がグッと縮まり、もっと身近で演奏している感覚を味わうことができるものがかなりありました。

 

 この点はやはりプロダクション・サイドも、いかにモニターの前にいるファン達をノらせ、興奮させ、楽しませるかということを相当考えて対応・実践しており、そうした努力・取り組みは大きく評価すべきと感じます。

 実際に私自身も、モニターを前にソファーに座ってのメタル鑑賞なんて、などと高を括っていたのですが、ライヴが始まってしばらくすると、自分がしっかりヘッド・バンギングしていることに気づきました(笑)。さすがに1人でモッシングしても家の中を壊すだけですから、それはあり得ませんが、“新しいメタルの鑑賞法”というのもこうやってできあがっていくのかもしれません。

 

 このように有名アーティスト達も、ソロ・ライヴのみならず、それぞれに趣向を凝らした有料ストリーミング・ライヴを展開していますが、やはり大物になればなるほどコンサート自体は大型になるわけで、コンサートに携わるクルーの数も多くなります。

 ご存じのように、今の状況においてはパフォーマーであるミュージシャン/アーティストだけでなく、ライヴ/コンサートの会場において仕事に従事し、ショーの運営に携わってショーを支えるスタッフ/クルー達も仕事がほとんどありません。

 しかも彼等にはパフォーマーのようなライヴ・ストリーミングといった代替的手段やネタもありませんので、状況はもっと深刻です。

 

 そこで、ショーに依存して生計を立てているツアーや会場のクルー達に支援の手を差し伸べるために、世界最大規模のイベント・プローモーターであり、会場オペレーターであるLive Nationが設立したのが「Crew Nation」というサポート慈善組織団体・基金です。

 この団体・基金には錚々たる数の大物ミュージシャン達がサポートしており、先日はビリー・アイリッシュが愛犬と共に登場して、自らスタッフ/クルー達にインタビューしながらバックステージ・ツアーを行う映像がアップされました。

 こうした試みは、このパンデミック下で為す術もないスタッフ/クルー達を救う方法として非常に有効であり、アメリカの音楽業界の連帯感や力強さを表していると言えます。

 

 さて、話を再びパフォーマンス・サイドに戻しますが、自宅以外での鑑賞法というものも、少しずつではありますが、徐々に普及し始めていると言えます。

 これも以前お話しましたが、ドライヴイン・シアターもニューヨーク市内で増え始め、私の家の近所にも2カ所できているので、既に何度か足を運んでいます。

 

 このドライヴイン・シアターは、巨大駐車場にスクリーンをセットして、自家用車に乗ったまま映画が観れる屋外映画上映スペースですが、最近登場しているドライヴイン・シアターは、巨大スクリーンと共に特設ステージを設置して、小規模のミュージカルやコメディ・ショーなどといったライヴ・パフォーマンスにも対応しているところが増えています。

 ドライヴイン・シアターでの映画鑑賞に関しては、70年代に既にロサンゼルスで経験していた私にとっては何だか懐かしいという程度で、特に目新しさもありませんが、

ミュージカルはセットもライティングも劇場のようにはいきませんので、それが逆にパフォーマーの技量に一層フォーカスする結果となり、リハーサルを観るような感覚もあり、ものによっては逆に生々しい臨場感もあって、これはこれで楽しめるパフォーマンスであるとも感じました。

 但し、映画とは違って実際のライヴ・パフォーマンスの場合は、車をどこに駐車するか、つまり車からステージまでの距離感で印象は大きく異なることは言うまでもありません。

 

 このドライヴイン・シアターの音楽版がドライヴイン・コンサートとなるわけですが、これはまだ大物有名アーティスト達が対応するようなレベルにはなっておらず、ニューヨーク市内でもまだまだローカルなミュージシャン達が中心になっていると言えます。

 私もまだ1回しか観ていませんが、地元のミュージシャンが集まってのトリビュートものでしたし、自家用車内という点でリラックス度・プライベート感は高いのですが、やはりステージとの距離感に大きく左右されますし、臨場感という点でも、車のフロントガラス越しのステージという視覚と、カーステレオから流れる音楽という聴覚のミスマッチ感が何ともまだ慣れない感じがしました。

 

 そうした中で、オンラインのチケット販売サイトなどでは、既に大物アーティスト達のコンサート告知とチケット販売が再開しています。

 と言っても、これはパンデミックで延期・中止となったコンサートのリスケジュールということになるのですが、これは、もう来年の3月頃からのスケジュールがアナウンスされ始めています。

 ですが、現時点で来年3月や、また夏でさえも大型コンサートを行うことが可能かという保証は何もなく、よってこれらは見切り発車というか、それよりも取りあえず日程だけは組んでブッキングしておき、状況によっては再度延期またはキャンセルすれば良い、という楽観的且つ安易な対応であると言えます。

 現在のパンデミック状況にあまり現実感を持たない人達にとっては、待ちに待ったグッド・ニュースに聞こえて思わず手が伸びてしまう、というのが狙い所のようですが、

例え来年にコンサートが開催できたとしても、入場制限や設営規制などによって、どのような形態・結果となるかも全く予想できませんので、この後の混乱は必至であると危惧されます。

【I Love NY】月刊紐育音楽通信 October 2020

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

                            

日本人には理解できないアメリカのサービスの違い(悪さ)というのは数え切れないほどあると思いますが、配達サービスの酷さというのも上位に入るものではないかと思います。

 例えば通りに停車しているクーリエ便(FedExやDHLなど)のトラックを見ていると、配達員が車内の荷物スペースで荷物を手で放り投げたり足で蹴ったりして仕分けしているのをよく見かけますが、彼等には“壊れたら金で解決(弁償・返金)すれば良い”という発想があるように思います。

 これは紛失に関しても同じことであると言えますが、紛失の酷さではアメリカの郵便局(USPS)がやはりダントツです。

 何しろハガキ・封書、小さな荷物が大幅に遅れたり紛失したりすることはザラですし、それはその地域の人種や所得平均、そして治安とも大きく関係していると言えます。

 しかも現在、このパンデミックによる従業員解雇・削減で郵便局員数も減り、ただでさえ問題のある郵便サービスが一層悪化しています(ちなみに私の場合、最近届けられるはずの小包が3度も紛失しました)。

 そうした状況に加え、この11月3日の大統領選挙(+国会議員選挙)はウイルス感染を避けるため、郵送投票が大々的に行われることになっていますが、郵便局側は今回の郵便投票を最優先するために、一般サービスの停滞・中断も公言しています。

 それでも信頼性の低い(無い)郵便局が膨大な数の郵送投票に対応できるかは不安があり、トランプはその信頼性・有効性を極度に疑って、自分に対抗する民主党基盤の州の郵便投票に関しては、“不正”や“疑惑”有りと判断したら軍隊や裁判所を動かして郵便局を強制的に閉鎖して業務をストップさせることにも言及しています。

 ニューヨーク州は全米で一二を争う“反トランプ州”ですから、今後何が起こるかは本当にわかりません。

 更にトランプの“感染&入院報道”にも振り回され、誰もが“フェイク”や“噂”、“疑惑”や“陰謀説”に翻弄され、益々何を信じて良いのかわからなくなっているという極めて危険な状況であると言えます。

 

 

 

トピック:「COVID-19は音楽業界にいかなる影響を及ぼしているか」

 

 少々前の話になりますが、5月の末に、スイスのジュネーブに本部を置く「世界経済フォーラム」が「COVID-19は音楽業界にいかなる影響を及ぼしているか」という報告書を発表しました。

 70年代初頭に非営利団体として設立された「世界経済フォーラム」は、「ビジネス、政治、学術、その他の社会のリーダーを巻き込み、グローバル、地域、業界のアジェンダを形成することにより、世界の状態を改善することに取り組んでいる独立した国際組織」と言われますが、特定の国家・政治・党派・思想には結びつかず、一定の国益、または組織の利益には結び付いてはいないので、フェアでニュートラルな立場と視点を、持っていると言われています(但し、これは最近の趨勢故、どうしても中国に対するフォーカス度が高まっていることは否めません)。

 

 もちろん専門業界ではないので、カバーしている分野やその分析は少々平均的で突っ込みが足りず、どうしても総合的・包括的にならざるを得ませんが、それでもこの組織の報告書とアジェンダはいかなる分野においても非常に優れていると言えますし、それぞれのトピックを全体的・大局的に理解するには大変都合の良いものと言えますので、少々長くなりますが、今回はその全文を翻訳してご紹介したいと思います。

 

 

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 音楽業界はコロナウイルスに大きな打撃を受けており、ライヴ・パフォーマンスの収益が最大の​​犠牲者となっています。

 6か月間のシャットダウンは、スポンサーシップで業界に100億ドル以上の費用がかかると推定されており、回復が遅れれば更に壊滅的です。

 音楽業界は、音楽消費と革新的なモデルを収益化するための新しい方法で反撃を試みています。

 例えばオンラインのビデオ・ゲーム・プラットフォームである「Fortnite」は、トラヴィス・スコットを起用して3,000万人近くのライブ視聴者を魅了したライブ・ラップ・コンサートを主催しました。

 この危機は、ストリーミングの重要性のもとに、音楽業界の根本的なトレンドの変化を加速させる可能性があります。ちなみにストリーミングは、わずか6年間で業界全体の収益の9%から47%に成長しました。


<音楽のビジネス・モデルについて>

 500億ドル以上の価値があると言われる世界の音楽業界には、主要な収入源が二つあります。まずは総収入の50%以上を占めるライブ音楽で、これは主にライヴ・パフォーマンスのチケットの販売から得られます。

 もう一つは録音された音楽。つまりストリーミング、デジタル・ダウンロード、物理的な媒体の販売(CD、レコードなど)、シンクロナイゼーションによる収益(映画、ゲーム、テレビ、広告用の音楽のライセンス)からの収益を組み合わせたものです。

 今日の録音された音楽は、音楽業界において著作権侵害が発生する前のピークに近づいています。これは、音楽レーベルと消費者の両方によるストリーミング・サービスの選択が拡大していることの証しです。実際に現在、ストリーミングは録音された音楽収入のほぼ半分を占めています。


<音楽産業に対するコロナ・ウイルスの影響について>

1.販売とストリーミング

 パンデミックをきっかけに、録音された音楽収益の4分の1を占める物理的な媒体の売上は約3分の1減少しました。これは、小売店の閉鎖を考えると当然のことと言えます。

 また、デジタル売上も約11%減少しましたが、これは裁量的な支出の中での一般的な減少と同程度であると言えます。

 更に、人々が音楽を聴く方法がコロナ・ウイルスによって変化していることも示しています。

 例えば中国ではTencent Music Entertainment(TME)が、テレビやスマートフォン・デバイスでホーム・アプリケーションを使用する消費者が増えたという、パンデミック時のリスニング行動の変化を報告しています。
 TMEコンテンツ提携部門副社長であるTsai Chun Panによれば、「弊社のソーシャル・エンターテインメント・サービスにはある程度の影響がありましたが、最近は緩やかな回復が見られ始めています。2020年の第1四半期に、オンライン音楽サブスクリプションの収益は前年比で70.0%増加しました。 オンライン音楽有料ユーザーの数は4,270万人に達し、前年比で50.4%増加しました。」 とのことです。


 今年の第1四半期に加入者を増やしたSpotifyも同様に、消費者の日常生活の変化に注目し、日々の視聴習慣というものが、週末の消費(視聴)を反映しているだけでなく、リラックスしたジャンルの人気の高まりというものも反映していると述べています。

 消費された音楽の量に関しては、初期データでは一部の市場でストリーミングが7〜9%減少したことが示されましたが、これは回復したようです。

 それと同時に、オンデマンドのミュージック・ビデオ・ストリーミングが増加していますが、その理由は人々の行動の変化に関連していると言えます。具体的には、パンデミックによって人々はニュース・メディア(特にテレビ)に集中するようになり、通勤時間が減り、ジムの閉鎖などによって、今までとは異なる時間帯でも音楽を聴くようになりました。


2.広告費


 音楽業界も世界中で起こっている広告費の削減の対象となっています。

 Interactive Advertising Bureauの調査によると、音楽メディアのバイヤーとブランドの約4分の1が、2020年上半期にすべての広告を一時停止し、さらに46%が支出を削減しました。

 これは、デジタル広告支出の約3分の1の削減と相まって、広告でサポートされている音楽チャンネルに影響を与えていますし、その結果、音楽業界全体の収益とアーティストの個人収入の両方に影響を与えています。

 例えばSpotifyは、広告予算の変更によって、第1四半期の広告目標を達成できなかったと発表しています。


3.ディストリビューション

 配信側では、リリースを延期するアーティストが増えています。これは、ツアーを使用して新しいアルバムを宣伝できないことが一因と言えます。

 一般的に言えば、ライヴ音楽は劇的な影響を受けており、主要なコンサートやイベントは広範なレベルでキャンセルされました。

 大規模な集会の禁止が続く限り、ライヴ・パフォーマンスの収益はほぼゼロであり、業界の総収益は実質的に半分に削減されることになります。

 チケットと商品の販売は別として、6か月間のシャットダウンは、スポンサーシップの面で業界に100億ドル以上の費用負担がかかると推定されており、回復が遅れれば更に壊滅的です。


 更に、パンデミック後の見通しは困難であるように思われ、ライヴ音楽の成長予測は大幅に修正されると予想されます。

 この部門に対する消費者の信頼を再構築することは正直困難です。ある調査によると、ウイルスに対する実証済みのワクチンが無ければ、再開時にコンサート、映画、スポーツ・イベント、遊園地に行く予定のアメリカの消費者は半数以下とのことです。

 これはアーティストに大きな影響を与えます。ライヴ音楽全体の収益の内、演奏者のシェア分は約1%であったとしても、一般的にアーティストの収入の約75%はライヴ・ショーから生み出されています(因みにこのライヴ収入比率は、2019年は60%、1982年は26%) 。


 こうした差し迫った圧力に対して、音楽業界はCOVID-19の影響を緩和するために、以下のような対応を進めています。


・アーティストとスタッフのための官民サポート・メカニズム


 音楽業界は、コロナ・ウイルスによって収入に影響を受けた人々が利用できるいくつかの資金提供の努力を行っており、そうしたコミュニティーの周りに人々が集まってきています。

 これには、Universal Music Group(UMG)、Live Nation Entertainmentからの多額の寄付のほか、Spotify、Amazon Music、TIDAL、YouTube Musicなどのストリーミングの大企業も含まれています。また、中国最大の音楽プラットフォームであるTMEも、親会社を通じてこの取り組みに参加しています。

 また、多くのプロバイダーは、消費者が資金を直接寄付できるメカニズムも設定しています。

 他の例としては、音楽やイベント制作の停止によって起こる困難なケースに対して、ロイヤルティ支払いの無利子前払いという対応方法もあります。

 公共部門もこれに対応しています。

 世界中の政府は、危機の影響を受けた産業と労働者のための援助パッケージを開発しており、これは合計で数兆ドルの支出、助成金、融資に相当します。

 これらの“活性化”法案は、音楽業界固有のものではありませんが、こうした法案は、メディア、芸術、文化ビジネス、そしてパンデミックによって影響を受けた様々なワーカーのためのセーフティ・ネットワークとして機能・提供されています。


・音楽ファンとの新たな交流方法


 大人数の集会禁止の結果として、いくつかの会場ではパフォーマンスのライヴ・ストリーミングを提供し始めました。ですが、これらの会場自体が閉鎖されたため、こうしたフォーマットでさえも停止されることも起こりました。

 現在、アーティストはTwitch、Instagram TVなどのサービスを利用して、自宅からファンに直接アクセスしています。

 これは新しい方法ではありませんが、パンデミックにより利用可能な視聴者が拡大したため、レコード会社もアーティストにライヴ・ストリーミングのための機器を提供するなどして、こうした取り組みを促進しています。

 このストリーミング・プラットフォームは、ライヴ・コンテンツへの事前アクセスや限定的アクセスなどを可能にする会員制度や、ヴァーチャルなファン・コミュニティ、有料のコメント機能、などによって新しい収益方法も可能にしました。

 中国ではTMEがこうした措置の影響に関するデータを発表しましたが、前出のTsai Chun Panは自社のプログラムTencent Musiciansを通じて「独占契約による収入を受け取っているミュージシャンの80%以上は収入が50%以上増加したのに対し、アーティスト全体では40%以上が100%以上の収入増加を報告しています」と述べています。

 ミュージシャン、レーベル、会場プロバイダーがファンやサポーター達と交流するためのこれらの新しい方法は、オーディエンスとのより強力且つ長期的なつながりのための戦略に成り得るかもしれませんし、音楽業界はそのような取り組みを後押ししています。

 たとえば、フランスのメディア/通信企業であるVivendiでは、アーティストがパフォーマンスを行い、ファンと交流し、コンテンツを共有するためのプラットフォームを開発しました。プラットフォーム自体からは収益を上げていませんが、ロイヤルティ(印税)やスポンサーシップから間接的に利益を得ています。

 また、Verizonは、Live Nation Entertainmentなどのパートナーと協力して、ヴァーチャル・イベントやビデオ・シリーズを企画しています。


・長期的な利益


 長期的に見ると、音楽業界のコアを担う大手チェーンはほとんど変わっていない可能性があります。プロのアーティスト達は、相変わらずUMG、ソニー・ミュージック、ワーナー・ミュージックといった3大レコード会社のいずれかを介して、または独立した出版社を通じて音楽をリリースしています。

 このような運用モデルというのは、97%の市場占有率を持っており、これについては変動が見られる可能性もありますが、激変するほどの可能性はほとんどありません。

 更に、音楽を生み出していく上でのソングライター、作曲家、ポスト・プロダクション・エンジニアの統合という面に関しては、リモートによって更に多くの作業が行われる可能性はありますが、大きく変更されることはないと予想されます。

 また、アーティストとレーベルは、音楽を配信するためのストリーミング・プラットフォーム、会場運営者、イベント・プロモーターとのより密接なリンクを保持していくことになると思われます。

 レコード会社自体も、主に有料ストリーミング・サービスを使用する消費者の増加に伴って、近年その評価を再び高めており、現在設立・公開準備中のレーベルもいくつかあります。

 音楽の消費が増えるにつれ、消費習慣も変化しています。自宅でより多くのサブスクリプション・サービスを利用している消費者もいますが、財政的圧力の下でサブスクリプション・サービスから手を引いている消費者もいます。

 そのため、二つの異なるビジネス・モデルを備えたサービスが、経済が回復するまでの危機的状況の間は、消費者が無料で音楽を消費できるような広告資金によるモデルに変えることによって顧客との関係を維持しています。

 また、危機的状況の間に消費パターンが家庭内にシフトしたため、デバイスやプラットフォームにとらわれないサービスがリスナーをフォローできるようにもなっています。


・適応可能な収益化戦略の維持

 

 今後音楽業界は他のセクターと協力していくための新しい道を開いていくと思われます。

 例えばゲームやテレビは、曲、作曲、楽譜もそのコンテンツに統合していますが、これらのシンクロナイゼーションに関する収益は現在、いわゆる既存の音楽録音物に関する収益の2%しか占めていません。

 シンクロナーゼーション取引のビジネス・フレームワークは、現在まだ開発が充分に進んでいないため、ストリーミング収益に比較し得るシェアに到達するまでには長い道のりがありますが、今後成長の機会は充分にあります。

 例えば中国は、柔軟性を持った対応が実際にどのように機能するかの一例を示しています。

 それはコロナ・ウイルスによる危機の間、音楽ストリーミングにおいて、消費者がアーティストをサポートするための新しいプラットフォームとして「チップ制度」を導入しました。

 将来的にはこのプラットフォームが、ストリーミングにおける新しい収益の流れを切り開いていく可能性もあります。


 音楽の消費がますますデジタル化するにつれて、音楽の配信、それにまつわる様々な発見、そして消費者の行動を形作る上で、サードパーティ(第三者)を通したプラットフォームの役割が高まっています。

 前述しましたように、今回のパンデミックの間、「Fortnite」では3,000万人近くのライブ視聴者を魅了したライブ・ラップ・コンサートを主催し、業界の枠組みを超えたパートナーシップがユーザーを引き付け、アーティストを新しい方法で宣伝する可能性というもの強調しました。

 よって、権利所有者と販売業者は、今後もこうしたアプローチを採用し続ける可能性があります。

 ですがその一方で、音楽業界はストリーミング・ライヴや物理的な(実際の)ライヴ・パフォーマンスに完全に依存せずに、独自の方法で行うことを考えていることも確かです。

 なぜなら、ストリーミングでも実際のものでも、ライヴ・パフォーマンスというのは消費者をつかむには非常に効果的な方法ではありますが、権利所有者はサードパーティ(プロバイダーとなるストリーミング会社やプロモーターなど)のプラットフォームに依存するようになります。

 よって、ストリーミングに関するビジネス・モデルの将来は、これらのサードパーティ、つまりプロバイダーとの関係が将来どのように変化するかに左右されます。

 ちなみに、一般的にストリーミングのプラットフォームでは、プロバイダーは権利所有者にサブスクリプションからの収益の最小割合(Spotifyの場合は約65%)を支払い、追加の報酬はストリーミング数によって決定されています。


 こうした動きは、音楽業界に2つの影響を及ぼしています。

 まず、ストリーミング・サービスを奨励しながらも、ポッドキャストなどのライセンスのないオーディオ形式への消費を促進しています。

 実際にそうした形式へのシフトはすでに始まっており、2014年以降、オーディオの総消費量における音楽の割合は約5%減少し、話し言葉の消費量はすべての年齢層で増加しています。

 このように音楽ストリーミングにおける音楽の割合が減少していくと、そのプラットフォームにも変化が起き、権利所有者とレコード・レーベルとの関係を再交渉する余地も生まれます。

 2つめの影響は、コンテンツ自体に関するものです。

 ある調査によると、最近の楽曲はストリーミングの再生回数を増やす必要性に応えて、より短く、より速くなっています。

 前出のTsai Chun Panは以下の点も指摘します。「ショート・ビデオ(これまでのシングル曲ごとのミュージック・ビデオよりも更に短いプレビュー的な1分前後のミュージック・ビデオ)は新しいエンターテインメント・モデルであると言えます。このモデルには音楽コンテンツに対する大きな需要があり、それは私達音楽業界サイドに多くの新しいチャンスをもたらすだけでなく、新しいコンテンツのプロモーションと配信チャネルも提供してくれます」

 また、TikTokは既に消費者が音楽を発見する方法を変化を生み出しており、今後も進化していく音楽サービスのダイナミズムに貢献していくことが期待される独自のストリーミング・サービスを開発しています。

今月もお読みいただきありがとうございます。
次回の配信は11月上旬の予定です。


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【I Love NY】「月刊紐育音楽通信 August 2020」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

                            

「アメリカのウイルスの状況はどうですか?」「アメリカの人種差別問題の行方はどうですか?」

 最近、そんな質問を日本にいる何人かの人から尋ねられました。私ごときにこのような大きな問題を総括的に論評できる資質はないとも言えますが、それ以上にこの“アメリカの”という括りに土台無理があるということが言えます。

 尋ねる側としては、日本の状況に対してアメリカはどうであるのかを知りたいということなのでしょうが、アメリカという国は法律や税金をはじめ、様々な取り決めが異なる州という自治体が“連邦(フェデラル)”というシステムによって繋がってできている合州国で、それは日本の都道府県とは違ってほとんど異なる国の集合体と言っても良いでしょう。例えばニューヨークとロサンゼルス(カリフォルニア)とテキサスとシカゴ(イリノイ)に住む人間とでは、感じ方や認識、意見も大きく異なります。制御不能とも言えるぐらいの対立・分断状況でウイルスも人種差別も政治に利用されて、政治的視点から語られてしまうという有様なのです。ウイルスも人種差別もそもそも政治の話ではありません。ウイルスは人の命の話であり、人種差別は人の権利の話で政治はそれらの上に来るべきものではないはずですが、今はどちらの問題も政治を背景に真っ二つ割れて対立するというあまりに悲しくお粗末な状況であると感じます。

 例えば今、アメリカではウイルスに関して感染者数や死者数に対して厳しい予想を行ったり感染防止対策を強く求める医者や科学者達には脅迫状が送られ、マスクの着用義務に関しては個人の権利を振りかざして抗議・拒絶するという風潮がどんどんと広がっています。これは日本から見ると狂気の沙汰に思えるでしょうが、それらも今は特に政治が背景にあることが非常に大きな問題となっています。そうした中で「文化」というものも政治に利用されてはならないし、利用されるべきではない、という大前提や理想があると思いますが、最近はスポーツまでもが政治に利用され、分断され、翻弄されてしまいアメリカのスポーツ文化は土台から崩れそうな程揺れ動いています。

 では、音楽に関してはどうでしょう。アメリカの文化の中でも特に“対話”と“融合”に関する意識が強く“プロテスト”という面でも力強い歴史を持つアメリカの音楽文化は、他の文化に比べれば政治に利用・分断・翻弄されることも少なく、その独自性を保ってきていると言えます。

 しかし、これもトランプの登場以来、音楽界にも政治の陰が忍び寄り、これまで反トランプが主流であった音楽界が前回お伝えしたカニエ・ウェストの動きとジェイZとの確執などもあってなにやら怪しげな雰囲気が広がりつつあるように感じます。

 他にも政治色を強めているテイラー・スウィフトや相変わらずの問題発言で論争を巻き起こしているマドンナなどに対する様々な反発や批判。これらは今の世の中の動きから見れば政治の動きと関わる非常に不穏な要素をいくつも孕んでおり、この先アメリカの豊かな音楽文化が足元を掬われる危険性も否定できません。

 今年11月の大統領選が近づき、ローリング・ストーンズやニール・ヤングなどはトランプ陣営が彼等の楽曲を使い続けることに対して訴訟を起こしはじめていますが、そういった政治に対するアクションはあって然るべきと言えます。政治に利用・分断・翻弄されるといった“政治の介在”は避けなくてはなりません。

 Covid-19というウイルスは音楽界の活動・ビジネスを根底から覆し始めています。音楽界にはまた別の形の“ウイルス”が侵入しはじめている、そんな恐れを益々感じる今日この頃です。

 いずれにせよ、これから11月までの動き、そして、その後に起こる動きには充分注意していかなければならないと感じています。 

 

 

 

トピック1:試行錯誤のZOOMプロジェクト体験記

 ニューヨーク州は今回のパンデミックで全米最悪の数字を記録しました。それは世界的に見ても最悪級の数字であると言えますが、現時点で死者数が3万3千人近くで、現在感染状況が最悪の南部(特にフロリダとテキサス)も到達できない(そもそも、到達してほしくないですが)数字であると思います。

 人口100万人辺りの死者数が1700人近くというのも全米でダントツの数字で(実はこの数字に関してはニュージャージー州の方が100人ほど上回っていますが)、今思い出してもピーク時のパニック感というのは半端ではありませんでした。

 私自身の回りで亡くなった友人・知人は今のところ6名。これは特別な話ではなく、ニューヨーカーであれば誰かしら死者や入院者がいる人がほとんどであると思われます。

 それが今や、ニューヨーク州は全米で最も感染の抑え込みと再オープンに成功しつつある州と見なされています。もちろん、まだ全ては進行中で油断は禁物ですし、楽観視できません。最近はニューヨークにおいても若者のウイルスに対する理解・知識の低さと無軌道な行動ぶりが非常に大きな問題になっています。新年度を迎えて学校がリモートから対面形式に戻って再オープンすることによって、どのような結果が待ち受けているのかには不安と恐怖も感じます。

 ですが、取りあえずニューヨークは他州よりは、ある程度しっかりとした理解と節度をもって、再オープンまたは復興に向かって進み始めていると言えるでしょう。

 前回は、私の娘が体験したパンデミック下でのレコーディング話をご紹介しましたが、その後もレコーディングの機会は少しずつ増えてきているとのことでストリーミング・ライヴも自主的/インディーなものだけではなく、スタジオ、ヴェニューや団体組織などの主催による客無しストリーミング・ライヴも徐々に増え、娘も既にいくつか出演しているようです。

 また、先日は新しいプロモーション・ビデオの撮影も行われたそうで、充分な距離を保った上での野外撮影に出演してきたそうです。もちろん様々な制約はあるものの、少なくとも「仕事が何も無い」という状況からは抜け出した、という実感は娘自身も大分持てるようになってきたようです。

 確かにレコーディングは小規模で宅録的なプロダクションが中心で、このパンデミック下でも着々と行われています。大規模な国内ツアーの話も現時点では年明けから再スタートというスケジュールが組まれ始めています。

 そうした中、私自身もこれまでとは全く異なる形ではありますが、新しいプロジェクトを始めることができました。今や皆さん誰もが利用しているウェブ・ビデオ会議用のアプリサービス「ZOOM」を使った音楽セミナーです。

 正直言えば、私はこうした新しいテクノロジーに弱い、というか腰の重い人間です。何しろソーシャル・メディアも避けている人間ですし、未だにレコード・プレイヤーやCDで音楽を聴き、ビンテージの楽器で演奏している人間ですので、今の若者達からは“化石”のように思われていると思います。

 そんな時代遅れの古い人間が、更に私よりも古い世代の人間から、新しいテクノロジーを使ったプロジェクトを手伝ってくれないかと誘われたのですから、これはある意味で笑い話とも言えるかもしれません。

 私などに相談を持ちかけてくれた“奇特な”人はデヴィッド・サンボーン。ご存じの方も多いと思いますが、特に70年代から80年代にかけての代表作・ヒット作の数々と大物シンガー達のヒット曲におけるソロによって、まさに一世を風靡した現代最高峰のサックス奏者一人です。

 6度のグラミー賞受賞と8枚のゴールド・アルバムに1枚のプラチナム・アルバムを誇り、彼の地元セントルイスでは、チャック・ベリーやマイルス・デイヴィス、ティナ・ターナーなどと共にいわゆる「アメリカ文化の殿堂入」を果たしているレジェンドでもあります。

 因みに彼は私にとって約45年間に渡る“サックス・ヒーロー”であり師匠でもあります。時折電話をかけてきてくれたり、パンデミック前までは彼のライヴに足を運んで楽屋でしばしの歓談を楽しんだりもしてきましたが、そんな彼も75歳。

 演奏はもちろんまだバリバリの現役ではありますが、マンハッタンの喧噪を離れ、ニューヨーク市の北側に位置し、ロックフェラー家の地元としても知られる高級住宅地に引っ越し、ハドソン川を見下ろす日本的な要素も取り入れた自宅スタジオもある邸宅に居を構えています。

 そんな超大物サックス奏者の彼でも、このパンデミックによる影響は極めて深刻です。何しろ国内・海外問わずツアーというものができないことは、今でもライヴ演奏に重きを置く彼には活動的にもまた経済的にも大きな制約となっていると言えます。そのことは私も充分承知はしていましたが、まさか彼からZOOMプロジェクトのアイディアを聞かされるとは思ってもいませんでした。なにしろ、サンボーンも私もZOOMの重要性・可能性は理解していても、日常的にそれを使用、または使いこなしている人間ではありませんので、話はイメージの領域を出ず中々具体的な形になっていきませんでした。

 そんな状態の中、サンボーンを見出し、以後長年に渡って彼の活動を支えている彼のマネージャーも加わり私も含めた3人での話し合いがスタートしました。このマネージャーは、やはりアメリカ音楽界の中では名マネージャーとして知られる大ベテランの重鎮で、サンボーンの他にもアル・ジャロウを見出して、ジャロウが亡くなるまで彼のマネージメントも手掛けました。また、70年代当時、大人気のジャズ・フュージョン・グループであったクルセイダーズでの活動と同時にソロ活動を開始したジョー・サンプルのマネージメントも手がけ、やはりサンプルが亡くなるまで彼のマネージメントにも取り組んでいました。世代的には彼等と同じでサンボーンと共に70歳台。彼等よりは年齢的に若いとは言え60歳台の私が加わり、新しい時代のアプリ&コミュニケーション・ツールと言えるZOOMを使ったプロジェクトに取り組もうというのですから、事は容易であるはずがありません。

結局、サンボーン側は、マネージャー氏のプロダクションに所属する若いアーティストにアドバーザーとなってもらってヘルプしてもらい、私の方では、今も毎週自分のストリーミング・ライヴを行っていて、様々なアプリやコミュニケーション・ツールに詳しいミュージシャンの娘とブルックリンの大学でアスレチック部門のディレクターを務め、ほぼ毎日ZOOMで数十人の生徒に教えている息子に助けを求め、一からいろいろと教えてもらって、何とか知識と経験を積み重ねてきました。よって、若い世代の人達の助け無しには成し得なかった新しいプロジェクトでしたが、その他様々な人達の助けやアドバイスを受けて何とか形になり、先日第一シリーズとなる計5回のセミナーを終えたところでした。今回のサンボーンによるZOOMクラスは、いわゆる「マスター・クラス」と呼ばれる有名アーティストの音楽や演奏をアーティスト本人が解説・演奏するというもので、それを世界に先駆けて日本のファン/サックス奏者達に届けようというものでした。基本的にミュージック・ティーチャーまたはレッスン・プロとアーティストとは別個に捉えられているアメリカでは「マスター・クラス」はアーティストによるセミナーとして一般的なスタイルであると言えますし、最近では、ハービー・ハンコックやサンタナ、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーンのトム・モレロなどもこうしたクラスを行っており、以前よりも有名アーティストが登場する機会も増えています。

 ですが、今回のサンボーンの「マスター・クラス」は、これまでのように視聴者が単にクラスを視聴するだけという一方通行的なものではなく、ZOOMというウェブビデオ会議用のアプリ/サービスならではの利点を活かして、従来の対面式によるプライベート・レッスンやグループ・レッスンさながらにインタラクティヴなコミュニケーションを行おうとしたもので、サンボーン自身の提案で敢えて「マスター・クラス」とは名付けず「セッション」と命名されました。これはアイディアとしては大変素晴らしく、実際に視聴・受講する側にとっても大変嬉しいものであると思われます。ZOOMは会議用に開発されたソフトであって、決して音楽向けではありません。実際に音楽分野においてはまだまだ発展途上であると言えます。そのため、音源・音楽を発信・送信する側の環境がよほどしっかり整っていないと音や音楽を使用したインタラクティヴなやりとりは困難であると言えました。今回のセミナーの“教室”つまり発信地となったサンボーン宅にある自宅スタジオは、これまでレコーディングにも対応してきましたし、自宅のリヴィング・ルーム・スタジオ(演奏スペース)として、オンラインのTV番組の収録も行ってきました。よって充分なミキシングに対応できて“発信元”としては機材的、スペース的、環境的に申し分なく、実際にも問題ありませんでした。しかし、その一方で視聴・受講する側は、プロ・サックス奏者の受講者を除いては、音声に関する送信機器(根本的にはマイクとミキシングと)に関する準備対応がほとんどされておらず、サックスという非常に音量の大きなアコースティック楽器故に音が聴き取れず(コンピュータ内蔵マイクやスマホ用マイクなどを使用していたためリミッターが掛かってしまう)、肝心要のインタラクティヴなやりとりが困難になる場面が多々ありました。しかも、日本の住宅環境という問題も重なり視聴・受講者のほとんどがレンタルの練習スタジオやカラオケ・ボックスなどを利用するという様々な問題を引き起こしました。このように、多くの問題を抱えた第一シリーズでしたが、それでも問題点はある程度明確になってきましたし、今後の対応策や解決法もかなり見えてきました。失敗は成功への第一歩で何事もやってみなければわかりません。

今回は私自身の拙くお粗末な体験談を元にこのパンデミック下を乗り切ろうとする一つの試みについて紹介しましたが、60~70歳台の高年齢層でもこのくらいの試みには取り組めているのですから、もっと若い世代の人達には、更に柔軟でオープンな創意工夫が何倍・何十倍も可能なはずです。どんな状況においても、いかなる状況となっても音楽は素晴らしいということは変わりません。要は新たなテクノロジー(時には古いテクノロジーも)を利用して、手段(ツール)を選ばず、そして誠意をもって取り組み続ければ“音楽を届ける”仕事が消えることは決してないと確信しています。

 

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次回の配信は9月上旬の予定です。


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【I Love NY】「月刊紐育音楽通信 June 2020」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

                

英語で「heart-wrenching(ハートレンチング)」という形容詞があります。一般的には「痛ましい」「悲痛な」と訳すことが多いですが、「ハート」に続く「レンチング」つまり「レンチ」とは「ねじり取る」「もぎ取る」という意味ですので、直訳すれば、「心臓をもぎ取られるような」という強烈な形容と言えます。レンチという工具も「ねじり取る」「もぎ取る」という言葉から来ているわけですが、私自身としてはこのレンチという工具で心臓をえぐり取られるような、おぞましい響きがあります。
 全米のテレビやオンラインで一斉に映し出された5月25日の事件の映像は、まさにこの「ハートレンチング」そのものでした。場所はアメリカ中西部ミネソタ州ミネアポリスの近郊。ラッパーでもあるジョージ・フロイドという46歳の黒人男性を、警官が4人がかりで路上(路面)に押さえ込み、その内のデレク・ショーヴィンという白人警官がフロイド氏の首を8分46秒間に渡って膝で強く押し付けて窒息死させた虐殺の一部始終が、近くにいた人達の携帯電話でビデオ撮影されて公開されたのです。
 頸動脈を塞がれ、体の反応が失われていき、言葉も出なくなっていき、最後は「息ができない。殺さないでくれ」という言葉を発し、鼻血を出して動かなくなり、到着した救急車の担架に無反応な体が乗せられ、という本来ならば公共の電波やネットでは流されるべきではない映像が、視聴者にとてつもないショックを与えました。
 この「ハートレンチング」な事件に続く全米各地でのプロテストの広がり、そして平和的なプロテストの一方で一部暴動・略奪が起きていることはニュース報道でご存じと思います。メディアというのは常にセンセーショナルな部分ばかりをフォーカスしますので(現在の大統領/政府も同じ姿勢と言えます)、「プロテスト=暴動」とも取られがちです。確かに、あまりのショックと怒り・悲しみによって、特に地元を中心としたプロテスター達は過激になっていったこと、また、警備にあたる警官達とのやりとりやもみ合いの中で過剰に反応していったことは間違いありませんが、その基本姿勢としても、また実際のアクションにおいても、プロテスト自体は平和的または非暴力を前提としたものであると言えます。
 特にここ数日は、プロテストの行進の途中で通り過ぎる病院から医療従事者達が外に出てきて拍手とニーリング(膝立ち)で出迎えてくれ、プロテスターも医療従事者への感謝と賞賛として拍手や歓声で返す姿は、コロナと人種差別という二つの大きな問題を抱える市民の共通意識・認識と連帯を表す美しい光景であると言えます。
 実際に私自身も私の子供達もプロテストに参加していますが、発生した破壊・略奪行為やその跡形というのは、まるで別世界・別次元のように思えますし、明らかに“正”と“負”の“異なる2種類のプロテスト”が存在していると強く感じます。
 よって、“負のプロテスト”を許さないのが、私達自身も含め、プロテスター達にとっても非常に大切な点であり、“正のプロテスト”を拡大して、警察・司法・自治体・連邦(国家)に対して「ジャスティス(公正、正義)」を主張し続けることが真の目的・使命であると言えます。
 今回の事件によって、コロナから抜け出す「リオープン(再開)」があらゆるレベルで後退するのは間違いないと言えます。ですが、人間の生きる権利や尊厳すら踏みにじられ、「公正」という言葉も見えない状況では、「リオープン」は形ばかりで意味の無いものであると断言しても過言ではないと言えます。「経済」を立て直して「ウイルス」を駆逐するその前に、自分達自身の「意識」を立て直して「憎しみ・差別」を駆逐する必要があることを、フロイド氏の死は語っているように思えます。
 事件から一週間後の6月1日、フロイド氏の弟であるテレンス・フロイド氏は兄が殺された場所を訪れ、泣きながら祈りを捧げた後、集まった人達に向けて「別の方法」へのチェンジを訴え、「Peace on the left, Justice on the right(左に平和を、右に正義を)」と叫びました。憎しみ・対立と不正が平然と存在する今の世の中において、この言葉はとてつもなく重いと言えるでしょう。

 

トピック:アメリカ音楽界における過去と今回のプロテストについて

 

 今回のニュース・レターでは、ようやくコロナ後のリオープンに向けて動き始めたニューヨーク・シティの様子と、前回の続きとして、ストリーミング・ライヴなどの様々な試みを始め、音楽業界の新たな動きなどについてご紹介する予定でしたが、それらは上記の事件の衝撃で全て吹っ飛ばされ、一時的に麻痺してしまっているような感があります。
 この後、事態がどのように進んでいくのかはまだ予断を許しませんが、現状としてはまだ、白人警官達によるあのおぞましいリンチ殺人とその映像、そして全米各地での破壊行為とその傷跡に、人々は放心状態になっていると言っても過言ではないと思います。
 ちなみに、私の娘のアパート(ロウワー・イースト・サイド)周辺の飲食店などはほとんどが襲撃されてダメージを受け、私がオフィスとして間借りしているビル(ミッドタウン)の向かいにある大型家電店舗は完全に破壊されました。
 私自身は幸い暴動の現場に居合わすことはありませんでしたが、自宅周辺での破壊略奪行為の最中、叫び声や銃声・破壊破裂音、サイレンや空を飛び交うヘリコプターの音で明け方まで一睡もできなかったという娘の話には戦慄しました。
 暴徒に襲撃された翌日に破壊された跡を自分の目で見た時は、もちろん大きな衝撃を受けましたが、それは19年前、2001年9月11日の同時多発テロ直後の衝撃とは明らかに質の異なるものと言えました。それは、9/11のテロが外からの攻撃であったのに対し(例え原因・理由は内にあるとしても)、今回の暴動は全てが“自分達の社会や意識の中から生まれたもの”、または“自分達の社会の結末、または意識の結果”であると言うことができると思います。それだけに、今回の傷は極めて深く、衝撃度も大きいと言えます。

 ですが、その後様々な方面から沸き起こっているポジティヴな思考や方向性、実際のプロテストの行き先や目指すところなど、力強い主張や提言によって、楽観的すぎるかもしれませんが、人々の意識は前進し始めているようにも感じます。問題は、その結果として社会がどれだけ変わることができるか(政治は少なくとも今年11月の大統領選までは変わりません)、ということであると思います。

 そうした中で、音楽界における動きも今回は非常に活発と言えますし、これまでも今回のような黒人に対する白人警察の暴力・殺人事件に対しては、音楽界は敏感且つ積極的に反応してきました。

 1965年に起きたカリフォルニア州ワッツ(その後ロサンゼルス市に吸収合併)暴動と、それに呼応したスタックス・レコードによる大コンサート「ワッツタックス(Wattstax:ワッツとスタックスを組み合わせた造語)」は、今も語り継がれる大事件&歴史的大イベントでしたが、もう少し近いところでは、1992年に起きたロサンゼルス暴動が、音楽界の幅広い分野で強い反発が起きた最初の事件とも言われています。
 これは、ロドニー・キングという黒人男性が飲酒運転&スピード違反の現行犯で逮捕された際に、警官達(白人3人とヒスパニック系1人)に警棒などでメッタ打ちにされるという事件が起こり、起訴された警官達が無罪となったことをきっかけとして起きた暴動でした。
 被害もワッツ暴動を大きく上回り、死者60人以上、逮捕者1万人以上、破壊された建物1000以上、襲撃・略奪された店舗4000以上で、当時の故ブッシュ大統領(父)が約4000人の軍隊と約1000人の暴動鎮圧特別チームを出動させるという非常事態となりました。

 この時の音楽界の反応として、最も過激で話題になったのがアイスTのメタル・バンド、ボディ・カウントによる「コップ・キラー(警官殺し)」でしたし(当時、発売中止処分)、後にレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンがロサンゼルス暴動を題材にしたアルバム「ザ・バトル・オブ・ロサンゼルス」を発表したことも良く知られています。
 ですが、そうした過激なリアクション以上に、多くのアーティスト達がプロテスト的な曲やアルバムを発表したことも注目されました。例えば、ラップ界では2パック、アイス・キューブ、ドクター・ドレ、レッドマンなど、ロック界ではブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・ボウイ、エアロスミス、トム・ペティ、ビリー・アイドル、ベン・ハーパー、スレイヤー(アイスTとの共演)、ジャズ界でブランフォード・マーサリスなどが音楽によるプロテストを行いました。

 90年台はその後も白人警官による黒人殺傷事件が続きましたが、その極めつけとも言え、音楽界も強く反発したのが、1999年ニューヨークで発生したディアーロ事件です。
 これは当時、ニューヨーク市警の警官達が、銃も持っていないアフリカ系移民のアマドゥ・ディアーロという青年に向かって41発も集中発砲して殺害したという恐るべき事件で、この時もパブリック・エネミーやワイクリフ・ジョンを初めとする多くのラップ・アーティスト達がプロテストの曲を発表しましたが、最も話題となったのはブルース・スプリングスティーンが発表した「アメリカン・スキン(41発)」であったと言えます。
 この曲はニューヨーク市警の警官達の感情を逆なでし、警官達の組合がスプリングスティーンのコンサートをボイコット(具体的にはコンサートの警備をボイコット)するという強攻策に出て、両者の間と、市民と警察の間で緊張感が高まりました。
 ちなみにこの曲は、ジャクソン・ブラウンやメアリー・J.ブライジ(ケンドリック・ラマーとの共演版もあり)などにも歌い継がれています。

 2000年に入ってからは、特にこうした警官による黒人殺害事件は急激に増えていきました。
 大きく報道された事件に限っても、2005年ニューオーリンズ(犠牲者複数。以下カッコ内は犠牲者名)、2006年ニューヨーク(ショーン・ベル氏)、2009年カリフォルニア州オークランド(オスカー・グラント氏)、2011年カリフォルニア州フラートン(ケリー・トーマス氏)、2014年ニューヨーク(エリック・ガーナー氏)、2014年ミズーリ州ファーガソン(マイケル・ブラウン氏)、2015年サウス・カロライナ州チャールストン(ウォルター・スコット氏)、2015年ボルティモア(フレディ・グレイ氏)、2015年シカゴ(ラクアン・マクドナルド氏)、2016年ミネソタ州ファルコン・ハイツ(フィランド・カスティーユ氏)、2016年オクラホマ州タルサ(テレンス・クラッチャー氏)、2018年ピッツバーグ(アントウォン・ローズ2世氏)、2018年テキサス州アーリント(オシェイ・テリー氏)と続いていき、今年2月のジョージア州ブルンズウィック(アーモー・アーベリー氏。但しこちらは警官ではなく白人親子による殺害)と先月末のミネアポリス(ジョージ・フロイド氏)に至っているという、あまりにも痛ましい状況です。

 今回の事件に対しては、まだコロナ・ウイルスによる制限下にあることから、大々的なプロテストの新曲発表やライヴ、コンサートといった形はまだありません。プロテストはソーシャル・メディア上のコメントが中心となっているわけですが、その急先鋒の一人となっているのは意外にもテイラー・スウィフトであると言えます。
 スウィフトというアーティストは、そもそも政治には全く無関心なタイプと言えました。これまでLGBTQ差別や女性差別に対しては強い態度をもって発言を続けてきましたが、それが2018年の中間選挙時に突如、彼女が選挙権を持つ地元テネシー州の上院と下院における民主党候補者への支持と投票を表明して周囲を驚かせました。
 この支持・投票表明発言を行ったツイッターの反響は極めて大きく、スウィフトの表明によって、彼女のファン層である若者層による有権者登録が7万から15万ほど増えたとも言われています(但し、機密性が重視される選挙データゆえ、それを証明することはできません)。

 さらにスウィフトは、この国には白人であることの特権というものが存在することを認めた上で、現在の黒人運動としては最も勢力を持つBLM(ブラック・ライヴス・マター)の運動への支持を表明し、益々政治色も明確にしていき、昨年の夏頃からはトランプに対する批判をツイッターで展開し始めました(当然のことながらトランプは反ツイートしています)。
 そうした彼女の最近の動きからみれば、これは至って当然とも思えるのですが、今年起きた前述のジョージア州でのアーベリー氏の事件と今回のミネアポリスのフロイド氏に関する事件に関しては明確なプロテストと共に、それらに対するトランプの対応を厳しく非難し、ツイッターの「いいね」の最高獲得数も更新しているという状況です。

 スウィフトの姿勢は今回も特に目立っていますが、他の有名アーティスト達も次々とプロテストを表明し、例えばアリアナ・グランデやホールジー、マシーン・ガン・ケリー、トラヴィス・バーカー(Blink-182のドラマー)などは実際にプロテストに参加しているようです。

 そうした中で、今回はいわゆる音楽業界の中からプロテスト・キャンペーンが生まれました。「ブラックアウト・チューズデイ」と名付けられたもので、先日2日火曜日に行われたばかりでした。これは黒人コミュニティに対するリスペクトとサポートを目的として今回の事件にプロテストするもので、簡単に言えば6月2日の火曜日に音楽業界が業務休止を行ったボイコット運動です。

 このキャンペーンをローンチさせたのは、アトランティック・レコードで要職に就いているブリアナ・アギエマンとジャミーラ・トーマスという二人の黒人女性(前者は既に退社)で、ソーシャル・メディアを通した呼びかけに対して賛同者があっという間に増え、黒人系音楽企業や黒人がトップを務める企業や黒人アーティスト達はもちろんのころ、企業では音楽業界の旧3大企業であるワーナー、ソニー、ユニヴァーサルの3社全て(更にその傘下のレコード会社各社も)が賛同・参加し、スポティファイやアップルといった現在の巨大企業や、興行界のトップであるライヴ・ネイションを始め、音楽業界の主要なビッグネーム達が顔を揃えました。
 また、アーティスト達も即座に反応し、ローリング・ストーンズ、クインシー・ジョーンズ、ビヨンセ、レディ・ガガ、リアナ、ピンク、ケイティ・ペリー、テイラー・スウィフト、ビリー・エイリッシュ、ヨーコ・オノなどといったそうそうたるアーティスト達がサポートを表明しました。

 「音楽産業は数十億ドル規模の産業であり、主に黒人達のアートから利益を得ているのです。私達の使命は、黒人達の努力、闘争、成功から利益を得ている主要企業とそのパートナーを含む業界全体を支えることです。そのためには、透明で目に見える形で、裕福さが偏ってしまった黒人コミュニティを保護し、権利を守ることが、我々の義務であるのです」というのが、このキャンペーンのミッションとなっていますが、今も搾取され続け、いびつな富の分配が成されている現状を改善することが業界の義務である、と宣言している点は、これまで誰もが感じていても公に宣言しなかった(できなかった)ことをしっかりと捉えていると言えますし、驚くべき早さでこれだけの賛同が得られ、音楽業界を超えて更に広がりを見せている大きな理由であると言えます。

 但し、このキャンペーンに対しては早速批判もいくつか起こっています。それは人種というセンシティヴな部分によるところもありますが、「今はサイレント(休止)の時ではなくアクションの時だ」という更にアクティヴな意見もあるようです。
 とは言え、今はどんな形でもアクションを起こすべき時であると言えますし、このキャンペーンがアメリカの音楽業界内の差別と搾取・不正、そしてより活発な制作活動・業務を後押しすることになればと願うばかりです。

【I Love NY】「月刊紐育音楽通信 March 2020」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

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 ニューヨークに移り住んで30年以上。大停電と暴動とシリアル・キラー(77年)、戦争当事国としての開戦または戦争介入(91年湾岸、2001年アフガニスタン、2003年イラク)、テロ(1993年ワールド・トレード・センター爆破テロ、2001年9/11同時多発テロ)、ハリケーン・サンディーによる大被害(2012年)など、日本では起こりえないような様々な事件を経験してきたと思っていましたが、これほどまでに日々の生活が大きく変化する経験は初めてであると言えます。

 何しろ、マンハッタンに間借りしている自分のオフィスに行くこともできず、仕事仲間と会うこともできず、同じマンハッタンに住んでいる家族(子供達)とも会うことができず、ただひたすら自宅に引きこもり、身の回りでは徐々に感染者が増えていく一方で、娘も結果的に感染した友人と接触したため2週間の自宅隔離状態となり、私自身も感染するのは時間の問題という不安にさいなまれる、といった状況に陥っているのですから。

 それぞれが抱く、明日の収入、明日の生活、そして明日の我が身すらが闇の中にあるというこの危機感・不安感というのは、やはり置かれている状況によって異なるし、結局は当事者でないとわかりづらいものであると思いますが、今回のウイルスに関しては地域差というものが大きく、特に日米または日欧の認識・理解の格差は広がるばかりと感じます。

 日本では既にイベントが再開されたり、できる限り国や自治体による大規模な規制は行わない方向にあると聞きますし、ようやく延期となったオリンピックも、世界各地におけるウイルス蔓延の中で開催の意思や意欲が公表され続けていましたが、それらはアメリカ側から見れば信じられないことであると言えます。

 先日、ワシントン・ポスト紙は、まだオリンピック開催にこだわっている日本を“無責任“と批判する記事を掲載しました。これは日本の方々には極めて不愉快な論評であるとは思いますが、ニューヨークを始め、アメリカの一般的市民の感覚としては、正直な意見であったと思います。

 なにしろ、アメリカの感染者数は遂に中国、イタリアに続いて3番目となり、このままでは中国に迫る、または追い越すのは時間の問題と言われる。。。現在アメリカ全土の中で最大の感染者を抱えるニューヨーク州の感染者数は、ニューヨークに次いで第二位・第三位の感染者を抱えるカリフォルニア州やワシントン州(当初は感染者最多)の10倍以上となっている。。。東京都の半分ほどしか無いニューヨーク市の感染者は、既に日本全土の感染者を超え、死者も日本全国の倍以上となってしまっている。。。といった危機的状況が背景となっている部分は是非ともご理解をいただきたいと願うばかりです。

 それにしても、今回はテロ以上に目に見えないウイルスという“敵”と対峙しなければならないのですから、そのストレスや不安の大きさは計り知れません。またその反対に、目に見えないが故に現実を認識・理解できない人達、または逆に制限・禁止というストレスに満ちた現実に反駁する人達もアメリカには多いと言えます(例えば、テキサス州知事や、超保守的なキリスト教原理派など)。

 今回のウイルスで、分断されたアメリカが再び力強い絆を持つようになる、と主張するアメリカ人も多くいますが、それに関しては非常に懐疑的です。一時は敵対から強調路線へと変更するかに見えたトランプも、結局は相変わらずの排他主義とアメリカ至上主義に戻っていますし、国内のみならず、ある意味見せかけのグローバリズムの崩壊によって、国、地域、人種に関する排斥意識・差別意識は確実に以前より増していることを強く感じます(特にアジア人である自分にとっては)。

 それでも、ポジティヴな面をいくつか挙げるとするならば、みんな不健康な外食をしないようになり、車や飛行機などの利用や工場の稼働などが減って大気汚染が軽減され、自宅にとどまって自分たちの生活を見つめ直す機会になっているということでしょうか。そして何よりも、今まで以上に「時間」があり、「家族」が共にいるということ(もちろん別居・独立している家族は別ですが)。そのことを真っ先に感じ、我が家でこの状況を一番喜んでいるのは、日頃留守番ばかりであった愛犬であるようです。

 

トピック:襲い来るウイルスに対して音楽は無力なのか

 

 前述のテロや戦争、大災害の時も同様な印象を持ちましたが、今回ほど、音楽というものがあまりに無力であることを痛感したことはないと言えます。現在、ニューヨーク州では、市民の生活にとって重要(エッセンシャル)であるかどうかで、ビジネスのオープン/クローズが決められ、市民生活も厳しく規制されていますが、音楽はもちろん重要では無い(ノン・エッセンシャル)ビジネスとなりますし、その厳しい規制の中で動ける余地はほとんどありません。

 何しろ人が集まることを規制するわけですから、コンサートやライヴ・ハウスの運営は許されません。つまり、音楽ヴェニューのシャットダウンによって、ミュージシャンは完全にパフォーマンスの場を失っているというのが現状です。

 内輪の話で恐縮ですが、ドラマーである私の娘は最近、ある新人歌手のバンドに加入して、2月末からオープニング・アクト(前座)として有名アーティストの大型アリーナ・ツアーに参加し始めましたが、その矢先のこの騒動で、ツアーは3月後半から全て延期となりました。しかも、ツアー先の西海岸にいる間にカリフォルニア州で外出禁止令が出て、その後にニューヨーク州でも同様の法令が発令されて身動きが取れなくなってしまいました。飛行機はガラ空きですので、ニューヨークに帰ること自体は可能でしたが、何しろ航空会社(客室乗務員など)も空港(セキュリティ業務の空港従業員など)も感染者が続出しているので、飛行機で帰るのは感染のリスクが高すぎるということで、何と車で5日間かけてアメリカを横断してニューヨークに帰ってきました。しかも途中、アジア人であることで泊めてくれないホテルがあったり、車が故障してもやはり同様な理由で断られたりなど、散々な思いをしたようです。

 こんな話は今、ミュージシャン達の間ではあちこちで聞かれていますし(差別に関してはアジア人ならではですが)、今はショーの延期またはキャンセルと、感染の恐れという二重苦ならぬ二重の不運から逃れることは誰もができない状況です。

 一般的な興業の世界においては、所謂スケジュール変更や延期というのは可能です。特に今回の場合はアーティスト都合ではありませんし、結果的には全ての公演がずれていくという形になります。しかし、いつにずれ込むのかということに関してはまだ未定で全く確証も保証もありませんし、それまでは無収入状態が続くことになるわけです。また、延期というものにも限度がありますし、延期期間が長くなれば、その分間引き(つまり完全キャンセル)されるアーティスト達も増えていくことになります。

 音楽活動に対する制限はパフォーマンスの場だけではありません。人が集まることを規制する以上、レコーディングやリハーサルといったスタジオに集まっての活動も禁止されます。

 これは地方自治体によって多少異なりますが、現在はまだ10人以上の集まりを禁ずるところが多いので(ニューヨークなどは3人以上禁止ですが)、少人数であればまだ対応は可能な場合もあると言えますが、感染というセンシティヴな問題故、人数の問題だけではありません。なにしろ、ほとんどが外気換気が可能な窓などの無いスタジオという“密室”での作業となるわけですので、感染のリスクは極めて高くなります。

 実は先日、まだニューヨークで10人以上の集まりが禁止であった際に、エンジニアの自宅スタジオにて3人ほどでのプリ・プロダクションの話がありました。お互いによく知る間柄ですし、最初はまあ大丈夫だろうという軽い気持ちであったのですが、急激に感染が広がって深刻な状況となっていったため、一人は喘息持ちであることを理由に、もう一人は軽度ではありますが免疫システムに問題があるということを理由に、3人が集まってのプロダクションはやめようということになりました。

 ご存じのように今回のウイルスは新型の肺炎ですし、その死者の圧倒数が、呼吸器系機能の弱まっている老齢層と、既往症を持つ人達(つまり、合併症を起こして死に至る)となっています。そのため、人々は自分の持病や既往症に極めて敏感にならざるを得ませんし、安易な判断や過信は禁物となっています。

 こうした状況故、アーティスト/ミュージシャン達は益々神経質になっていき、実際に次々と活動面での行く手を阻まれているわけですが、彼らもただ手をこまねいて見ているわけではありません。今、多くのアーティスト/ミュージシャン達は、突然降ってわいた時間を使って、これまで以上に自分達の演奏スキルを向上させることや自分の音楽(曲や歌)を書くことにフォーカスすると共に、多忙な人ほど手をつけることが少なかったマーケッティングとソーシャル・メディアのスキルを磨くことに熱心になっているようです(そして、外出の多い彼らが中々見つけることのできなかった「家族との時間」も)。

 具体的には、アーティスト/ミュージシャン達はオンライン上で新しい音楽を発表し、演奏し始めています。それらはつまり、ライヴ・ストリーミングということで、これまでにも頻繁に行われてきたものではありますが、その比重と意味合いは全く変わってきたと言えます。

 これまでライヴ・ストリーミングに関しては、大がかりなイベント的な性格を持つ物以外は、どちらかというとマニアックなニーズに応えるようなものであったり、プライベートな内容のものであったり、インディーズ系など予算の無い場合が主流であったと言えますが、現在は発信する(できる)場所が基本的には自宅しかなくなっているため、自宅がスタジオであり、ライヴ・ハウスであり、大げさに言えばコンサート会場であり、全ての活動と発表の場の拠点となっているわけです。

 前回のニュース・レターをお読みの方は、今年のグラミー賞を制覇したと言えるビリー・アイリッシュに関する下りを思い出されるかもしれません。彼女の音楽パートナーとして、作編曲、レコーディング、プロデュースを手掛ける兄のフィニアス・オコネルとの音楽制作は、今回のグラミー賞受賞作品を始め、基本的には彼らの自室(寝室)を拠点としていました。つまり“宅録”という究極の低コスト・プライベート・プロダクションが彼らの基本であるわけです。

 自分のベッドルームでくつろぎながら、手頃な値段で手に入る機材を使って音楽制作を行い、しかもグラミーも制覇してしまったビリー・アイリッシュですが、そのパフォーマンスは相変わらず大勢の人の集まる音楽ヴェニューであり続けています。しかし今、その場所自体がシャットダウンされ、あらゆる場が剥奪されている状況において、音楽の発信場所、つまり現在の“音楽ヴェニュー”すらもが自宅・自室となっているわけです。

 これは非常時のやむおえぬ対応であるとは言え、音楽界における一つの“小革命”になり得ると思われます。

 もちろん、今のウイルス問題が収束すれば、音楽パフォーマンスの場は従来の音楽ヴェニュー中心へと戻っていくでしょうし、音楽産業としてはそうならねばなりません。しかし、インディーズ系を中心にほとんどの音楽活動がそのビジネス・モデルがほぼ独占的にライヴ/コンサート収入に基づいて構築されている状況と、特にメジャー系においてはしっかりとしたプラットフォームを構築することなく、安易でお手軽なチケット・リセール行為と販売サイトを公認したがために、あまりに不健全なチケット販売が主流となってしまっている状況、そしてそれらのシステムを基盤としている興行界に対して、今回の非常時対応による“小革命”がくさびを打ち込むような形になる可能性もあると期待しています。

 今回はあまりに厳しい状況故、その反動としてあまりにポジティヴというか楽観的な見方・話になってしまったかもしれません。実際に、Facebookなどを利用してライヴ・ストリーミングに取り組んでいるインディー系アーティストの収入はドネーション(寄付)頼みですので、ごく僅かです。ですが、そこには何の仲介もマージンも発生しませんし、これは極めて健全なソーシャル・メディアの利用法とも言えるかもしれません。

 また、人々は予期せず「時間」と「家族との時間」を得たわけですが、せっかく得た「時間」であっても何もすることが無いという人達は多いと言われます。必要最低限のショッピング以外は御法度で、バーやレストランでの飲食はできず、スポーツ自体も無くなり、映画も観に行けず、新しいテレビ番組すらも制作されないこの状況においては、自宅における娯楽(または癒やし)として、音楽がこれまで以上の比重を占める可能性が高まってきていることも事実です。

 毎度コントラヴァーシャルな発言で世を騒がせるマドンナは、今回のウイルスに関して「全ての人に分け隔て無く感染することで“平等”がもたらされている」という意見を述べて、またしても賛否両論を巻き起こしています。彼女は常に逆説的、または極端に誇張した物言いをする人ですから、その言葉を文面通りに捉えるのは危険ですが、

「私たちは皆同じ船に乗っている」という彼女の意見には賛同しますが、「(ウイルスが)全てを平等にする」という意見には、ウイルスに感染する確率に関しては確かに“平等”かもしれませんが、ウイルスそのものに対する認識・理解に関しては、平等どころかアジア人差別が起きているという点でも、彼女の意見には無理があると言えます。

 「ウイルスの恐ろしさが素晴らしさになる」というのも、これまた彼女ならではの極端な物言いですが、但しこれに関しては上記のライヴ・ストリーミングという取り組みが結果的に“素晴らしさ”をもたらしていると言うことは可能だと思います。

 今回起き始めている音楽表現や音楽制作(パフォーマンスでもレコーディングでも曲作りでも)の場の“解放”(つまり、ソーシャル・メディアの利点を生かしたコミュニケーションやライヴ・ストリーミング)は、音楽ヴェニューと自宅、スタジオと自宅、といった制作現場と自宅との距離感を縮めることに役立っているのは確かであると言えます。

 例えばストリーミングであれば、自閉症や何らかのハンディキャップや疾患を持った人でも、音楽ヴェニューに足を運ぶことなく、平等に音楽を楽しむことができます。具体的には、家に引きこもって孤立して出られない人に対して、音楽がよりストレートに語りかけることもできるわけです。

 また、曲を書くことや演奏すること、レコーディングすることなどが何らかの理由でうまくできない場合、ソーシャル・メディアを利用した共同作業という方法も可能です。

 つまり、ストリーミングまたはソーシャル・メディアそのものというのは、音楽表現や音楽制作においてインスピレーションを得るためのユニークなソース(源)を見つける良い機会/場となり得るわけで、これこそソーシャル・メディアのアーティスティックでクリエイティヴな活用方法と言えるのではないでしょうか。

 例えば、孤立した個人から別の孤立した個人へと繋がることもできるという点で、これまでとは異なる、また、これまで経験したことのない感情や状況を掘り起こす可能性もあると言えます。

 フリーランサーが労働力の大部分を占めている音楽ビジネスおいて、ウイルスという目の見えない敵に領土を侵された、この恐ろしいまでの不確実性に満ちた現状というのはあまりに過酷であると言えます。

 しかし、ビリー・アイリッシュではありませんが、今や音楽アーティストはいつでもどこからでも仕事ができるような状況となっています。そのための時間が与えられる結果を引き起こした今回のウイルスに対して感謝するなどという意見や考え方はもちろん不適切ですが、ウイルスによって引き起こされた生活の変化を可能な限り有効に使うということは可能なのではないでしょうか。

 苦境は人間を、そして音楽をも強くする。そう信じて私も微力ながら音楽の復活に力を注いでいきたいと思う今日この頃です。

「月刊紐育音楽通信 February 2020」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

できればニュースレターのイントロは明るくいきたいものです。しかし、今月も「悲劇」がそれを許してくれませんでした。スーパー・アスリート、コービー・ブライアント41歳のヘリコプター事故死です。
しかも13歳の娘も一緒の事故死はあまりに悲惨です。

彼の名前Kobeが「神戸」から来ていること、そしてコービー初来日の際に彼は阪神大震災からまだ3年少しの神戸に訪れて寄付を行っていることなどは、私よりも日本の皆さんの方がよくご存じでしょう。

個人的には、学生時代はバスケットボール選手で今はブルックリンの大学でアスレチック部門のディレクターを務めている私の息子にとってコービーはヒーローでしたので、コービーの試合がニューヨークである時は必ずと言って良いほど小さな息子を連れてゲームを観に行っていたことが忘れられません。

史上最強の攻撃力を持つと言われるあのレブロン・ジェイムズをして「コービーの攻撃力は欠点がゼロだ」と言わしめたコービーの“芸術的な”攻撃力(特に相手の動きを翻弄し封じてしまう彼の動き)。
コービーの師匠である名将フィル・ジャクソンをして「最も確率の低いシュートを決められる最高の選手」と言わしめたコービーのこれまた“芸術的な”シュート。本当に彼のプレイはスポーツとはあまり縁のない音楽人間の自分にとって「アート」でもありました。

かつては不倫・レイプ騒動や離婚騒動もあり、決して優等生であったわけではないコービーでしたが、両腕に妻と娘達の名前のタトゥーを入れ、特に4人の娘思いの良きパパであり、引退後はスポーツ界、特にバスケにおける女性の地位向上や進出をサポートするための事業を立ち上げていたことは、あまり知られていないかもしれません。

そんな矢先の事故死は、悔やんでも悔やみきれませんが、コービーの遺志は必ず誰かが継いでいくことでしょう。私自身まだ動揺が続いて文章もまとまりませんが、全てにおいて傑出していた偉大なアスリート、コービーの冥福を祈りたいと思います。合掌。

 

トピック:スキャンダルと悲劇と18歳。“大揺れ”の2020年グラミー賞

もはやグラミー賞が音楽界を代表するイベントなどではなく、音楽界を占うイベントでもないということは、これまでにもいろいろな角度からお話してきました。レコーディング・アカデミー(レコード協会とは別)なる、極めて政治的・権力主義的な組織によって運営され、アカデミー賞やエミー賞などに対抗する音楽界最高の賞と謳いながらも、同組織の会員のみによる秘密投票によって賞が決まるグラミー賞が、音楽の現場または音楽市場を正確に反映した賞とは言えないことは明らかです。ですが、音楽ビジネスにおける同賞の“権威”というのはやはり今も絶大であり、音楽市場とまではいかなくても“音楽世相”というものを反映したものであることは確かであると言えるでしょう。

そんな辛口の意見を述べてはいても、私自身、毎年賞の動きが気になってしまうことは否定できませんが、今年は賞の直前(10日前)にレコーディング・アカデミーの社長&CEOの解任という驚愕の事件が起き、今まで以上に注視せざるを得ませんでした。

この問題ですが、解任されたのは昨年8月に同職に就任したばかりのデボラ・デューガンで、同アカデミーの運営方法やグラミー賞の選考傾向のみならず、女性に対して差別的と取られる発言などによって批判の嵐にさらされていた前社長&CEOのニール・ポートナウの後を受け、レコーディング・アカデミー史上初の女性社長&CEOとして大抜擢されたばかりでした。それが、わずか5か月程での解任というのは穏やかではありません。

レコーディング・アカデミー側の主張によれば、デューガンが“不正行為”を行ったための解任とされていますが、これはデューガンのアシスタントからの申し立てによるものらしく、平たく言えば、デューガンによる彼女のアシスタントへの「パワハラ」であるとのことですが、その内容については「現在調査中」という、何とも歯切れの悪いコメントを発表しています。それでいてデューガンが「情報漏洩」と「誤情報」も企てたとして、その隠蔽のためにレコーディング・アカデミーに対して多額の請求を行ったということにも言及しているようです。

解雇された当のデューガンも黙ってはいません、彼女はまずレコーディング・アカデミー側のコメントに対する反論として、“被害者”であるという自分のアシスタントに対する「パワハラ」を完全に否定しており、そもそもこのアシスタントが彼女の前任者ポートナウの“子飼い”のベテラン管理職スタッフであったということ、そしてこのアシスタントがパワハラ告発後、休暇を取って居所もわからないままであるということも明かしました。

デューガンの反論でショッキングなのは、デューガン自身は組織改革のために動き始めた矢先に解雇された、と主張していることです。具体的にはレコーディング・アカデミーの人事部に対し、同アカデミー内の様々な問題や苦情を詳細なメモにして提出した約3週間後の解雇であったとのことですが、デューガン自身が語ったメモの告発内容はかなり強烈なものと言えます。

まずは、デューガンの前任者ポートナウのアーティストに対するセクハラ/レイプ疑惑、そして、同アカデミーの法務顧問からの彼女自身に対するセクハラ行為、更に驚くべきは(私自身はあまり驚きませんが…)グラミー賞の指名システム/プロセスの不透明性と不正行為(賞候補は1万2千人の同アカデミー会員によって投票され、更に同アカデミーの「秘密委員会」によって上位20が審査・選択される)、そうした不正行為によって過去にエド・シーランとアリアナ・グランデの賞ノミネートと受賞が仕立て上げられたこと、などを報告したというのです。

これだけの内容であれば、例えそれらが真実であったとしても、または逆に虚偽であったとしても、同アカデミーとしてはそのような報告をする人物を社長&CEOに留めておくことはできないと言えますし、当のデューガンとしても、この体当たり戦術は当然のことながら解雇覚悟のことであったと思われます。しかもデューガンは解雇の一週間後にはアメリカの人気テレビ番組に出演して上記のことを暴露し、弁護士チームを結成してレコーディング・アカデミーと真っ向から対決する姿勢を示しているので、その度胸については大したものであると言えます。

当然のことながらレコーディング・アカデミーの方は、デューガンの主張は事実無根と相手にもしていないようですが、そうは言っても相手は単なる一従業員ではなく、例え5か月間であっても社長&CEO職にあった人間です。それを晴れのグラミー賞授賞式の僅か10日前に解雇するというのは余程のことであり、尋常なことではありませんし、メディアや音楽業界のみならず、同アカデミー内つまり会員達の動揺は極めて大きく、同アカデミーとしては騒ぎの鎮静化に必死のようです。

暫定で社長&CEOに就任したのは、デューガンの社長&CEO就任の約2か月前に、同アカデミーの議長に就任していたハーヴィー・メイソンJr.。ジャズ・フュージョン関係に詳しい方ならすぐにおわかりのように、偉大なドラマー、ハーヴィー・メイソンの息子です。

まずレコーディング・アカデミーは自分達の会員向けに、暫定措置としてデューガンの代わりにこのメイソンJr.の社長&CEO起用を伝え、同アカデミーと会員との変わらぬ信頼関係を強調するレターを送りました。それに続いて今度は同アカデミーの女性役員が会員達に、同アカデミーの女性スタッフ達が男性スタッフ達と協力し、いかに同アカデミーの多様性を進歩させてきたかを説明するレターを送り、更に今度はメイソンJr.自身が会員達に向けて、グラミー賞選考システムの透明性、指名審査委員会の多様性、利益相反を防止するための規則、および委員の名前の機密性などを強調するレターを送りました。

更にメイソンJr.は同アカデミーの変革のための具体案と計画を会員達に伝えましたが、デューガンに言わせればそれらは全てデューガンが社長&CEO就任後に彼女の指示の下で合意されたものであるとのことで、デューガン自身のアイディアを自分のアイディアにすり替えているメイソンJr.の対応についても批判しています。

 

デューガンと彼女の弁護士チームは、メイソンJr.がディーガンのアイディアをコピーしただけという具体案のみならず、レコーディング・アカデミー会員から独立した専門委員会と委員長の設置、同アカデミーにおける個人間や理事会内の取引や公的非営利資金の使用に関する真に独立した調査、グラミー賞候補上位20を審査・選択する「秘密委員会」の廃止、そしてデューガンの社長&CEO復帰を求めてアクションを起こしていますが、デューガンの主張の基盤は、やはり白人メインの男性社会(ちなみに、暫定新社長&CEOのメイソンJr.はアフリカ系アメリカ人)による同アカデミーの差別意識の撤廃と腐敗の一掃にあり、そして賞選考の透明性を最重要課題として捉えており、先日のテレビ出演でもそのようなことを力説していました。

現時点でディーガン側とレコーディング・アカデミー側双方の主張や事の真相を裏付ける証拠はまだ充分ではなく、正しい判断ができる段階にはありませんし、この後裁判闘争となれば時間の掛かる話となる可能性も高いと言えます。

また、今回のスキャンダルが、映画界のハーヴィー・ワインスタイン・スキャンダルと共に最近の#Mee Tooムーブメントと連動してくかという可能性もまだ未知数であると思いますが、少なくともグラミー史上最大のスキャンダルであることだけは間違いないと言えるでしょう。

そうした“嵐”の中で行われた今年のグラミー賞でしたが、今回は更にイントロでもお伝えしたようにコービー・ブライアントの事故死をいう悲劇が重くのしかかりました。なにしろコービーが事故死したのはグラミー賞当日の朝でしたし、グラミー賞の会場であるロサンゼルスのステイプルズ・センターは、コービーが在籍したロサンゼルス・レイカーズの本拠地でもあるわけです。

今回のグラミー賞のパフォーマンスにおいて、アリシア・キーズがこのステイプルズ・センターを「コービーが建てた」という言い方をしていましたが、確かにこのステイプルズ・センターはコービーのレイカーズ入団(1996年)後、シャキール・オニールとのコンビによって新しい黄金時代を迎えたレイカーズの人気・躍進によって1999年にオープンしたアリーナです。

しかも、オープンしたその年のシーズンからシカゴ・ブルズで3連覇を二度成し遂げた名将フィル・ジャクソンを迎えて新たな3連覇(つまりブルズ~レイカーズだと通算6連覇!)を成し遂げたわけで、その意味でもチームの主戦力であった「コービーが建てた」というのは決して過言ではないと言えます。

そうした背景もあって、コービー事故死の当日におけるこのアリーナでの授賞式やパフォーマンスというのは、アーティスト達にとってはあまりにエモーショナルで重い試練でもあると言えました。

上記のいきさつや背景を全て抜きにすれば、今回のグラミー賞はビリー・アイリッシュという18歳の少女が最年少でグラミー5部門(年間最優秀アルバム賞、年間最優秀レコード賞、年間最優秀楽曲賞、最優秀新人賞、年間最優秀ポップ・ボーカル・アルバム賞)を制覇したことが歴史を塗り替える快挙と言えました。

特に主要4部門(アルバム、レコード、楽曲、新人)の制覇というのは81年のクリストファー・クロス以来ということで、それが女性で最年少ということは長いグラミー賞の歴史においても、また音楽業界にとっても大事件であると言えます。

しかし、前述のもう一つの大事件の後では彼女の受賞にも一部で疑問が生まれています。つまり、レコーディング・アカデミー、そしてグラミー賞の存続にも影響しかねない今回の大スキャンダルから世間の目をそらすために、レコーディング・アカデミーは誰もが驚く受賞劇を仕立て上げ、更に、結果的にコービーの悲劇も利用した、というわけです。

これは受賞したアイリッシュや彼女のファン達にはあまりに酷で心ない意見・見方であると言えますし、不慮の死を遂げたコービーに対しても無礼な話です。私自身もそこまでネガティヴに物事を捉えることには賛同できませんが、それでもレコーディング・アカデミーに関してはあまりにネガティヴで不透明なことを多く、しかもその極めつけが今回の女性新社長&CEOの解任劇という結果になっているため、全てに疑いが生じてしまうという厳しい状況にあるとも言えます。

確かにアイリッシュの音楽や歌に関してはかなりの賛否両論があり、好き嫌いもはっきりと分かれます。自分のプライヴェート部分をさらけ出し、悩みや不安、特異性やコンプレックスなども一つのコミュニケーション・ツールにして同世代からの圧倒的な共感を得ている彼女の歌には、逆に言えば世代による拒否感や分裂、普遍性の欠如といった部分も存在します。しかも、グラミーでこれだけの賞を独占受賞したことには、やっかみや疑問視する意見もあると思いますが、それでも2019年のアメリカ音楽界において、アイリッシュの音楽が起こした旋風は間違いなく一つの大きな“現象”でした。

何しろ、彼女のデビュー・アルバムはメジャーなレコード会社からではなく、SoundCloudというベルリンを拠点とする音楽ファイル共有サービスからの自費リリースでしたし、アイリッシュの音楽パートナーとして作編曲、レコーディング、プロデュースを手掛ける兄のフィニアス・オコネルとの音楽制作は、今回の受賞作を始め、基本的に彼らの自室(寝室)を拠点としています。つまり、近年レコーディング・プロダクション自体がすっかり変革してきている中で、この兄妹のプロダクションというのは“宅録”という、ある意味で究極の低コスト・プライベート・プロダクションを実現しているわけです。

そのオコナルは受賞の際に「最も創造的になれるのは最もリラックスできる場所(自室)」と語り、「“手作りクッキー”でグラミー賞がもらえたのはとても光栄」とも述べていたのは非常に印象的でした。

彼らの受賞は特にこれから音楽を目指す少年・少女たちに対して、強烈なアピール/インパクトとなっていると言えます。それは、お金もプロ仕様の楽器も機材もスタジオもいらず、自分のベッドルームでくつろぎながら、手頃な値段で手に入る機材を使って音楽制作を行い、しかもグラミー賞を受賞することだって可能、という意識改革を引き起こしたとも言えるわけです。

アイリッシュは受賞のスピーチでは「グラミー賞についてはいろいろとジョークを言ったけど、今は心から感謝したい」と語っていましたが、「批判」とは言わず「ジョーク」というのは彼女らしいかわいい言い方であると思います。ですが、正確にはアイリッシュはグラミー賞自体をジョークだとも言っており、彼女にとってはグラミー賞などどうでも良い存在であったと言えるわけで、そんな彼女がグラミー賞を制したというのは最高のジョークであるとも言えます。

相変わらずダボダボの服で授賞のステージに立ったアイリッシュですが、今回の授賞式でも、相変わらず熱唱と感涙の圧倒的なパフォーマンスが披露され、パフォーマーも出席者も、女性達は自分達の考える女性らしさをアピールする思い思いの衣装で登場していました。そんな中でダボダボ服に虚ろ気な眼差しとシニカルな笑顔をたたえて戸惑いを見せながらも常に淡々としているアイリッシュの存在は、ユニークというか超異色というか、とにかく際立っていたと言えます。

ショーアップされた豪華絢爛さの中でも自分を失わず偽らず貫き通す頼もしさ。

そんな意味で彼女の受賞は、ベッドルームからそのまま飛び出したような自然体のアンチテーゼによって、グラミーの改善・改革を気付かぬうちに既に実現してしまっているとも言えるのかもしれません。

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【月刊紐育音楽通信 January 2020】

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

                     


 いよいよ時代は「20年代」に突入しました。10年単位で時代を切る言い方は90年代(1990年代)までは一般的でしたが、21世紀という新しいミレミアムを迎えて「00年代」、「10年代」という言い方は今一つしっくりとこなかったようですし、一般的に浸透しませんでした。「20年代」と言うと、まだまだ1920年代を彷彿とさせるものがありますが、私のような古い時代の人間でも、20年代の記憶やリアリティというものは持ち合わせていませんし、今後は新しい“20年代”、“30年代”という言い方が普及していくと思われます。

 しかし、アメリカでは既に10年単位で時代を語る感覚は、特に若い人達の間では薄らいでいると言われます。それは時代の進み方が20世紀とは桁違いに速く、10年で時代をくくる捉え方自体にリアリティがないため、と様々なメディアや論者は語っています。
 私自身にとっては、特に「60年代」と「70年代」というのは強烈なインパクトと記憶、そしてリアリティが今でもあると言えますが、確かに「00年代」や「10年代」というくくりは言葉の響きだけでなく、実際にもほとんどリアリティは感じられませんでしたし、「20年代」という言い方も言葉の響きとしては少々親近感も感じられますが、激動の時代の只中にいると、10年単位というくくりには、もうリアリティが感じられなくなっています。

 それよりも、やはり「2020年」という言葉と響きには、アメリカにおいても日本においても、期待と不安が入り乱れた様々な思いが交錯し、多くの人々にそれなりのリアリティと、それなりの影響を与えているのではないでしょうか。
 日本は何と言ってもオリンピックの年ですし、昨年「令和」という新しい時代を迎えて何かしらの期待感や明るさも漂っているのではないかと思われますが、アメリカにおいてははっきり言って“真っ暗”と言っても良い状況であると感じます(笑)。何しろ、その結果の行方は別として「大統領弾劾」という大事件(快挙?)が起きたまま突入した2020年です(アメリカにおける「大統領」という存在の大きさは「首相」の比ではなく、それは“敬意を集める国のリーダー”であり、国の「最高指揮官・司令官」であり、ある種「国王」にも通じる絶対性をも有しています)。
 更に今年の大統領選挙はトランプ再選が濃厚と言われることによる期待感(トランプ支持者側)と絶望感(反トランプ側)の完全な二分化を引き起こしていますし(もっとも、4年前は“まさかの”トランプ当選となりましたので、今回は逆の“まさか”が起こる可能性もゼロではないと言えます)、失業率は近年最低で雇用率は上がり景気も良いなどとメディアは伝えますが、富裕層にはリアリティがあっても、ミドルクラス以下には全くといって良いほどリアリティの無い不透明・不確実な状況が続いていると言えます。
 また、その理解・解釈によって対立が続く環境問題は、現実的には自然災害が激増する更に深刻な状況を迎えてきていますし、最近は他のニュースに振り回されて取り上げられる機会が減っている移民問題は実は全く好転しないどころか益々憂慮すべき事態を迎えています。

 そして実はこれがアメリカ(のみならず全世界)にとって2020年最大のリスクとなる可能性が高いと言われる中国との問題は、香港と台湾との問題も絡めて益々ヒステリックな状況となっていますし、それ以外にも問題は山ほどあって、四方八方に“暗く巨大な壁”が横たわっていると言えます。
 そんな状況ですから、暗く不安なニュースに振り回されていては、それだけで一日が終わってしまいますし、何も前に進みません。社会意識の低い人達は、景気が良くなっている(と言われている)のだからエンジョイすれば良いではないかと様々な問題に対して益々無関心となっていますが、逆に社会意識の強い人達の中にも「無関心」・「無視」というスタンスは徐々に広がり始めているとも言われています。
 これは、ここまでどん詰まりの状況になると、参加することやプロテストすることでは何も解決しないので、「無関心」と「無視」を徹底させて、ある種のボイコット運動や意識改革に発展させようという解釈や試みとも言われていますが、果たしてその行方はいかに、といったところでしょうか。

 いずれにせよ、2020年は“和”の意識は益々薄れ、良い意味でも悪い意味でも“身勝手さ”が益々強くなっていくのは確かかもしれません。
 新年早々、先行きの不安ばかりですが、どちらにどう転ぼうとも、皆さんのご健康と ご活躍を祈り、Happy 2020!


トピック:“神聖不可侵”のクリスマス・ソング

 遅ればせながらの話題ではありますが、2019年、皆さんはどんなクリスマスを過ごされたでしょうか。チャーチ・ミュージシャンとしても活動する自分としては、この時期は大変忙しく、また心温まる季節でもあるのですが、普段の生活レベルで言えば、クリスマス・シーズンはいかに人混みを避けるか、というのが課題の一つでもあります。  
 この時期にニューヨークに来られたことのある人には言わずもがなですが、マンハッタンの中心部というのは本当にまともに移動することもできない、観光客と買い物客でごった返した“人混みの嵐”となります。そんな人混みを見学して楽しむ観光客の人達は良いですが、日々の仕事に追われ、時間に追われている人間にとってはたまったものではありません。まあこの時期に仕事をしなければならないというのが哀れというか悲しむべき状況とも言えますし、本当は長期休暇を取って暖かい場所で過ごすのが理想ではあるのですが…。

 といった愚痴はさておき、今年のアメリカ音楽業界では、クリスマスは久々にいろいろな話題がありました。まずは、既に“クリスマス・シンガー”または“ホリデー・シーズン・シンガー”とのレッテルを貼られつつあるマライア・キャリーです。マライアは2014年から、彼女としては小規模なホールと言える、マンハッタンはアッパー・ウェストにあるビーコン・シアターでのクリスマス・コンサートが相変わらずソールドアウトで、この時期は毎年話題となりますが、今年は彼女の代表曲の一つと言える「恋人達のクリスマス(原題は「All I Want for Christmas Is You」ですから「クリスマスに欲しいのはあなただけ」といったところでしょうか)が、なんと25年という長い歳月を経て、アメリカで最も権威あるチャートとされるビルボードのHot 100でナンバー・ワンになるという出来事がありました。ちなみに今回晴れてナンバー・ワンとなったのは、本人によるニュー・リミックス/ニュー・アレンジでもなく、1994年にリリースされたオリジナル曲そのものそのままです。

 チャートのナンバー・ワンに到達するまでに長い時間がかかった曲というのはこれまでにもたくさんありました。しかし、25年というのは何とも気の長いというか気の遠くなるような話であり、快挙と言えば快挙ですし、話題性としても充分と言えました。
 実はそれよりも、今回の同曲のナンバー・ワンによって、マライアの同チャートでのナンバー・ワン曲数は計19曲となり、未来永劫記録が塗り替えられることはないであろうと思われていたビートルズの20曲に、あと1曲と迫る結果となったことの方が間違いなく快挙であると言われています。

 ちなみに、マライアと共に計18曲のナンバー・ワン曲を誇っていたアーティストにはエルヴィス・プレスリーとダイアナ・ロスがいます。ですが、プレスリーの場合は18曲中半数以上がHot 100というチャートが始まった1957年以前の別チャートによるナンバー・ワンであるため、それらを加算して18曲とすることには異論もあります。
 一方、ダイアナ・ロスに関してはソロ活動前のスプリームス(発音的には「サプリームス」に近いですし、「シュープリームス」では英語として全く通じません)のナンバー・ワン曲も含めての18曲ですから(更にはライオネル・リッチーとの共作/デュエット曲もあり)、こちらもやはり異論のあるところです。

 これに対してマライアの場合は解釈的にも異論の無い19曲と言えますし、しかも一応まだバリバリの現役ですから、今後ナンバー・ワン曲を送り出して、ビートルズと並び、更にはビートルズを上回る可能性も残されています。
 ですが、音楽業界では“神聖不可侵”とも言えるビートルズですし、アメリカの音楽業界においても、既に少数とはなっていながらも、ビートルズ世代というのは長老・重鎮クラスにまだ残っています。よって、これはビートルズ・ファンのみならず、音楽業界内としても、あまり諸手を挙げて歓迎・祝福できる愉快で喜ばしい話とは言えないようです。

 そもそもマライアは、今回のチャート・ナンバー・ワン達成の前から、この自分自身の名曲の“広報宣伝”活動を活発に展開していました。テレビ・メディアへの出演、クリスマスやホリデイ・シーズン絡みの様々なイベントへの出演、そして極めつけは同曲の新ミュージック・ビデオの発表です。
 ご存じの方も多いでしょうが、同曲は1984年のリリースと共に2つのオフィシャル・ミュージック・ビデオが発表されました(その他にもリミックス・バージョンでのビデオや、ジャスティン・ビーバーとのデュエット時のビデオ等もありますが)。どちらもマライア自身のディレクションによる作品でしたが、特に最初のビデオは当時マライアが結婚していた元ソニー・ミュージック(元CBSレコード)のCEOとしてアメリカ音楽業界の帝王の一人(カサブランソニー・ミュージック・エンターテイメントを)と言われるトニー・モトーラもサンタクロース役で出演するホーム・ビデオ風の作りで、今のマライアにとってはあまり嬉しくない作品であると言われていました。

 ですから、同曲のリリース25周年として全く新しいミュージック・ビデオをリリースした意図は充分理解できますし、そのビデオ作品に続いて様々なメディアやイベントに出演して大々的なパブリシティを行ったのも当然と言えば当然です。ですが、その結果として25年後に同曲がナンバー・ワンに輝くというのは、あまりにもできすぎた話であり、できすぎたお膳立てである、というわけで、そうした中で今回の同チャート・ナンバー・ワンに対する不信・疑惑もささやかれました。

 今や大スター中の大スターであり、アメリカ音楽界における“女王様”として君臨し、誰も彼女に口を挟めるものはいないと言われ、音楽界における“トランプ級”の存在でもあるマライアですし、“豪腕”で知られるマライアと彼女のプロダクション・チームが巧みにメディア操作/チャート操作を行ったとしても何の不思議はありません。
 そもそもメディア操作というのは、今の音楽・芸能界のパブリシティにおける一つの手段ですし、ビジネス上のアドバンテージや金の動きといった部分を除けば、今やチャート自体の権威というものが完全に失墜している状況で、チャートの信頼性・信憑性をどうこう論議しても、それは大した意味もなく、やっかみにも聞こえがちです。
 実は同曲は昨年もクリスマス時期に同チャートで3位まで上昇したという経緯・伏線もありました。そのため、毎年この時期になるとチャートで上昇するこの名曲を、25年という節目を利用して一気にナンバー・ワンに上り詰めることを実現したマライア陣営の“戦略・手腕”は、実に見事であったと言うべきでしょう。

 クリスマス・ソングと言えば昨年と今年、もう一つ興味深い動きがありました。それは既存のクリスマス・ソングの名曲の放送禁止という措置です。
 具体的には昨年は「ベイビー、イッツ・コールド・アウトサイド」、そして今年は「イッツ・ビギニング・トゥ・ルック・ア・ロット・ライク・クリスマス」というクリスマス・シーズンには欠かせない代表的な名曲が立て続けに放送禁止となりました。
 ただし、放送禁止と言っても、現在はかつてのラジオ黄金時代とは違い、音楽が様々なメディアを通して流され、聴かれている世の中ですので、いわゆる全面放送禁止というわけではあいません。
 今の時代は放送に関しては、メディア・ブロードキャスティング・カンパニーという存在が、契約を結んでいる様々なメディアの企業・組織に対して音楽を供給するという形態が一般的になっていますが、今年の場合は、その大手メディア・ブロードキャスティング・カンパニーの一つであるMood Musicという会社が「イッツ・ビギニング・トゥ・ルック・ア・ロット・ライク・クリスマス」の放送禁止を発表しました。
 その結果、Mood Musicと契約しているストリーミング(パンドラ)、大型店舗(ターゲット)、ホテル(マリオット、ヒルトン、ハイアット)といった企業・組織に対しては同曲が供給されなくなり、それらを通しては同曲を耳にすることはできなくなったというわけです。

 このMood Musicは、2011年にケーブル・ラジオやインターネット・ラジオを通して商業ユースの音楽供給企業として歴史のあるMuzakを買収したことで知られています。  
1930年代のラジオ黄金時代において急成長したMuzakは、間もなくしてワーナー・ブラザーズに買収され、その後もオリジナル・コンテンツやテクノロジーの分野で発展し続けましたが、2009年に破産申請して2010年に倒産。その後、Mood Musicに買収されたという経緯を持ってます。
 ですが、商業ユースの音楽ビジネスにおいては長い歴史と豊富な経験・実績を持っており、それを受け継いだMood Musicは、上記のように大型企業に対する商業ユース音楽供給において巨大なシェアを誇っているので、その影響力は決して小さくはありません。

 今回、「イッツ・ビギニング・トゥ・ルック・ア・ロット・ライク・クリスマス」が放送禁止となった理由は、歌詞の中に「ピストル」という言葉が入っていたためでした。 
 トランプ政権下の政府や社会一般の動きとは全く逆に、リベラルなスタンスが際立ち、銃規制にも積極的である音楽業界サイドから、例えクリスマスの名曲であっても歌詞において銃を肯定的に扱う歌は放送を禁止するという、非常に明快な理念やロジックに基づいた対応であったとも言えました。
 しかし、ペリー・コモを始め、ビング・クロスビーやジョニー・マティスの名唱で知られ、毎年クリスマス・シーズンになると街中(店舗)やラジオからは必ずと言って良いほど流れてくる名曲が、一部の場所ではあっても消えてしまったというのは、何とも寂しい思いもあります。

 一方、昨年の「ベイビー、イッツ・コールド・アウトサイド」はもっと事情が複雑です。この曲の場合は、歌詞の内容が#Mee Tooムーブメントを中心とした女性の権利運動サイドからの批判を浴びて、アメリカの地方(オハイオ州クリーブランド)ラジオ局が放送禁止を発表し、続いてカナダのラジオ局も同調の動きに出ました。
 同曲は基本的に男女のデュエット曲で、クリスマス・ソングの中でもいわゆる“恋愛ソング”と言われる範疇に入るため、神聖なクリスマスに相応しい曲ではないと昔から批判や論争もあったいわく付きの曲でもあります。
 ですが、これまで実に膨大な数の有名アーティストのコンビによって歌われ続け、ざっと代表的なところを挙げると、ルイ・ジョーダンとエラ・フィッツジェラルド、ボブ・ホープとドリス・デイ、サミー・デイヴィスJrとカーメン・マクレエ、レイ・チャールズとベティ・カーター、ロッド・スチュアートとドリー・パートン、ボビー・コールドウェルとヴァネッサ・ウィリアムス、ジェイムス・テイラーとナタリー・コール、ウィリー・ネルソンとノーラ・ジョーンズ、シーロー・グリーンとクリスティーナ・アギュレラ、ダリアス・ラッカーとシェリル・クロウ等々、実に数多くの、そして意外な組み合わせのバージョンがリリースされてきました。

 ちなみに、この“意外な組み合わせ”の理由としては、歌詞の危なさから、歌う二人の危ない関係を連想させない少々ミスマッチな組み合わせが必要なため、という説もあるくらいですが、実際にこの歌の“危険度”は、ある意味で「イッツ・ビギニング・トゥ・ルック・ア・ロット・ライク・クリスマス」の比ではありません。
 そもそも歌う男女はオオカミとネズミに例えられ、簡単に言えば、デートの後に二人はオオカミの家に立ち寄り、遅くなったので帰らねばと思い迷うネズミを、オオカミがあの手この手で引き留めて口説こうとするという内容の歌であるわけです。
 「外は寒いし」と誘いをかけるオオカミの巧妙な歌詞(セリフ)も女性にとっては眉をひそめるものと言えるでしょうが、ネズミの言い訳も本心がどこにあるのかわからない曖昧な部分もあり、特に#Mee Tooムーヴメント側からは、「男性の家にいるという絶対的に不利な状況下で女性の揺れる心を描くというのは女性の地位をおとしめるもの」、「同意の下でのレイプという言い訳を容認しかねない」など、その批判はかなりエスカレートしました。しかも歌の最後の方では、ネズミが「私の飲み物に何か入れた?」とオオカミに尋ねる部分があり、これはレイプの常套手段であると糾弾されました。

 確かに1940年代半ばに書かれたこの歌詞の内容が、今の時代には全くそぐわないものであることは間違いないと言えます。今や#Mee Tooムーヴメントが多くの男性達を恐怖に陥れている(?)アメリカも、いわゆる女性の権利運動やウーマンリブ運動が盛んになるまでは、女性の地位は極めて低く、音楽の世界、中でも歌詞において女性を単に性的な対象・存在と見なす、男性側からの身勝手で差別的な視点が主流であり容認されてきました。
 それは現代においても根強く残って様々な問題や事件、悲劇を生み出し続けているというのが#Mee Tooムーブメントの主張の根底にあるわけですし、今後このようなケースは音楽、映画、演劇、文学など様々なアート&エンターテイメントの分野で噴出してくることは必死であると言えます。

 ちなみに、この曲に関しては今年のクリスマス・シーズンにジョン・レジェンドがケリー・クラークソンを相手役に迎えて、危ない部分の歌詞を変更する新バージョンを発表して話題になりました。
 つまりこれは、単に送信するメディア・サイドによる規制ではなく、アーティスト・サイド(しかも男女両サイドから)が自主的に規制・調整を行ったケースとして特筆すべき点があると言えます。
 しかしそうした試みも、前述の銃規制の観点から放送禁止とした措置も、トランプ・サポーターを始めとする保守勢力からは、“愚かなリベラル達によるアメリカ文化の破壊行為”と目の敵にされて、ここでも激しい対立の構図を生み出してしまっています。
 何をやっても国が二分されていがみ合うという今のアメリカの図式は、まだまだ当分続いていきそうです。

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 December 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある   



 アメリカはホリデイ・シーズンを迎え、各地でコンサートや音楽イベントが盛大に繰り広げられていますが、この時期ニューヨークを代表する音楽系のショー/イベントとしては、やはりラジオ・シティ・ミュージック・ホールの「クリスマス・スペクタキュラー」(特に女性ダンサー「ロケッツ」によるラインダンス)とロックフェラー・センターの巨大クリスマス・ツリーの点灯式というのが観光客向けの2大イベントと言えるでしょう。

 ですが正直言いますと、私の周りのニューヨーカー達(アメリカ人)で、これらのイベントを観に行ったという人はほとんど皆無です(笑)。強いて言えば、子供の頃に連れて行ってもらった記憶がある、という程度で、特に音楽業界の人間で上記のショー/イベントに出向くというのは仕事目的のみと言っても過言ではありません。

 特にロックフェラー・センターのクリスマス・ツリー点灯式は零下の夜の野外イベントですから、集まるのはやはり観光客ばかりということになってきます。また、このイベントは出演者側にとっても厳しいパフォーマンス環境となるのは当然で、今年出演のジョン・レジェンドを始め、生のスタジオ・ライヴを巨大スクリーンに映し出すという方法を取るパターンが増えてきているようです。

 実は笑い話としてアーティスト/ミュージシャン内では話されることもあるのですが、アーティスト/ミュージシャンにとってアメリカにおける2大“拷問”音楽イベントと言えるのは、このロックフェラー・センターのクリスマス・ツリー点灯式でのパフォーマンスと、4年に一回、1月にワシントンDCのUSキャピトル(連邦議会議事堂)の前(野外)で行われる大統領就任式典におけるパフォーマンスであるという話があります。これは本当にその通りであると思いますし、極寒の中でのパフォーマンスというのは、パフォーマーにとっても、楽器(声も含め)にとっても実に過酷なものと言わざるを得ません。

 2009年、オバマ前大統領の1期目就任式典に出演したヨーヨー・マやイツァーク・パールマン達や、2013年の2期目の就任式典に出演したビヨンセが、リップシンクによるパフォーマンスを披露して、随分とメディアに叩かれましたが、パフォーマンスを行う側から言えば、彼等が取った方法はベストとは言えなくても、責めることはできません(その一方で、1期目就任式典において“生”で熱唱したアレサ・フランクリンには頭が下がる思いです)。

 そんなわけで聴き手の側でも、これらのイベントにおけるパフォーマンスは余程の理由(パフォーマーの支持者・大ファンなど)が無い限り、地元の人間にとってはテレビ観戦するのが一番と言われるのも頷けますが、そうは言ってもパフォーマンスはやはり“生”に接するのが一番であることは間違いありません。私自身、今年のホリデイ・シーズンも可能な限り足を運んで、“生”のパフォーマンスを楽しむようにしていますが、先日のサンクスギヴィング(感謝祭)の連休では、ヘヴィ・メタルのクラブでクラウド・サーフィンやモッシングも楽しんできました。ですが、大汗をかいてクラブを出た時の寒さはさすがに身に堪えました。冬のライヴはパフォーマンスだけでなく、パフォーマンスの後も考えなければいけないと、いい歳をして思い知らされた次第でした。

 

トピック:チケット販売の大変革(取り締まり)は実現するか

 アメリカにおける興行ビジネス、特にチケット販売ビジネスの問題については、これまで何度かご紹介してきました。これまで不法・違法とされてきたチケット転売というものが、ある一定の範囲内ではあっても適法・正当なものとなり、金さえ出せば買えないチケットはない、逆に言えば、転売業者による独占で正規チケットが中々手に入らない、という事態を招いていることは、今や誰もが認める状況であると言えます。

 そうした中で先日、アメリカの下院議会の一組織であるエネルギー・商業委員会が、Live Nation、AEG、StubHub、Vivid Seats、TicketNetwork、Tickets.comといったアメリカのコンサート・ライブ/イベント発券業界に対して新たな調査開始を通告しました。その理由は、同委員会が“現状における一次及び二次チケット市場で発生する可能性のある不公正な行為について懸念している”というもので、同委員会はそうしたチケット市場を牛耳っているとも言える上記の企業に対して、懸念事項に関する文書や情報・資料の提出、そして説明会などを要求することになったというわけです。

 今回の動きの目的はもちろん、イベント・チケット販売市場において消費者を保護するためのものですが、その伏線として、コンピュータ・ソフトウェアを使用してチケットを購入することを禁止した「オンライン・チケット販売改善法」というものがあります。これは原語(英語)では「Better On-line Ticket Sales Act of 2016」というもので、通称「ボッツ・アクト(BOTS Act)」と呼ばれており、約3年前の2016年12月に当時のオバマ大統領によって調印されて発動されました。これは、簡単に言うと「チケット・ボット(BOT)」と呼ばれるテクノロジーを使って、個人や組織がチケットをまとめて購入・転売することを阻止・禁止するための法案で、正規チケット発券・販売サイトのためのセキュリティ対策とも言えました。

 具体的に言いますと、チケット・ボットとは、Ticketmasterなどのチケット・ベンダーが販売する正規チケットを自動検索・購入できるソフトウェア・プログラムです。チケット・ブローカーと呼ばれる転売(業)者&組織は、このチケット・ボットを利用すると、自動的に且つ瞬時にチケット検索と購入が可能になり、同時に数百や数千もの取引(購入)が実行できるわけです。つまり、人間が手動で行う何百・何千倍も早く、超高速で瞬時に膨大な数のチケットを一括検索・購入でき、しかも通常はパスワードなどのセキュリティ機能があるものをもスルーできてしまうという、中々優れものでありながらも恐ろしいソフトなわけです。

 但し、問題はこのチケット・ボットを使って転売を行う個人や組織のみというわけでなく、そこにはチケット・ボットを利用した転売行為が生まれてきた背景というものもあります。

 上記の「ボッツ・アクト」と呼ばれる法案が通過する少し前のことでしたが、ニューヨークの司法長官がチケット販売の現状を調査した際に、市場で販売されるチケットの内、一般の人が購入可能となっているのは全体の46%のチケットのみで、残る54%が内部の者や会員、また特別のクレジット・カードなどをもった優遇者達の手に渡っているという驚くべき結果が発表されました。要するに、一般人が購入できるチケットというのは、全体のチケット販売数の半数にも満たないというわけで、この一般への供給量の半減(以上)という状況が、転売・再販チケットの高額化という結果をもたらしたとも言えるわけです。

 そのため、正規料金の1.5倍などというのは良い方で、2倍、3倍から10倍も高くなる状況が出てきてしまったわけですが、そうした事態の中で、転売・再販業者が、圧倒的な供給量の低さに対する需要の高さにフォーカスし、チケット・ボットというソフトを使って、できるだけ多くのチケットを即座に購入するという事態が生まれたと言われています。

 購買者から見れば、チケット・ボットを使った転売・再販チケットは、それまでのいわゆる“ダフ屋”による超高額な転売・再販チケットよりは圧倒的に安いわけですから歓迎すべきものとも言えるのですが、やはりこれは不正・不法行為であることには変わりなく、正規のチケット販売業者にとっては大きな打撃となったとされています。

 一例を挙げますと、現在もブロードウェイで一番人気の「ハミルトン」というミュージカルがあります。これは、アメリカ建国の父の一人であるアレクサンダー・ハミルトンの生涯をヒップホップの音楽で綴ったミュージカル作品で、ハミルトンを含めた歴史上の白人達を有色人種が演じるという、異色・斬新とも言える解釈と演出を施した、ブロードウェイのミュージカル史上に輝く最高傑作の一つとも言われています。興業成績もダントツに素晴らしく、批評家達の評価も絶大で、2016年にはトニー賞史上最多のノミネート記録を達成して、結局11部門も受賞した他、グラミー賞でもミュージカル・シアター・アルバム賞を受賞しました。

 そんな評価・評判もあって、このミュージカルはとにかくチケットが取れないことで有名で、しばらくの間、通常$200前後のチケットが$1000も$2000もするという、異常な事態となっていました。

 そうした中で、プレステージ社というイベント・コーディネーション会社が、アメリカ最大のチケット業者と言えるTicketmasterが販売するハミルトンのチケットの約40%をチケット・ボットを使用して買い占めて転売・再販したということで、Ticketmasterがプレステージ社に対して訴訟を起こしました。

 つまりこれは、「ボッツ・アクト」で定められたオンライン・チケット販売法に違反した行為とみなされ、そうした違反行為を受けた者は訴訟を行う権利が「ボッツ・アクト」によって国(合州国連邦)レベルで認められ、例えば違法行為を受けたチケット業者が複数となる場合は、州がチケット業者に変わって集団訴訟を起こす権利も与えられるようになったわけです。

 

 少々話がややこしくなってきましたが、要は現在、チケット・ボットというソフトウェア/テクノロジーを利用した転売・再販チケットというものが大きな問題となって、チケット・ブローカー(転売(業)者&組織)達がやり玉に挙がっているわけですが、その元凶は、正規チケット業者による富裕層や手堅い高収入を狙った特待・優遇措置が現在の問題を引き起こしているとも言えるわけです。

 よって、チケット転売・再販側だけを取り締まればそれで良いのか、という問題が大きく横たわっています。法によって守られてチケットの料と量をコントロールできる正規チケット業者と、違法ではあるが明らかに安価なチケットを購入可能にしている転売・再販チケット業者。どちらを取るかと言われれば、チケット購入者側の心情としては安い方になると思いますが、業界の統制やマーケットの維持、そして利潤の集中(または拡散の防止)を目指す側からすれば、チケット転売・再販というビジネスは、足元をすくわれる危険な存在と言えるわけです。

 実は「ボッツ・アクト」の推進・施行についてはGoogleも深く関わっていると言われています。また先日、オークション・サイトのeBayが、同社のチケット販売部門であるオンライン再販チケット・サイトStubHubを同業ライバル会社とも言えるViagogoに売却するというニュースも、エネルギー・商業委員会による調査開始通告の直後というタイミングでもあったため、中々興味深い(疑惑を呼ぶ?)動きであると言えます。

 昔から国を問わず、アルコール販売と興行というのはマフィアの領域とされてきましたし、今もその構図は表には見えないレベルで残っていると言えます(ニューヨークでは更にタクシー業界というのがマフィアの領域でした。これについては何故ニューヨークではUber(ウーバー)が他州よりも高額なのかという理由・背景の一つにもなっています)。

 現在の再販・転売チケット・システムが出来上がる以前は、私自身もよくイタリアン・マフィアが運営するブローカーからチケットを購入したりしていました。しかし、80年代以降チャイニーズ・マフィアの勢力に押され、更に現在トランプの顧問弁護士として逮捕・監獄行きも噂されるジュリアーニ元ニューヨーク市長が市長時代の90年代末にマフィアを事実上表舞台から一掃したことで、イタリアン・マフィアはビジネス的にも地理的にも益々ニューヨークの外に追いやられていったと言われます。

 しかし、マフィアというのはそもそも裏舞台から表舞台を操作する組織・集団ですから、彼らは場所や形態を変えて生き残り続けていますし、興行収益の大部分を担うチケット販売に関しても、様々な形態を取って関わり続けていると言えます。

 今回は、チケットの正規販売と転売・再販に関する少々複雑な話となりましたが、国の対応がどうあれ、企業の戦略がどうあれ、またマフィアの存在がどうあれ、購買者としては少しでも求めやすい料金で入手しやすいチケット購入が実現することが最重要ですので、それを願いながら、今回の行政レベルの介入と業者の対応を注視してみたいと思っています。

 この法案は、セキュリティ対策、アクセス制御システム、またはチケット発行者がイベントチケットの購入制限を実施するため、またはオンラインの整合性を維持するために使用するチケット販売者の別の制御手段を回避しようとしている当事者を罰するために設計されましたチケット購入注文ルール。誰かが上記の意図に違反してチケットを販売したことが判明した場合、その人は訴追することができます。

 この法律は、連邦取引委員会がBOTS行為の違反が発生したと信じる理由がある場合に行動する権限を与えます。州はまた、複数のチケット所有者に代わって集団訴訟を起こす権利を有します。

 

 BOTS法は米国の法律に署名された立法行為でしたが、オンラインチケット再販市場がチケットの調達を報告する方法にさまざまな変更を加えました。

 主な変更点は次のとおりです。

 Googleは、有料広告プラットフォームを使用するセカンダリチケット再販業者に、プライマリチケット販売者ではないことを開示することを要求しています。 StubHub、Viagogo、Seatwaveなどは、2018年2月現在、これに準拠していました。

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 November 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

 

 

 

最近私は非常に悩んでいます。Amazonのサービスを利用し続けるべきか、やめるべきか…。いやこれはくだらない話のようで実はくだらない話ではないのです。つまりこれは、最近アメリカで大きな問題として取り上げられているプラスチック製品や容器の使用のように、単に使用をやめたり分別ごみを徹底させるというような話ではなく、自分の音楽ライフのみならず、ライフそのものに関わってくる問題もであるからです。

 私自身は現在、Amazonプライムの会員であることでAmazon Musicの特典(プライムに指定されているAmazon Music音源の無料ダウンロード/ストリーミング)やプライム商品の送料無料というサービスの“恩恵”を受けています。また、音楽関連のみならず、いわゆる生活必需品の類に至るまで、Amazonのオンライン・ショッピングというのは本当に便利なサービスであることは間違いありませんが、実はAmazonの触手はオンライン上の販売やサービスという世界とは別の分野にまで伸び、様々な面から人々の生活に大きな影響を及ぼしています。

 先月のニュース・レーターでも少し触れましたが、Amazonというのは今や流通業界を制しているだけでなく、データ・ビジネスの世界をも制しているわけですが、更に国や行政、軍ともつながることで、政治や一般社会のレベルにまでその影響力を広げてきているのは、まだ気づいていない人も多い重要な事実であると言えます。

 現時点において、この問題のコアな部分というのは、AmazonがICE(移民税関捜査局)に対して自社の顔認識テクノロジー(ソフトウェア)を提供しているという点です。つまり、現在のアメリカを二分する要因の一つにもなっている不法移民の摘発と強制退去に関してAmazonは“多大な貢献”を果たしているというわけで、サンフランシスコ市議会では市当局による顔認証監視技術の利用を禁止する条例案が可決しましたし、先日は400人近いミュージシャン達による抗議行動も行われました。

 Amazonはそれ以前から、プライバシーの問題に関する疑惑がありました。それはスマート・スピーカーとも呼ばれるAmazonのAI搭載スピーカーEcho(エコー)のユーザー達に起きたトラブルという形で話題沸騰したわけですが、このAI部分であるAlexa(アレクサ)が、プライバシーの侵害というよりも、結果的に個人情報の監視と盗用に一役買うという恐ろしい事態を招いたわけです。当のAmazonは中国内からのハッキング行為を理由にこの事件について弁明しましたが、何でも気軽に話せる“お相手”と思っていたAlexaの“ご乱心”(Hal 9000を思わせる異常な誤動作)に多くのユーザーは青ざめ、実はAmazon自体がAlexaを通して個人情報を監視・盗用しているのではないか、という疑惑も出てきたわけです。

 もう一つは、ニューヨークのロング・アイランド・シティに建設予定であったAmazonの第二本社に関する騒動です。ここは実は私が住んでいるエリアなのですが、もしもAmazonの第二本社ができると、地価が急上昇して多くの地元民が追い出される結果となりますし、Amazon移転による公共交通機関の大混雑と整備の必要性(つまり莫大な金がかかる)、そしてニューヨーク市や州による地元市民のための再開発費予算がAmazonへの助成金や税優遇措置によって大幅に削られる結果にもなります。そのため、この移転計画は地元の猛反発を食らって結果的には撤退となりましたが、Amazonは地元行政を抱き込んで引き続き移転の実現を画策していると言われています。

「今、中国よりも危険なのはAmazon」こんな意見も巷ではあちらこちらで聞かれます。

さて、皆さんはAmazonとどう付き合われますか?

 

 

トピック:ドリー・パートンはアメリカを癒せるか?

 

 アメリカは11月の第一月曜日の翌日火曜日が「エレクション・デー」、つまり選挙日です。よって、10月は選挙と政界絡みの話題が一層賑やかになりましたが、先日は故プリンスの地元ミネアポリスにおけるトランプの再選キャンペーン中に「パープル・レイン」が使用されたことにプリンスの財団が強く抗議したというニュースがありました。

 プリンスは2006年大統領選の6か月少しほど前に亡くなりましたが、選挙戦から大統領就任後もプリンスの財団はトランプに対してプリンスの一切の楽曲の使用不許可を通告し、昨年はプリンスの弁護団がトランプに対して公式・法的な手紙も出していました。ですが、法規などまるで気にしない(つまり無法者)トランプですから、性懲りもなくプリンスの曲を使っていたようです。

 

 2016年の大統領選時の本ニュー・レターでもお伝えしましたが、トランプはアメリカ史上で最も有名ミュージシャン達に嫌われている大統領と言え、逆に彼を支持する有名ミュージシャンというのは数える程しかいません。

 どこを向いてもアンチ・トランプだらけの有名ミュージシャン達の中でも特に目立っているのは、ニール・ヤング、リアナ、ジョン・レジェンド(とパートナーのクリッシー・テイガン)、エルトン・ジョン、ファレル・ウィリアムス、テイラー・スウィフト、セリーナ・ゴメス、スヌープ・ドッグ、エミネム、ブルース・スプリングスティーンなどといったところではないでしょうか。

 中でもジョン・レジェンドとクリッシー・テイガンに関してはトランプ自身も目の敵にしており、ことあるごとにツイッターで非難を浴びせていますが、不思議なことにトランプが毛嫌いしているジェイZとビヨンセは、トランプを非難しつつもあまり相手にはしていないようで、まだこれといった“直接対決”は実現していません。

 

 トランプにとっては”A級戦犯”とも言える上記有名ミュージシャン達に続いて、“B級戦犯”的存在とも言えるのがポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソン財団、ローリング・ストーンズ、ポール・ロジャース(フリー)、クイーン、(特にブライアン・メイ)、エアロスミス(特にスティーヴン・タイラー)、ガンズ&ローゼズ(特にアクセル)、R.E.M.(特にマイケル・スタイプ)、アデル、シャナイア・トゥウェイン、ルチアーノ・パヴァロッティなどと言ったところで、彼等は楽曲不使用を中心にトランプに対するノーを公表し続けています。

 

 そうした中で先日、「ドリー・パートンはアメリカを癒せるか」という面白い記事を見つけました。カントリー音楽のみならず、アメリカ音楽界を代表するアイコン的な元祖ディーヴァ&女王の一人であり、アメリカの国民的大スターとして、日本で言えば美空ひばり級の人気・地位・評価を誇るドリーですが、彼女こそが、南北戦争以来と言われるほどに分断され、反目・憎悪と攻撃的な姿勢・論争に満ち溢れた今のアメリカを、その音楽と人間性または存在感によって癒すことができるのではないかという内容でした。

 

 そもそもこの記事の発端となったのは、ニューヨークのローカルFM局であるWNYCのポッドキャスト(インターネット・ラジオ)・プログラムとして去る10月15日から12月8日まで週一でスタートしたトーク番組で、10月末の時点で既に3つのエピソードが配信されています。プロデューサー兼ホストのジャド・アブムラドはレバノン移民のアメリカ人ですが、ドリー・パートンと同じくテネシー州の出身で、アメリカの社会・世相を反映した切り口の鋭いラジオ番組をプロデュース(そしてホスト)することで知られています。

 今回のドリー・パートンの番組でも、彼自身によるドリーへのインタビューを軸に、ゲストも交えながら自らコメント・分析し、話の前後で、過去のドリーのインタビューやレコード、コンサート、テレビ番組などの音源も実に手際よくカットアップしてつなぎ合わせ、1時間近いプログラムを全く飽きさせずに仕上げています。

 

 番組の作りも実に印象的で興味深いと言えますし、ドリー・パートンの功績よりも、その実像をアメリカの社会や動きと対比させながらくっきりと浮かび上がらせる手法は見事と言えますが、やはり最も印象的なのは、ドリー・パートンという稀有なミュージシャンその人であると言えます。

 ドリーはジョークのセンスにも非常に長けた人で、相手のジョークや突っ込みを一層のジョークで笑い飛ばすことでも知られています。とにかく明るく陽気で優しいお姉さん(かなり過去)⇒おばさん(少し過去)⇒お婆さん(現在)というイメージで、これまでも特定の個人やグループを傷つけることも怒らせることもなく(狂った性差別主義者から脅迫されたことなどはありましたが)、50年以上その強烈なキャラを維持し、愛されてきたことは驚くべきことです。

 

 また、彼女はファン層の広さにおいてもダントツで、そのグラマラスな容姿やキャラからLGBTQコミュニティでも非常に高い支持を集めている一方で、ゴリゴリの保守派・原理派クリスチャンのおばさん達にも愛され、フェミニストのキツいお姉さんたちからも一目置かれている一方で、トラック野郎や炭鉱労働者などのマッチョな男達からも愛されるという点は、マリリン・モンローとレディ・ガガが合体?したような振れの大きさとでも言うのか、他に類を見ないユニークな存在と言えます。

 しかも、ドリーの面白さは、そうした幅広い層の全てに対して愛情を持ちつつも、特定のグループとは同調・共闘はしない(逆の言い方をするならば、相手を攻撃しない)という、全てに関してある一定の距離を置いているとも言える点で、そこには本来アメリカの美徳でもあった個人(尊重)主義が貫かれているという見方もできます。

 

 シンガー/パフォーマーとしてのインパクトが強い彼女ですが、実は彼女自身はシンガーである前に作曲家として活躍・成功したシンガー・ソングライターです。

 これは私自身、今回のラジオ番組で再認識したことですが、彼女の初期の曲というのは、彼女自身が「Sad Ass Songs」(「悲しい歌」に「Ass=ケツ(尻)」という言葉を挟むことで汚っぽく強調しているスラング。彼女はちょっと汚いスラングをよく使うのですが、それも逆に親しまれている点でもあります)と呼んでいるように、ひどい話の悲しい歌というのが数多くあります。

 それは、女性ならではの心の痛み、古い女性観から来る女性の行動(主に性行動)に対する偏見・非難、女性(妻)に対する家庭内暴力、男(夫)に騙されること・男(夫)を騙すことによる苦痛、を告白・代弁するといったかなり生々しい内容です。そうした中の頂点の一つとして、未婚の若い女性が妊娠したことで相手の彼氏や自分の家族にも見放され、最後は孤独な状況の中で陣痛が起きて死産を迎えるという、あまりにも悲惨な曲もあります(これはラジオ番組中、ドリー自身が最もお気に入りの曲と語っていました)。

 この曲はその後、ナンシー・シナトラやマリアンヌ・フェイスフルなどにも歌われましたが、発表された1970年当時はラジオで放送禁止にもなりました。しかし、こんな悲惨で物議を醸す歌を歌っても、そのイメージが崩れることなく、明るいキャラを維持しているというのは本当に驚きでもありますし、それは恐らく彼女の深い人間性に根差しているようにも思えます。

 

 今回の記事、そして上記の話を含めたドリーのラジオ番組を聴いていて感じたのは、彼女のシンパシーや社会意識というのは、最近話題となっているような様々な問題よりももっと世の中の根底・底辺にあるという点です。

 アメリカでは多くの人達が知る有名な話ですが、ドリーはテネシーの片田舎で12人兄弟の4番目として生まれ育ち、幼少の頃は一部屋しかない“掘っ立て小屋”で暮らす極貧生活であったそうです(その家の写真が昔、彼女のアルバムのカバーに使われたこともありました)。

 厳しい冬を前にお母さんが端切れを縫い合わせてコートを作ってくれて、学校ではみんなに馬鹿にされても、彼女自身はそのコートを誇りに思う、という涙ものの話も有名ですが(これは彼女の代表曲の一つにもなっています)、そうした極貧時代の辛かった経験が、逆に彼女の優しさと芯の強さの基盤となっているようです。

 ドリーの慈善活動に関しては彼女自身が設立したドリーウッド基金による取り組みがよく知られていますが、彼女自身の経験がバックグラウンドとなっていることもあり、その対象は識字率の向上であったり、景気の落ち込んだ地域の雇用促進であったり、常に忘れられ、切り捨てられそうになっている社会の底辺に生きる人々に向けられています。

 彼女は保守か革新かと問われれば、間違いなく保守に属する人であると言えます。ですが、彼女の保守というのは世に言うところの政治的スタンスとしての保守ではなく、アメリカの良心、というよりも人間としての良心を保ち守る、という意味での保守と言えます。

 自分がかつて徹底的に弱者であったことから弱者を絶対に見捨てないという強い信念と行動(音楽においても、慈善活動においても)が彼女の“保守”であり、この極端なまでのピラミッド社会(つまり底辺の数が圧倒的に多い)であるアメリカにおいて、彼女の活動は保守も革新も、右も左も、誰もが支持する結果となっていることも特筆すべきことでしょう。

 

 ドリーはカントリー音楽界を代表する白人のアーティストですが、パティ・ラベルや故マイケル・ジャクソンを始めとする数多くの黒人アーティスト達との交友でもよく知られ、故ホイットニー・ヒューストンがドリーの曲をお気に入りのレパートリーにしていたこともよく知られています(映画「ボディ・ガード」で歌われた「I Will Always Love You」)。

 ドリーは私生活においては二十歳の時に結婚(相手は道路舗装業を営んでいた一般人)して以来、今もおしどり夫婦であり続けています。子供はありませんが、マイリー・サイラスの名付け親であるなど、多くの人達から母親的な存在ともされてきましたが、容姿ではなく中からにじみ出る彼女の母性というのは、若いころ幼い妹や弟たちの母親代わりを務めてきたことから来ているとも言われます。

 

 私自身も70年代からドリーのファンでしたが、この人の圧倒的なカリスマ的存在感と、それでいて温かで優しい包容力溢れる隣のお姉さん(当時)的な親しみやすさというのは、膨大な数のスター達の中でも全くもって唯一無二のものであり、極めてユニークであるとも言えます。

 また、彼女はアメリカのスター達の中では珍しく完全なノンポリであり、政治的な発言は決してしない人でもあるので、その意味でも益々左右両極化が進み、中道でさえも引き裂かれつつある今の荒れ果てたアメリカを、音楽によって癒すことのできる”切り札”となるかもしれない、という今回のラジオ番組や記事における意見は中々面白いと感じました。

 もしかするとドリー・パートンが2020年の大統領に?いや、そんなことはあり得ないと思いますが(笑)、トランプが大統領ということ自体があり得ないことでもあるので、今のアメリカであり得ないことは何もない、と言えるのかもしれません。

 なにしろ映画俳優が大統領(ロナルド・レーガン)になる国ですから、そろそろミュージシャンが大統領になってもおかしくはないかもしれませんね(ジェイZやカニエ・ウェストはその座を狙っているとも言われていますが…)。

 

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 November 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

             

 

 最近私は非常に悩んでいます。Amazonのサービスを利用し続けるべきか、やめるべきか…。いやこれはくだらない話のようで実はくだらない話ではないのです。つまりこれは、最近アメリカで大きな問題として取り上げられているプラスチック製品や容器の使用のように、単に使用をやめたり分別ごみを徹底させるというような話ではなく、自分の音楽ライフのみならず、ライフそのものに関わってくる問題もであるからです。

 私自身は現在、Amazonプライムの会員であることでAmazon Musicの特典(プライムに指定されているAmazon Music音源の無料ダウンロード/ストリーミング)やプライム商品の送料無料というサービスの“恩恵”を受けています。また、音楽関連のみならず、いわゆる生活必需品の類に至るまで、Amazonのオンライン・ショッピングというのは本当に便利なサービスであることは間違いありませんが、実はAmazonの触手はオンライン上の販売やサービスという世界とは別の分野にまで伸び、様々な面から人々の生活に大きな影響を及ぼしています。

 先月のニュース・レーターでも少し触れましたが、Amazonというのは今や流通業界を制しているだけでなく、データ・ビジネスの世界をも制しているわけですが、更に国や行政、軍ともつながることで、政治や一般社会のレベルにまでその影響力を広げてきているのは、まだ気づいていない人も多い重要な事実であると言えます。

 現時点において、この問題のコアな部分というのは、AmazonがICE(移民税関捜査局)に対して自社の顔認識テクノロジー(ソフトウェア)を提供しているという点です。つまり、現在のアメリカを二分する要因の一つにもなっている不法移民の摘発と強制退去に関してAmazonは“多大な貢献”を果たしているというわけで、サンフランシスコ市議会では市当局による顔認証監視技術の利用を禁止する条例案が可決しましたし、先日は400人近いミュージシャン達による抗議行動も行われました。

 Amazonはそれ以前から、プライバシーの問題に関する疑惑がありました。それはスマート・スピーカーとも呼ばれるAmazonのAI搭載スピーカーEcho(エコー)のユーザー達に起きたトラブルという形で話題沸騰したわけですが、このAI部分であるAlexa(アレクサ)が、プライバシーの侵害というよりも、結果的に個人情報の監視と盗用に一役買うという恐ろしい事態を招いたわけです。当のAmazonは中国内からのハッキング行為を理由にこの事件について弁明しましたが、何でも気軽に話せる“お相手”と思っていたAlexaの“ご乱心”(Hal 9000を思わせる異常な誤動作)に多くのユーザーは青ざめ、実はAmazon自体がAlexaを通して個人情報を監視・盗用しているのではないか、という疑惑も出てきたわけです。

 もう一つは、ニューヨークのロング・アイランド・シティに建設予定であったAmazonの第二本社に関する騒動です。ここは実は私が住んでいるエリアなのですが、もしもAmazonの第二本社ができると、地価が急上昇して多くの地元民が追い出される結果となりますし、Amazon移転による公共交通機関の大混雑と整備の必要性(つまり莫大な金がかかる)、そしてニューヨーク市や州による地元市民のための再開発費予算がAmazonへの助成金や税優遇措置によって大幅に削られる結果にもなります。そのため、この移転計画は地元の猛反発を食らって結果的には撤退となりましたが、Amazonは地元行政を抱き込んで引き続き移転の実現を画策していると言われています。

「今、中国よりも危険なのはAmazon」こんな意見も巷ではあちらこちらで聞かれます。

さて、皆さんはAmazonとどう付き合われますか?

 

 

トピック:ドリー・パートンはアメリカを癒せるか?

 

 アメリカは11月の第一月曜日の翌日火曜日が「エレクション・デー」、つまり選挙日です。よって、10月は選挙と政界絡みの話題が一層賑やかになりましたが、先日は故プリンスの地元ミネアポリスにおけるトランプの再選キャンペーン中に「パープル・レイン」が使用されたことにプリンスの財団が強く抗議したというニュースがありました。

 プリンスは2006年大統領選の6か月少しほど前に亡くなりましたが、選挙戦から大統領就任後もプリンスの財団はトランプに対してプリンスの一切の楽曲の使用不許可を通告し、昨年はプリンスの弁護団がトランプに対して公式・法的な手紙も出していました。ですが、法規などまるで気にしない(つまり無法者)トランプですから、性懲りもなくプリンスの曲を使っていたようです。

 

 2016年の大統領選時の本ニュー・レターでもお伝えしましたが、トランプはアメリカ史上で最も有名ミュージシャン達に嫌われている大統領と言え、逆に彼を支持する有名ミュージシャンというのは数える程しかいません。

 どこを向いてもアンチ・トランプだらけの有名ミュージシャン達の中でも特に目立っているのは、ニール・ヤング、リアナ、ジョン・レジェンド(とパートナーのクリッシー・テイガン)、エルトン・ジョン、ファレル・ウィリアムス、テイラー・スウィフト、セリーナ・ゴメス、スヌープ・ドッグ、エミネム、ブルース・スプリングスティーンなどといったところではないでしょうか。

 中でもジョン・レジェンドとクリッシー・テイガンに関してはトランプ自身も目の敵にしており、ことあるごとにツイッターで非難を浴びせていますが、不思議なことにトランプが毛嫌いしているジェイZとビヨンセは、トランプを非難しつつもあまり相手にはしていないようで、まだこれといった“直接対決”は実現していません。

 

 トランプにとっては”A級戦犯”とも言える上記有名ミュージシャン達に続いて、“B級戦犯”的存在とも言えるのがポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソン財団、ローリング・ストーンズ、ポール・ロジャース(フリー)、クイーン、(特にブライアン・メイ)、エアロスミス(特にスティーヴン・タイラー)、ガンズ&ローゼズ(特にアクセル)、R.E.M.(特にマイケル・スタイプ)、アデル、シャナイア・トゥウェイン、ルチアーノ・パヴァロッティなどと言ったところで、彼等は楽曲不使用を中心にトランプに対するノーを公表し続けています。

 

 そうした中で先日、「ドリー・パートンはアメリカを癒せるか」という面白い記事を見つけました。カントリー音楽のみならず、アメリカ音楽界を代表するアイコン的な元祖ディーヴァ&女王の一人であり、アメリカの国民的大スターとして、日本で言えば美空ひばり級の人気・地位・評価を誇るドリーですが、彼女こそが、南北戦争以来と言われるほどに分断され、反目・憎悪と攻撃的な姿勢・論争に満ち溢れた今のアメリカを、その音楽と人間性または存在感によって癒すことができるのではないかという内容でした。

 

 そもそもこの記事の発端となったのは、ニューヨークのローカルFM局であるWNYCのポッドキャスト(インターネット・ラジオ)・プログラムとして去る10月15日から12月8日まで週一でスタートしたトーク番組で、10月末の時点で既に3つのエピソードが配信されています。プロデューサー兼ホストのジャド・アブムラドはレバノン移民のアメリカ人ですが、ドリー・パートンと同じくテネシー州の出身で、アメリカの社会・世相を反映した切り口の鋭いラジオ番組をプロデュース(そしてホスト)することで知られています。

 今回のドリー・パートンの番組でも、彼自身によるドリーへのインタビューを軸に、ゲストも交えながら自らコメント・分析し、話の前後で、過去のドリーのインタビューやレコード、コンサート、テレビ番組などの音源も実に手際よくカットアップしてつなぎ合わせ、1時間近いプログラムを全く飽きさせずに仕上げています。

 

 番組の作りも実に印象的で興味深いと言えますし、ドリー・パートンの功績よりも、その実像をアメリカの社会や動きと対比させながらくっきりと浮かび上がらせる手法は見事と言えますが、やはり最も印象的なのは、ドリー・パートンという稀有なミュージシャンその人であると言えます。

 ドリーはジョークのセンスにも非常に長けた人で、相手のジョークや突っ込みを一層のジョークで笑い飛ばすことでも知られています。とにかく明るく陽気で優しいお姉さん(かなり過去)⇒おばさん(少し過去)⇒お婆さん(現在)というイメージで、これまでも特定の個人やグループを傷つけることも怒らせることもなく(狂った性差別主義者から脅迫されたことなどはありましたが)、50年以上その強烈なキャラを維持し、愛されてきたことは驚くべきことです。

 

 また、彼女はファン層の広さにおいてもダントツで、そのグラマラスな容姿やキャラからLGBTQコミュニティでも非常に高い支持を集めている一方で、ゴリゴリの保守派・原理派クリスチャンのおばさん達にも愛され、フェミニストのキツいお姉さんたちからも一目置かれている一方で、トラック野郎や炭鉱労働者などのマッチョな男達からも愛されるという点は、マリリン・モンローとレディ・ガガが合体?したような振れの大きさとでも言うのか、他に類を見ないユニークな存在と言えます。

 しかも、ドリーの面白さは、そうした幅広い層の全てに対して愛情を持ちつつも、特定のグループとは同調・共闘はしない(逆の言い方をするならば、相手を攻撃しない)という、全てに関してある一定の距離を置いているとも言える点で、そこには本来アメリカの美徳でもあった個人(尊重)主義が貫かれているという見方もできます。

 

 シンガー/パフォーマーとしてのインパクトが強い彼女ですが、実は彼女自身はシンガーである前に作曲家として活躍・成功したシンガー・ソングライターです。

 これは私自身、今回のラジオ番組で再認識したことですが、彼女の初期の曲というのは、彼女自身が「Sad Ass Songs」(「悲しい歌」に「Ass=ケツ(尻)」という言葉を挟むことで汚っぽく強調しているスラング。彼女はちょっと汚いスラングをよく使うのですが、それも逆に親しまれている点でもあります)と呼んでいるように、ひどい話の悲しい歌というのが数多くあります。

 それは、女性ならではの心の痛み、古い女性観から来る女性の行動(主に性行動)に対する偏見・非難、女性(妻)に対する家庭内暴力、男(夫)に騙されること・男(夫)を騙すことによる苦痛、を告白・代弁するといったかなり生々しい内容です。そうした中の頂点の一つとして、未婚の若い女性が妊娠したことで相手の彼氏や自分の家族にも見放され、最後は孤独な状況の中で陣痛が起きて死産を迎えるという、あまりにも悲惨な曲もあります(これはラジオ番組中、ドリー自身が最もお気に入りの曲と語っていました)。

 この曲はその後、ナンシー・シナトラやマリアンヌ・フェイスフルなどにも歌われましたが、発表された1970年当時はラジオで放送禁止にもなりました。しかし、こんな悲惨で物議を醸す歌を歌っても、そのイメージが崩れることなく、明るいキャラを維持しているというのは本当に驚きでもありますし、それは恐らく彼女の深い人間性に根差しているようにも思えます。

 

 今回の記事、そして上記の話を含めたドリーのラジオ番組を聴いていて感じたのは、彼女のシンパシーや社会意識というのは、最近話題となっているような様々な問題よりももっと世の中の根底・底辺にあるという点です。

 アメリカでは多くの人達が知る有名な話ですが、ドリーはテネシーの片田舎で12人兄弟の4番目として生まれ育ち、幼少の頃は一部屋しかない“掘っ立て小屋”で暮らす極貧生活であったそうです(その家の写真が昔、彼女のアルバムのカバーに使われたこともありました)。

 厳しい冬を前にお母さんが端切れを縫い合わせてコートを作ってくれて、学校ではみんなに馬鹿にされても、彼女自身はそのコートを誇りに思う、という涙ものの話も有名ですが(これは彼女の代表曲の一つにもなっています)、そうした極貧時代の辛かった経験が、逆に彼女の優しさと芯の強さの基盤となっているようです。

 ドリーの慈善活動に関しては彼女自身が設立したドリーウッド基金による取り組みがよく知られていますが、彼女自身の経験がバックグラウンドとなっていることもあり、その対象は識字率の向上であったり、景気の落ち込んだ地域の雇用促進であったり、常に忘れられ、切り捨てられそうになっている社会の底辺に生きる人々に向けられています。

 彼女は保守か革新かと問われれば、間違いなく保守に属する人であると言えます。ですが、彼女の保守というのは世に言うところの政治的スタンスとしての保守ではなく、アメリカの良心、というよりも人間としての良心を保ち守る、という意味での保守と言えます。

 自分がかつて徹底的に弱者であったことから弱者を絶対に見捨てないという強い信念と行動(音楽においても、慈善活動においても)が彼女の“保守”であり、この極端なまでのピラミッド社会(つまり底辺の数が圧倒的に多い)であるアメリカにおいて、彼女の活動は保守も革新も、右も左も、誰もが支持する結果となっていることも特筆すべきことでしょう。

 

 ドリーはカントリー音楽界を代表する白人のアーティストですが、パティ・ラベルや故マイケル・ジャクソンを始めとする数多くの黒人アーティスト達との交友でもよく知られ、故ホイットニー・ヒューストンがドリーの曲をお気に入りのレパートリーにしていたこともよく知られています(映画「ボディ・ガード」で歌われた「I Will Always Love You」)。

 ドリーは私生活においては二十歳の時に結婚(相手は道路舗装業を営んでいた一般人)して以来、今もおしどり夫婦であり続けています。子供はありませんが、マイリー・サイラスの名付け親であるなど、多くの人達から母親的な存在ともされてきましたが、容姿ではなく中からにじみ出る彼女の母性というのは、若いころ幼い妹や弟たちの母親代わりを務めてきたことから来ているとも言われます。

 

 私自身も70年代からドリーのファンでしたが、この人の圧倒的なカリスマ的存在感と、それでいて温かで優しい包容力溢れる隣のお姉さん(当時)的な親しみやすさというのは、膨大な数のスター達の中でも全くもって唯一無二のものであり、極めてユニークであるとも言えます。

 また、彼女はアメリカのスター達の中では珍しく完全なノンポリであり、政治的な発言は決してしない人でもあるので、その意味でも益々左右両極化が進み、中道でさえも引き裂かれつつある今の荒れ果てたアメリカを、音楽によって癒すことのできる”切り札”となるかもしれない、という今回のラジオ番組や記事における意見は中々面白いと感じました。

 もしかするとドリー・パートンが2020年の大統領に?いや、そんなことはあり得ないと思いますが(笑)、トランプが大統領ということ自体があり得ないことでもあるので、今のアメリカであり得ないことは何もない、と言えるのかもしれません。

 なにしろ映画俳優が大統領(ロナルド・レーガン)になる国ですから、そろそろミュージシャンが大統領になってもおかしくはないかもしれませんね(ジェイZやカニエ・ウェストはその座を狙っているとも言われていますが…)。

 

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 October 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

             


 最近、どうにもスマホやiPodで聴く音楽(音質)に飽き飽きして、時代と逆行するのは承知の上でポータブルのCDプレイヤーを購入しました。アメリカでは中高年層や人種・人口的にマイノリティとされる移民を中心に、ポータブルCDプレイヤーの需要というのはまだまだあります。SONYやパナソニックも依然人気ブランドですし、アメリカのオーディオ機器メーカーや家電メーカーの安価ブランドも根強い人気がありますが、それらのほとんどは中国製です。更に最近は、中国ブランドの進出が著しく、高級モデル並みの高音質やスペックを破格の値段で実現しているため、評価・レビューも高く、ダントツの人気とベスト・セラーを誇っています。

 しかし、天邪鬼の私はそうした製品には手を出す気になれず、いろいろと探して日本製日本ブランドのプレイヤーを見つけて手に入れました。ブランドはオンキヨー(オンキョーではありません)で、裏には1992年8月製造というラベルが貼ってあり、「MADE IN JAPAN, NISSHIN-CHO NEYAGAWA-SHI OSAKA」と明記されています。

 発売当時は、カセット・ウォークマンもCDウォークマンも、そのコンパクトさと軽量化に感動したものですが、スマホ時代の今となっては「ポータブル」とも言えないほどデカいし、重いし、すぐに音飛びするし、ディスクや電池の交換も面倒だし、若者には驚きのまなざしで見られるし、という有様。人によってはジャンクとも言われてしまうビンテージ機器をカバンに入れて、ニューヨークの地下鉄やストリートで音楽を聴いている私をアホな物好きと呼ぶ人もいますが、しかしこの音には何故か安心感や心地良さを感じます。状態の良い品に当たったため、27年経っても再生機能はもちろんのこと、全て問題無く作動するのもラッキーでしたが、思えば90年代半ばころまでは、日本はオーディオ機器でも楽器でも車でも、本当にクオリティの高い製品を作っていたと思います。実はアメリカ人の中にもそのことを良く知っている人間は多いですし、今も日本製を愛用している人間にも時折出会うことがあります。

 肝心の音質ですが、ポータブル機器はやはりポータブル機器ですし、最近の高品質指向をこの機器に求めようとは思いませんし、高級なイヤホン/ヘッドホンを組み合わせようとも思いません。そもそも、耳の問題で密閉型ヘッドホンやイヤホンが苦手な私は必然的にノイズ・キャンセリングとは無縁であり、最近流行りのハイレス(ハイレゾ)ヘッドフォンにもそれほど興味がなく、この古びたディバイスとの相性も考えて小さな開放型ヘッドホンを使っています。そもそも、世界一の騒音都市ニューヨークの街中では音質も何もあったものではない、とも言えますが、私自身は街の騒音と音楽の混ざり具合というのが結構好きで、ちょっと違った(変わった?)音楽鑑賞法の一つとして楽しんでいます。
 ですが、この機器の本領発揮となるのは、やはりカフェなどの静かなスペースでゆったりと音楽を聴く時であると言えます。最近はすっかり耳慣れたスマホの音とは違う音の質感を、どう説明すれば良いのでしょうか。そこに90年代当時のCD主流であった音楽制作現場の“息吹”のようなものをも感じるというのは私の妄想でしょうか。今回は、そんなイントロから本題に入っていきたいと思います。

トピック:「ハイレゾ」と「ロスレス」の魅力と罠?
世の音楽ファン、特にオーディオ・マニア系の音楽ファンには、「音質はレコードからCD への移行、更にCD からダウンロードやストリーミング(デジタル・ファイル)への移行によって悪化している」と主張する人が多いと言えますが、この主張に対して皆さんは同意されますでしょうか。または、どのように反論されますでしょうか。音質というのは、可聴範囲というフィジカルな面と、好みや心地よさといったメンタル面や感覚面の両方に関わってきますので、万人にとっての統一見解や回答というのはあり得ないと言えます。

 例えば私自身は以前、耳の病気を患ったときに聴力検査というものを何度となく受けた経験がありますが、その時の検査によって、私の聴力はあるレベルの高周波の音には非常に敏感で、逆にあるレベルの低周波の音には鈍感であるということが分かった(診断された)のですが、こうした可聴範囲の差異というのは誰にでも少なからずあることであると思います。

音質の好みや心地よさといったメンタル・感覚面に関しては、更に人によって千差万別です。特にその人にとっての”良い音”というのは極めて感覚的・主観的なものと言えますし、透き通ったような高域のクリアなサウンドが好きなのか、中域の膨らんだ温かなサウンドが好きなのか、いわゆるドンシャリの音が好きなのか、または、とにかく重低音がブーストしてないと気持ちよくない等々、人によって好みはそれぞれです。「原音再生」や「ライヴ音再現」、また「音の解像度」といった言い方や音のクオリティの基準と言われるものもありますが、これも「原音」やライヴの音を捉える聴覚や感性によって“再生度”・“再生具合”も変わってきますし、音を数値で解像することは可能であっても、実際にそれらをどう知覚し、感じるかによって、「解像度」自体も絶対的な価値を持つとは言えなくなってきます。ですが、そうした中にも音の良し悪しではなく、聴覚や感性でもない、テクノロジーに関する明確な“違い”というものは明らかに存在します。それはつまりアナログ(LP)とデジタル(CD)という音の記録・再生方式の違いと、同じデジタルにおいても圧縮の有(MP3 などのデジタル・ファイル)無(CD)といった音の保存方式の違いです。改めて説明するまでもなく、圧縮というのは言葉通り音を圧縮するわけではなく、聴感上において問題ないと思われる(つまり、人間の可聴範囲を超える音域情報)を間引き(カット)してデータ量を減らすわけです。よって、カットされること自体は音質の低下と言えますが、要はカットされた音を人間は聞き分けられるのか、という問題が残ります。

圧縮率はビットレート(kbps)という単位で表されますが、諸説異論はあるものの、一般的に人間が圧縮音源の音質差を聞き分けられるのは、せいぜい128kbps か160kbps程度までとも言われています。例えばアメリカにおいて最も人気の高いストリーミング・サービスであるSpotify の場合、モバイル向けには96kbps、デスクトップ向けには160kbps、そして有料のプレミ
アム会員は、高音質の320kbps のビットレートとに分けて圧縮して配信しています。Spotify のプレミアムは音質の良さが売りですし、実際に私の周りのプレミアム会員達もそのことを強調しますが、その一方で私の周りのAmazon Music やApple Music(どちらも256kbps)愛用者達の多くは、Spotify プレミアムの高音質というのは聴覚上はAmazon Music やApple Music と変わらないとも主張しています。また、Spotify に続く人気ストリーミング・サイトのTidal は1411kbps という、い
わゆる「ロスレス」を実現させ、Spotify やAmazon、Apple などとは比較にならない高音質を売りにしていますが、ここまで来ると判別・比較は更に難しいと言えるようです。実際にこちらのメディアでは以前、数曲の音源をそれぞれ160kbps、320kbps、1140kbps の3 種類のビットレートで聞かせる比較テストを一般に公表して話題になりましたが、その違いを判別できた人は半数にも満たなかったとのことです。そうした中で、Spotify がTidal 並み、またはそれ以上の高音質を実現するSpotifyHiFi の開発に取り組んでいるというニュースがあったのが2 年以上も前のことでした。しかし、2019 年9 月現在、このSpotify HiFi のサービスはまだ登場してはおらず、どうなったのかと思っていたところに、何とアマゾンが去る9 月にAmazon Music のコンテンツを高音質の「ロスレス」で聴くことのできるストリーミング・サービス、Amazon Music HD をスタートさせました。デジタル・ファイルの圧縮に関しては、これまでほとんどがデータ量を削減するロッシー圧縮(非可逆圧縮)によって行われてきたわけですが、今回のAmazon の新サービス登場によって、時代はいよいよ、データを削減しないロスレス圧縮(可逆圧縮)の時代に突入したと言えるのかもしれません。

 ちなみに、Amazon Music HD のビットレートは最大850kbps とのことで、Tidal には少々及びませんが、それでもこれまでの2.5 倍以上の数値です。更に今回、Amazon はHD の上のULTRA HD という目下最高音質のサービスも開始させ、こちらは何と3730kbp という、これまでの10 倍以上の数値となっています。また、Amazon のHD はビット深度(量子化ビット数)16 ビットにサンプリング周波数44.1kHZ という、通常のCD 仕様(リニアPCM 方式)を実現していますが、その上ULTRA は24 ビットで192kHZ という「ハイレゾ」CD、またはDVD-Audio と同じ規格を実現しています。

 アメリカのメディアは音楽系を中心に今回のAmazon Music HD のニュースを様々な面からかなりポジティヴに捉えていると言えますし、ストリーミングに関して特に若年層ユーザーではSpotify などに遅れ気味であったAmazon が、いよいよストリーミングの最前線におどり出し、物販の世界を制覇したAmazon が今度はデータ販売の世界も制覇するであろう、といった扇動的な論調まで出ています。しかし、Amazon は何かと敵やAmazon 嫌いも多いですし、一般レベルから専門分野に至るまで、Amazon Music HD の高音質、そして「ロスレス」そのものに対しての懐疑的な意見・論調も見受けられます。特に肝心の音質面においては、再生機器がスマホとイヤホン使用が圧倒的な現状においては、ディバイス側の対応や互換性の問題も含め、ユーザーの耳に届く音の段階で、HD やULTRA の優越性というものがどれだけ感じられるのか、という疑問です。また、音質を追求すれば容量が増えていくことになるわけで、益々「データ・ビジネス」の罠にはまっていくことになり、つまりそれこそがAmazon の狙いである、という別の見方もあります。

 そうした状況の中で、イヤホン/ヘッドホンも高級・高品質化がかなり進み、イヤホン/ヘッドホンに100 ドル台(人によっては200~300 ドル台)のお金をかける若い音楽ファンもずいぶんと増えてきているようです(私は地下鉄に乗っている時でも、周囲の人間が使用しているイヤホン/ヘッドホンにどうしても目が行ってしまいます)。そうした機器の中には「ハイレゾ」(英語ではハイレス:Hi-Res)仕様のものも増えてきていますが、これに関してもユーザーとメディアの両サイド(更にはメーカー・サイドにおいても)で賛否両論があると言えます。この問題は冒頭でも述べたように、聴覚というフィジカルな部分と“聴いた感じ”という感性的な部分との両面が関わってくるため、数値のみで立証したり、優劣をはっきりと結論付けるのは難しいのですが、私がこちらで長年一緒に仕事をし、信頼している優れたマスタリング・エンジニア(アメリカ人)の話が私としてはかなり同意・納得できるものと言えました。それは、例えば再生周波数帯域が広い、いわゆる「ハイレゾ」仕様のイヤホン/ヘッドホンで聴いたからといって今まで聴こえなかった音が聴こえるということではなく、“聴こえ方”が違ってくるのだ、というものです。
人間の可聴範囲というのは大体20Hz~20kHz と言われていますので、その範囲をカバーしているイヤホン/ヘッドホンであれば問題はないわけですが、例えば5Hz~40kHzなどといった「ハイレゾ」仕様のイヤホン/ヘッドホンの場合は、可聴範囲外の音が直接聴こえるわけではなく“含まれている”ことによって、音の緻密さや自然さといった“聴こえ方”に影響を及ぼすというわけです。

 しかし、騒音に満ちたニューヨークで、特に地下鉄などで音楽を聴くのであれば、そんなものは何の意味もなく、ノイズ・キャンセリング機能をもったイヤホン/ヘッドホンの方が高音質を求める上でははるかに効果的だ、とも彼は言っていました。
そしてこの“聴こえ方”の問題に関して、このエンジニア氏は再生周波数よりもサンプリング周波数の違いの方が重要であるとも話していました。つまり、サンプリング周波数が44.1kHz に比べて192kHz というのは1 秒間に読み込むデータの細かさが4.5 倍近いわけで、その細かさの方が音の緻密さや自然さに直結するというわけです。実はこれは結果的にレコードの音質に近いものとも言えるようですが、これも再生機次第であることには変わりがありませんので、現在のスマホ自体または対応ディバイス自体が更にグレードアップしていかない限り、現状においてHD やULTRA の優位性をそのまま捉えることには懐疑的である、との意見でした。それよりもこのエンジニア氏が強調していたのは、感性と経験に支えられたマスタリングの意義・重要性でした。これはマスタリング・エンジニアとしてはもっともな意見であると思いますが、レコードの時代からCD を経てデジタル・ファイルに変わり、今回の「ハイレゾ」に至るまで、マスタリングというのはそのフォーマットの特性に合った、そしてその時代や人々(アーティストとリスナー双方)が求める音に仕上げられていったという背景があります。

 このエンジニア氏が音楽の世界、特にミュージシャンからエンジニアの世界に入っていくきっかけとなったのは、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク52 番街」であったというのも興味深い話です。ご存じのようにこのアルバムは1992 年に世界で初めて商業CD 化された作品であるわけですが、1978 年の発売直後からレコードで愛聴していたこのエンジニア氏は、CD 版発売後、あるミュージシャンの家でCD 版を聴いてその音の違いに驚愕したそうです。そして彼は、音楽を作曲や演奏という方法で生み出さなくても、エンジニアリングという技術と才能で生み出す方法がある、と確信したのだそうです。実際に、音楽・音源は同じでも、レンジや音質特性の異なるレコード、CD、デジタル・ファイル、そして「ハイレゾ」ではマスタリングは異なるわけですし、そこには単なるテクノロジーや数値だけではない、職人の感性と経験というものがしっかりと介在しているわけです。

 そうして生み出された音楽メディアに接するリスナーは、そこから更に自分の聴覚と感性に応じていろいろな“聴こえ方”を楽しむことができる(事実これまでも楽しんできた)のだと思います。「ハイレゾ」、「ロスレス」の議論はこれからも続くでしょうし、それらに合わせた機器やアプリは次々と登場してくると思います。ですが、そこには常に送り手と受け手の側の知覚と感性という両面が、記録された音楽を感動と共に生き生きとしたものに甦らせてきたことを忘れてはならないと思います。

 つまり、そうした“作業”をAI の手に譲り渡してはならない、というオチで今回のニュースレターの〆(シメ)とさせていただきます。

【I Love NY】月刊紐育音楽通信 September 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

             

 

 私がニューヨークが好きな理由の一つに、大都会でありながらも緑が多いということがあります。マンハッタンを初めとするニューヨーク市内には、本当に公園と木々が数多くあり、それが理由に鳥や小動物達も数多く共存しています。

 更に市外に出れば、あっという間に豊かな自然の中に包まれていくことになりますし、州として見れば、ナイアガラの滝も州内にあるニューヨーク州は全米でも屈指の自然の豊かな州でもあるわけです。

 物価の安さや、人々の優しさ・暖かさ・穏やかさという面も大きな魅力です。東海岸は都心部を離れると圧倒的に白人が多くなり、有色人種にとっては居心地の悪さや問題も無いとは言えませんが、それでも全米50州の中でもニューヨークは自由と平等に対するリベラル感覚がダントツに高いと思うのは少々地元びいきが過ぎるでしょうか。

 音楽に関しても、マンハッタンから車で1時間ほどのエリアでも魅力的なミュージック・ヴェニューが数多くありますが、マンハッタンの東側ロングアイランドのウェストバリーという町にあるシアター・アット・ウェストバリーは、キャパ3000人弱のアリーナ・タイプの中型シアターで、ステージがゆっくりと回転することから、客席のどこに座っても同様に楽しめるという点が特徴です。

 シアター内の飲食物もマンハッタンに比べると圧倒的に安くて量も多くて種類も豊富ということで、観客には嬉しいことばかりであると言えます。しかも、観客は地元の人達がほとんどですので、シアター内は演奏前後の飲食エリアも演奏中の観客席も和気あいあいといった感じで、マンハッタンでは味わえないくつろいだ雰囲気は、ニューヨークの豊かな音楽カルチャーの一面を物語っているとも言えるでしょう、

 

トピック:ニューヨークを代表するコンサート・ヴェニュー

 

 今年の夏は、私自身としては例年以上にライヴ・パフォーマンスに足を運んだ感がありますが、ニューヨークのコンサート事情が大分変化してきていることも実感します。私が始めてニューヨークでコンサートに足を運んだのは1977年2月、マジソン・スクエア・ガーデン(以下MSG)におけるKISSの全米ツアー(その約1ヵ月半後に日本初来日公演を果たします)でしたが、思えばそれ以降、数々のコンサートに足を運びつつも、数々の名演を残してきたホール/シアターが生まれては消え、消えては生まれていきました。

 以前、私よりもちょっと世代が上の人達からは「フィルモア・イーストはもう無いんですよね?」と尋ねられたこともよくありましたが、1968年から1971年までの約3年ちょっとの間に、当時“ロックの教会”とまで言われて多くの名盤も残した、イーストヴィレッジにあったこの歴史的なコンサート・ホールなどはその代表的な存在と言えるでしょう。このホールはその後ゲイ・バーにもなりましたが、その入り口は今は銀行となっており、当時を偲ばせるものはありません。

 

 いわゆるスタジアムやアリーナ、また大ホールを除くと、ニューヨークのホールというのは昔、様々な人種や民族の移民達の集会所的な劇場や、かつては富裕層が集まって賑わったいわゆるボールルームと呼ばれる“舞踏場”であったケースが多いと言えます。  

 従って、改装は何度か行っていても、元々が古い建物ですし、内装も昔の雰囲気を残しているホールが非常に多いと言えます(それが“ニューヨークのホールはボロい”とよく言われる所以でもあります)。

 例えば、フィルモア・イーストというのは、そもそもはユダヤ人達の居住エリアにあったこともあって、ユダヤ人達の劇場の一つだったわけです。

 更にこのフィルモア・イーストは、70年代末から80年代にかけてパンクやニュー・ウェーヴの拠点的なホールであったアーヴィング・プラザ(約1000人収容)にその名前を付け加えて、2000年代には「フィルモア・ニューヨーク・アット・アーヴィング・プラザ」と名付けられていましたが(その後、フィルモアの部分は取り除かれて、現在は以前のアーヴィング・プラザの名称に戻っています)、このホールもそもそもはポーランド系移民のコミュニティ・センターでした。

 

 そんなわけで、今回はニューヨーク(ニューヨーク市内中心)を代表する現在運営中のミュージック・ホール/シアター/アリーナについて少しお話しようと思います。と言っても全てをご紹介できるわけではありませんし、いわゆるクラブと呼ばれるライヴハウスに関しては今回は除外しました。

 

 まず規模の大きさから話を始めるとなれば、ニューヨーク最大級のアリーナは旧名ジャイアンツ・スタジアムのメットライフ・スタジアム(約8万人収容)です(厳密に言えば、ここはニュージャージー州、つまり他州となるわけですが)。例えばローリング・ストーンズやブルース・スプリングスティーンといった超大物のコンサートとなれば、まずはこことなります。

 他にはヤンキー・スタジアム(約5万人収容)とシティ・フィールド(約4万5千人収容)もありますが、前者はヤンキース、後者はメッツというニューヨークの大リーグ(MLB)・チームの球場で、春から秋までがシーズンとなるため、音楽イベントとして使用できる回数はそれほど多くはありません。それに対してメットライフ・スタジアムはニューヨークのアメフト(NFL)・チーム、ジャイアンツとジェッツの本拠地で、フットボールは秋から冬にかけての寒い時期に行われますので、NFLのシーズン・オフとなる春夏のコンサート・シーズンにはうってつけとなるわけです。

 ちなみに、ビートルズのニューヨーク公演でも有名なシェイ・スタジアム(約6万人収容)は上記メッツの本拠地でしたが、隣接した当時の駐車場部分に新たにできたのが上記シティ・フィールドであり、シェイ・スタジアムの跡地は現在シティ・フィールドの駐車場となっています。

 

 規模の大きさで言えば、これまで何度も歴史に残る野外コンサートが行われたセントラル・パーク(サイモン&ガーファンクルのコンサートで50万人以上収容)もありますが、ここは特設の音楽イベント・エリアとなりますので、今回はそれ以上は触れません。

 

 スタジアムに続く、いわゆるコロシアムやアリーナとも呼ばれるクラスが前述のMSG(約2万人収容)、ブルックリンのバークレーズ・センター(約1万7千人収容)、そしてNY市外・郊外のロングアイランドにあるナッソ-・コロシアム(約1万7千人収容)となり、スタジアムは別格として、通常はこれらがメジャー・アーティストの最大級コンサート会場となります。

 これらのコロシアムは基本的にはスポーツ・アリーナであり、MSGはバスケ(NBA)のニックスとホッケー(NHL)のレンジャースの本拠地であり、バークレーズはバスケ(NBA)のネッツ、そしてナッソーはホッケー(NHL)のアイランダーズの本拠地となります。

 

 これらに近いキャパシティー規模ですが、マンハッタンを離れた野外アリーナとして夏を中心に人気の高い音楽ヴェニューが、ニューヨーク郊外ロングアイランドの海に面したジョーンズ・ビーチ・シアター(約1万5千人収容)と、昔のUSオープン・テニスの会場であったニューヨーク市クイーンズ区のフォレスト・ヒルズ・スタジアム(約1万4千人収容)です。

 ジョーンズ・ビーチは、セントラル・パークの無料野外コンサートであるサマー・ステージと共に、ニューヨークの夏の音楽風物詩を物語る人気ヴェニューで、潮風を受けながら飲み物を片手に音楽を楽しめるのが魅力ですが、意外とニューヨーカーでもあまり知らない人がいて、行ったことがない人も多いのがフォレスト・ヒルズ・スタジアムです。

 それもそのはず、全米初のテニス・スタジアムであるこのスタジアムは、USオープン・テニスのメイン・コートとして1923年にオープンしましたが、1978年にUSオープン・テニスの会場が現在のフラッシング(同じくニューヨーク市クイーンズ区でメッツのシティ・フィールドの隣り)に移ってからは、90年代まではまだコンサートも行われていましたが、それ以降は半ば廃墟と化していきました。それが2013年からは野外コンサート・ホールとして復活したのですが、閑静な高級住宅街の中にあるため、近隣住民との騒音問題でコンサート自体はそれほど頻繁に行っていません。

 しかし、このスタジアムは特に1960年代から70年代にかけてはニューヨークを代表する音楽ヴェニューとして知られ、ビートルズ、フランク・シナトラ、ジュディ・ガーランド、ダイアナ・ロスとスプリームス、ジミ・ヘンドリクス、ローリング・ストーンズ、バーバラ・ストライザンド、ドナ・サマーなどといった様々な音楽ジャンルの錚々たるアーティスト達が名演を繰り広げてきた、“忘れ去られたコンサート会場”でもあるわけです(かつて、日本のアルフィーもここでコンサートを行いました)。

 

 次に1万人以下ながら大ホールとして代表的なのがラジオ・シティ・ミュージック・ホール(約6千人収容)です。1932年オープンという歴史のあるホールで、既に85年も続いているニューヨークを代表するクリスマス・ショー「クリスマス・スペクタキュラー」の会場として知られています。

 建設当時の流行でもあったアール・デコ調のデザイン(1930年には同じくアール・デコ調のクライスラー・ビルがオープン)が特徴的なこのラジオ・シティは、元々メトロポリタン歌劇場のオペラ・ハウスとして計画されたのですが、ロックフェラー・センターの建設で劇場はその一部となり、結果的に複合メディアの大シアターに計画変更されたといういきさつがあります。名前も当時最大のメディアであったラジオにちなんでいるわけですが、オープン当時は世界最大のオーデトリアムと言われ、2つの劇場がありましたが、その後、改築・増築、破産・再建といった紆余曲折の長い歴史を経て、現在の姿となったのが1980年のことです。

 今も大物アーティストの公演が行われていますが、どちらかというとイベントやスペシャル・プログラムといった傾向が強く、これまでトニー賞、エミー賞、グラミー賞の受賞式、MTVビデオ・ミュージック・アワードの受賞式、またアメフトのNFLのドラフトなども行われています。

 

 メトロポリタン歌劇場のオペラ・ハウスは1880年代からありましたが、その後上記ロックフェラー・センターによる計画断念を経て、現在のオペラ・ハウス(約3800人収容。アメリカン・バレエ・シアターの本拠地でもある)がリンカーン・センターにできたのは1966年です。

 このリンカーン・センターには他に2つの大劇場があり、ニューヨーク・フィルの本拠地であるデヴィッド・ゲフィン・ホール(約2700人収容)とニューヨーク・シティ・バレエの本拠地であるデヴィッド・コーク・シアター(約2500人収容)が隣接して建ち並び、これらに加えて、ミッドタウンにあるカーネギー・ホール(約3000人収容)がクラシック音楽における代表的な大ホールとなります。

 

 カーネギー・ホールは1891年オープンという、ニューヨークで現存する最古のミュージック・ホールとなりますが(実は1886年オープンのウェブスター・ホールという現クラブがありますが、場所と建築はそのままながら、中身はすっかり改装されています)、アコースティック音響は今も本当に素晴らしく、時折通りの騒音が聞えてくるという驚くべき欠点もありますが、実は上記のデヴィッド・ゲフィン・ホールの音響の悪さはニューヨークでも有名ですし、いまや地元の名門ニューヨーク・フィルの演奏をこの名門ホールであるカーネギーで聴けないというのは何とも残念でなりません(1962年までは、このカーネギーがニューヨーク・フィルの本拠地でした)。

 ちなみに、カーネギーは今や完全な貸ホールとなっており、基本的にはレンタル料さえ払えば借りることは可能となっています。

 

 クラシック音楽においては3000人前後の規模は大ホールと言えますが、ロック/ポップスなどのポピュラー音楽系ですと、ニューヨークではこのキャパ・クラスは中規模または小ぶりの大ホールといった括りになります。代表的なホールとしては、どちらも歴史のあるハマースタイン・ボールルーム(約3500人収容)とビーコン・シアター(約3000人収容)が挙げられます。

 1906年オープンのハマースタインは、メトロポリタンとは別のオペラ団の本拠地としてスタートし、スポーツ、受賞式、テレビ番組収録、大会議などにも対応できる構造・設備となっていることから、これまで音源のみならず映像としても様々な名作品を世に送り出してきました。昔はフリー・メーソンの集会場としても使用され、70年代には統一教会に買い取られもしましたが、かなり老朽していながらもアコースティック音響は中々素晴らしいと言えます。

 もう一つのビーコンは1929年にオープンした映画館でしたが、70年代以降はコンサート会場としてニューヨーカーに愛されてきたシアターで、様々な有名バンドが定期的なコンサートを行っていることでもよく知られています。中でも1992年から2014年の解散まで、ほぼ毎年10回以上の連続公演を行ってきたオールマン・ブラザーズ・バンドは、このビーコンをニューヨークの本拠地にしてきたと言えます。

 

 この3000人キャパ・クラスのホール/シアターは、音楽興業ビジネスにおいては最もディマンドや利用率も集客数も高い、ニューヨークのコンサート・カルチャーの中心とも言えます。もちろん、ニューヨークの音楽シーンは多数のクラブ(ライヴ・ハウス)によっても支えられているわけですが、コンサート形式となれば、2000~3000人規模のヴェニューが、運営サイドとしても最も魅力的且つリスクの少ないビジネスであるとも言えますし、今も新たなヴェニューが次々と登場しています。

 

 タイムズ・スクエアのど真ん中にあるプレイステーション・シアター(約2100人収容)は、2005年オープンですので、もう14年が経ちますが、巨大スクリーンや無数のテレビ・モニター、最新型の電光掲示板などのマルチ・メディア機能を備えた新しいタイプのシアターとして登場し、その後のシアター作りにも大きな影響を与えました。ですが、残念なことに今年12月にはクローズと発表されています。

 

 このプレイステーション・シアターを運営するイベント会社のザ・バワリー・プレゼンツ(現在はAEG Liveが株式取得)は、ここ数年特に注目の存在で、マンハッタンとブルックリンに斬新なコンセプトのホール/シアターを次々とオープンさせています(前述のフォレスト・ヒルズ・スタジアムやウェブスター・ホールも運営)。

 その中でも特に、以前麻薬取り締まりによってクローズした有名なナイトクラブを改築・改装し、2007年に改装オープンしたターミナル5(約3000人収容)と、鉄工所をそのまま利用したライヴ・スペースである2017年オープンのブルックリン・スティール(約1800人収容)は、今最も注目度の高いミュージック・ヴェニューであると言えます。

 また、ハリケーンによる壊滅的な損害から復興したサウス・ストリート・シーポートにあるピア17のルーフトップに昨年2018年にオープンしたルーフトップ・アット・ピア17(約3000人収容)は、特にニューヨーカーには人気の高いスポットであるルーフトップそのものをコンサート会場に仕上げるという新しいコンセプトのヴェニューと言えます。

 

 その他にも小規模のシアター/ホール、クラブとホールの中間的なヴェニューなど、ご紹介したいニューヨークの音楽ヴェニューはまだまだたくさんありますが、それらはまた機会がありましたらご紹介したいと思います。

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 August 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

 

 

 

 

 

 

 先日、既に独立した私の子供達がそれぞれの高校時代の友人と共に私のアパートでちょっとした再会パーティを立て続けに行うという機会がありました。彼らは皆、高校時代はよく我が家に出入りしていて一緒に食事をしたりしていましたし、私にとってはみんな自分の娘、息子同然の連中なのであれからそれぞれ10年、15年以上が経ち、皆それぞれ様々な仕事に就いて活躍していることは私にとって本当に嬉しい限りです。

 彼らの世代はアメリカでは「ミレニアルズ」または、「ジェネレーションY」などとも呼ばれますが、一般的には1980年代前半から90年代中頃までに生まれた世代とされています。その由来は、21世紀のミレニアムに社会進出するという意味から来ていますが、戦後生まれの親達の元で育ち、思春期または成人前に9/11のテロを経験したこの世代は、テレビ・ゲーム世代・インターネット世代とも言われます。一般的には社会意識や社会変革意識が強いと言われ、実際にオバマ大統領誕生の原動力となり、トランプの後の時代を切り開いていく世代とも言われています。例えば、最近アメリカ(特にニューヨーク)では、史上最年少の女性下院議員となり、早くも2024年大統選の有力候補と目される”AOC”ことアレクサンドリア・オカシオ=コルテス(29歳)の話題が絶えませんが、彼女などはその代表的存在と言えます。

 私の”子供達”が今後どのように社会で活躍していくかはさておき、彼等と久しぶりに話して興味深かったのは、彼らの所謂「所有欲の低さ」でした。これはこの世代の特徴の一つとも言われていますが、例えば家、車、衣服/ファッションなどに関してはブランド志向や高級志向、そして所有欲自体も低く、例えば音楽や書物、美術や写真など、コンピュータやスマホによって獲得できる“モノ”は形の無い、ヴァーチャルで電子的なものが中心となります。よって、自宅にはステレオや本棚、CD/レコード、本もほとんど無く、それらは手に取れる固体ではなく電脳空間上の“データ”となるわけです。

 モノが無い/少ない、またはモノに対する執着心が弱いということ自体は素晴らしいことであるかも知れませんが、外的な対象よりも自分自身という内的な部分に一層フォーカスするというスタンスは、現代の物質文明、または飽くなき物欲の世界においては一種の意識変革・改革であるとも言えます。物質主義に支えられたこれまでの世代とは異なるマインドを持った世代の台頭は、単に政治や社会意識といった表面的な部分だけでなく、倫理観や宗教観などといった内面的な思考部分に大きな影響を及ぼすのではないでしょうか。そんな思いを持ちながら、私自身はこのアメリカ(だけではありませんが)における意識・モラルのどん底状況の先は決して暗くはない、と思わず感じてしまうのです。

 

トピック:iTunesとダウンロード時代の終焉

 皆さんの中にまだiPodを使っている方はいますでしょうか?実は、私は周囲の人(特に若者)からは“化石”と呼ばれてもまだ使っています(笑)。自宅ではCDやレコードを聴いている私でも、さすがに外にCDを持ち出すことはありません。長らくiTunes上のダウンロード音源が自分の主要音楽ライブラリーとなってきた自分にとって、iPodは車での移動時や出張時などでは今も使いやすいディヴァイスとして重宝しているのです。

 これが今の若い人達であれば、SpotifyやTidal、Apple MusicやGoogle Play Music、Amazon Musicといったストリーミング・サービスとなるので、すべてスマホ1台でOK。彼らは私のように所謂TPO(Time=時間、Place=場所、Occasion=場合。 ※実はこれは和声英語です)によって音楽メディアを変えることは好みません。ストリーミングで事足りてしまう訳です。

 因みに、私自身はストリーミングとしてはAmazon Musicを中心に(Amazonのプライム・メンバーには無料特典も多いので最も使用頻度が高い) Apple MusicやGoogle Play Musicも時折使っています。これらは若い世代に言わると中高年向けのストリーミング・サービスで、若い世代はやはりSpotifyが圧倒的に人気であり、プラットフォームは異なりますがSiriusやPandoraなどのインターネット・ラジオも高い人気を誇っています。

 そうした中で、音楽のリスニング・スタイルに大変革をもたらし、18年に渡って膨大多岐に渡るダウンロード・サービスを提供してきたiTunesが遂に終了するとのニュースが入りました。

 ご存知の方も多いと思いますが、これは去る6月に行われたアップル社の開発者向けカンファレンスであるWWDC 2019での発表でした。このニュースは、私のようなiTunes愛用者(特に中高年層)にとっては衝撃的でした。自分の膨大な音楽ライブラリーが消失してしまうのか…いや、事実は決してそうではなく、正確に言えば、次期macOSとなる「macOS Catalina」にはiTunesが搭載されなくなるということで、iTunesの存在自体が無くなるわけではなかったのです。それでも現在のストリーミング主体の音楽カルチャーからは既に取り残されているという引け目や劣等感を感じている世代にとっては事は深刻に思えます。

 思えばiTunesの登場は、2001年9月11日の同時多発テロの記憶と重なっています。その年の1月に開催されたMacworld Expoで、今は亡きスティーヴ・ジョブスはPCの“第3の時代”としてデジタル・ライフスタイルを提唱し、それを実現するための象徴的なソフトウェアとして音楽再生&管理ソフトであるiTunesを発表しました。

 当時はまだMP3やダウンロードというものは、それほど普及しておらず、1999年からスタートしたNapsterが巻き起こした大旋風と裁判沙汰によって音楽業界は翻弄され、その革新的なテクノロジーやニュー・メディアとしての可能性や展望よりも、不正コピー(ダウンロード)や海賊版、そして著作権の問題の方が大きく横たわっていました。それがジョブスの扇動によってMP3ダウンロードという手法が表舞台に登場し、まだテロの衝撃に打ちひしがれ、後遺症に苛まされていた10月にソフト(iTunes)を活用するディヴァイスであるiPodが発売されたわけです。

 そしてこのiPodはみるみるとバージョンアップされ、ついに2003年4月にはiTunes Music Storeがサービスを開始。翌2004年にはヨーロッパでサービス開始。2005年には日本でもサービスを開始し、それから間もなくして動画の販売も行うようになったのは皆さん良くご存知かと思います。

 そんなiTunesの大躍進に歯止めがかかり始めたのは、皮肉なことにアップル自身が2007年からスタートさせたiPhoneであったと言えます。このiPhoneの登場によって、iPhoneユーザーはiPodなどのMP3プレイヤーと携帯電話を別々に持つ必要が無くなり、またパソコン無しでも楽曲購入が容易になった訳です。

 そして翌2008年から始まったSpotifyによるストリーミング・サービスの大躍進によって不正コピーや海賊版が消滅していく結果となりました。また、不正コピーだけでなくPCやスマホにセーヴできないというストリーミングの特性に安心感を持った大手レコード会社を始めとするレコード業界も、結果的にストリーミングを後押ししていくことになります。

 もう一つ印象的であったのは、2013年にiTunes自体がストリーミング・ラジオ(iTunes Radio)にも対応しはじめたことです。今思えば、これはある意味で象徴的な出来事でもありました。その翌年2015年にはアップル自身がApple Musicを、その他にはGoogle Play Music、Amazon Primeといった大手IT企業によるストリーミング参入が立て続けに起こり、ダウンロードからストリーミングへの移行は予想以上のスピードで進められていくことになります。

 また、iTunesでは動画ファイルの再生&管理も可能になり、音楽以上に大容量のデータを扱う上でもストリーミングはダウンロードよりも圧倒的なアドバンテージがあると言えます。

 そうした経緯・推移があり、結果的に2018年末時点においては、アメリカ音楽業界におけるストリーミングの売上シェアが75%に達したという調査結果から見ても、ダウンロードからストリーミングへの移行はほぼ達成されたと言えるのは間違いなく、そうした背景や根拠をもとに、アップルが従来のiTunesサービスを終了させるという判断・決定は当然の結果であるかも知れません。

 LP~CD時代からダウンロードへの移行においては、手に取る“モノ”(LPやCD)から目に見えないデータ(MP3ファイル)への転換という点が最も大きな変革であったと言えます。ストリーミングになると更にモバイルつまり携帯(スマホ)をディヴァイスとした配信のためのプラットフォームが必要となり、このことがまた大きな変革をもたらすことになります。

 ケーブル・テレビが主体であるアメリカの家庭に於いては、テレビとWiFi(インターネット)を組み合わせたケーブル・ネットワークが一般的でスムーズなダウンロードを可能にするインフラとなっていたわけですが、ストリーミングの場合は、スマホの圧倒的な普及によりストリーミング配信自体は自宅のみならず、外出先でも頻繁に行われています。

 この“いつでもどこでも”という手軽さと簡便性は、スマホの大きな魅力で、その結果として自宅電話やデスクトップ・コンピュータのみならず、最近はラップトップまでも所有しない若い層が増えてきているという現象ももたらしています。特にスマホとストリーミングは、最強タッグとも言える相性の良さで、大きなアドバンテージを持っています。しかし、その簡便性・アドバンテージを滞ることなく、また煩わされることなく実現するためには、スマホでのデータ使用がアンリミテッド(無制限)であることが重要になってきます。

 また、ストリーミングであっても自分のプレイリストやライブラリーを作る場合は、ストリーミング配信されるそれらのデータが仮想スペース、つまり“電脳ストレージ”であるクラウド上にセーヴされることになり、そのため楽曲が増えれば増える程、クラウドのストレージ容量が更に必要になります。

 そのため、スマホでのデータ使用「アンリミテッド(無制限)」と「クラウド」のストレージ容量アップの需要が一気に高まり、その供給部分がビジネスとしても大きな位置を占めるようになってきています。つまり、「データ販売」と「仮想スペース(クラウド)販売」という、正にヴァーチャルな“物販商売”と言えるでしょう。

 私のようにソーシャル・メディア・サービスの世界からは距離を置き、スマホもできるだけ使わないという仙人のような人間、または前時代的な偏屈な人間というのは今や希少で特にアメリカの若者たちにとって、スマホでのデータ使用「アンリミテッド(無制限)」と、「クラウド」の大容量というのはマストであり、彼らにとってのデジタル・ライフに於けるある種の生命線ともなり、よってそこにお金をかけるのは当然となる訳です。

 そうした状況の中で、アップルはiTunesに安らかな死を与えたとも言えますが、前述のように、それはダウンロード配信をやめるという意味ではありません。
完全な消滅ではなく、分割による新たなシステムへの“組み入れ”または“合体”と言えます。

 具体的には次期macOSに於いてiTunesはコンテンツのジャンルごとに、「Apple Music」、「Apple Podcast」、「Apple TV」の3つのアプリに分割されるそうです。また、新たにリリースされるミュージック・アプリでは、楽曲の個別購入やスマホとの同期機能などといったiTunesのコア機能を引き継ぐことになるそうです。(ちなみに、「iTunes for Windows」は引き続き同じサービスが提供されるとのこと)。

 ですが、もはやiTunes自体の存在意義は無くなり(少なくなり)、表舞台から消え去ることは一つの事実であり、いよいよ名実ともにストリーミング主流の時代を迎えることになったのは間違いないでしょう。

 もちろん、アーティストのなかには、ダウンロード販売はOKだが、ストリーミング配信はNGという人も依然多く、ダウンロード販売全体を停止させることは現状に於いてはまだ不可能です。しかし、時代の波はもう誰にも止められないところまで来ています。今後、更なる妥協や転換が起こることは必至であると言えるのではないでしょうか。

 そしてここでも手に取れる“モノ”に対する価値感や所有欲は益々無くなっていくと思われます。それによって、世の中が更に変化し、人々が本当に大切なものを見いだしていくことができるかもしれない。そんな希望的観測も持っている今日この頃です。

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 July 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

 

今年の日本の梅雨は長雨と聞いていますが、ニューヨークは一足お先に本格的な夏到来です…というのも変な話で、これまで梅雨というもののなかったニューヨークは、5月末のメモリアル・デーの後に海開きとなって夏に入っていくのが通常のパターンでした。それがここ数年、5~6月は雨が多く、突発的な豪雨や雷など、天候が安定せず、ずるずると7月になってようやく夏という感じになっています。

 7月4日の独立記念日に大雨とはならなかったのは良かったですが、これから先、天候は更に変わっていくでしょうか、どうなるかはわかりません。

 カリフォルニア南部の地震も心配ですが、アラスカで摂氏30度以上の異常な暑さというのも驚きです。先日はグリーンランドで氷の上を走る犬ぞりが、氷の溶けた海の上を走る画像と、インドでは熱波による死者が100人を超え、このままでは人間が生存できる限界気温を超える、というニュースにも驚愕しましたが、アメリカもどこもかしこも、“前例のない”、“観測史上最高(または初)の”異常な気候ばかりです。

 温暖化による水位の上昇で、マイアミのビーチは沈み(5~15年以内と諸説あり)、それに続いてマンハッタンのダウンタウンも2012年のハリケーン・サンディの時のように海に沈む(15~30年と諸説あり)とも言われておりますが、先日はある科学者が「地球温暖化はこのまま止まることなく進むわけではなく、温暖化による異常気象で地球の地磁気が逆転(ポール・シフト)して氷河期を迎える」という恐ろしい説を述べていました。実はこれはかなり前から言われていた説であり、実際に地球は過去360万年の間に11回も地磁気逆転している(最後の逆転や約77万年前)ということで、そのことを発見した一人は京都大学の教授ですから、日本でも知られている説であると思います(最近の各国の宇宙開発は、実は軍事目的よりも地球脱出・他惑星移住計画がメインであるという説も…?)。

 それにしても、熱波・水没と氷河期とどちらが良いか(ましか)などという恐ろしい二者択一はしたくありませんが、各国が環境問題に対してまじめに取り組み気がない以上、これからの人類をふくめた生物は、更なる暑さ・寒さにももっと強くならなければ生き残れないことは確かのようです。

 

トピック:“ウッドストック”のスピリットを伝えるニューヨーク最大の音楽&キャンピング・イベント「マウンテン・ジャム」

 

 先月お伝えした騒動の後、予定開催地からも拒否されて変更を余儀なくされ、いまだチケットも発売されないゴールデン・アニバーサリーの「ウッドストック50」ですが、実は先日、オリジナル・ウッドストックの開催地であったベセルで行われたニューヨーク最大の音楽&キャンピング・イベントである「マウンテン・ジャム」に行ってきましたので、今回はそちらのイベントについて紹介したいと思います。

 

 このマウンテン・ジャムは、2005年からスタートし、今年で14年目を迎えます。マンハッタンから車で3時間ほどのハンター・マウンテンというニューヨーカーには人気のスキー場があり、ここに特設ステージを作り、キャンピングと音楽フェスティバルで3日間を過ごすということで、多分にウッドストックのコンセプトや伝統が受け継がれているとも言えます(スキー場なので周辺にはホテル施設もあり、キャンピングをしない人たちも大勢います)。

 

 そもそもマウンテン・ジャムは、ウッドストックのラジオ局の25周年イベントとして開催されたのですが、運営組織としても非常によくオーガナイズされ、これまでオールマン・ブラザーズ・バンド、グレイトフル・デッドのメンバー達、トム・ペティ、スティーヴ・ウインウッド、ロバート・プラント、レボン・ヘルム、スティーヴ・ミラー、ザ・ルーツ、メイヴィス・ステイプル、リッチー・ヘイヴンス、プライマスなどといったバラエティ豊かな多岐にわたる大物達が出演してきました。同時にこのフェスティバルの特徴は、地元ミュージシャンや新進・若手ミュージシャンの起用にも積極的である点で、敷地内に大中小3つのステージを設けて演奏を繰り広げ、観客が自由に楽しめるプログラムになっています。

 

 このフェスティバルの最多出演アーティストは、「ガバーメント・ミュール」のウォーレン・ヘインズです。ヘインズは90年からオールマン・ブラザーズ・バンドに参加したことで知られていますが、彼自身のバンドもアメリカでは非常に根強い人気を誇っています。

 実はこのヘインズは、マウンテン・ジャムの看板アーティストであるのみならず、このフェスティバルの共同創始者/オーガナイザー/プロデュ-サーでもあります。

 オールマン・ブラザーズ・バンドのファンの方であればすぐにおわかりでしょうが、実は「マウンテン・ジャム」の名前は、“山でのジャム演奏”に加えて、前述のウォーレン・ヘインズが在籍したオールマン・ブラザーズ・バンドの曲目にも由来しており、その二つを掛け合わせているわけです。

 

 マウンテン・ジャムというと、ヘインズとオールマン・ブラザーズ・バンド、そしてヘインズが長年交流を続けてきたグレイトフル・デッドの元メンバー達の音楽といったジャム・バンド的なカラーまたはイメージが強いとも言え、集まる客層もヒッピー系/アウトドア系が多いと言えますが、それでも上記のようにジャンル的には全く偏っていませんし、ファミリーや他州からやってくる観客も多く、世代を超えた実にピースフルなイベントと言えます。

 ヘインズ自身はノース・キャロライナ州アッシュヴィルの出身ですが、マウンテン・ジャムの前(1998年)から地元でクリスマス・ジャムというミュージック・マラソンを開催しており、組織・運営といったオーガナイザーとしての才能にも長けた珍しいミュージシャンであるとも言えます。

 

 そんなマウンテン・ジャムですが、これまで天候にはあまり恵まれてきたというわけではありませんでした。3日間のフェスティバルで雨が降り続いた年もありましたし、出演者も観客も、マウンテン・ジャムに行くには天候に対してある程度“覚悟”して臨まなければならないという状況でもありました。

 そうした中でマウンテン・ジャムは今年2019年から場所を移して開催することになったのですが、何とその移転先が前回のニュースレターのトピックとしてお話した、オリジナル・ウッドストックの開催場所ベセルとなったのです。

 「オリジナル・ウッドストックの開催場所」と言っても、ベセルは当時とはすっかり変わっています。約3.2キロ平方メートルという広大な敷地内には、「Bethel Woods Center for the Arts」という1万5千人収容の一部屋根付き大野外コンサート・ホールが2006年にオープンし(オープニングを飾るこけら落としは、ニューヨーク・フィルと、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの2本立て)、オリジナル・ウッドストックの歴史を伝えるミュージアムも2008年にオープンしています。

 

 そのため、マウンテン・ジャムのベセル移転開催には賛否両論がわき起こりました。賛成派の意見としては、オリジナル・ウッドストックが開催された“聖地”こそマウンテン・ジャムの開催地にふさわしい、というものが主流で、逆に反対派の意見としては、ベセルの地は既に巨大ホールとミュージアムという“商業施設”や観光地となり、山(マウンテン)の中のスキー場で演奏(ジャム)が行われてきたマウンテン・ジャムにはふさわしくない、ということが多く言われました。

 確かに、マウンテン派と言いますかキャンピング派には現在のベセルはあまりにきれいで人工的で、スキー場でのキャンピング&野外ミュージック・フェスからは離れたイメージとなることはもっともであると言えます。

 ですが、これまで何度もあった悪天候による困難な状況(演奏と鑑賞という点だけでなく、上水・下水の水回りや食料品の管理・販売といった衛生上の問題もありました)から大きく抜け出すことができたのは大きな前進であると言えますし、特に女性や子供にとっては衛生環境的な悩みの種が解消されたことは大切であると思います。また、キャンピング派以外にも足を伸ばしやすい状況となったことは、フェスティバルの今後にとって決して悪いことではないと言えるでしょう、

 

 人工的と言えばその通りですが、一大アート・センター・エリアとなったベセルには、パビリオンと呼ばれる前述の大野外コンサート・ホールとミュージアムの他に、1000人程度収容可能な小さな野外ステージと、ミュージアムの中に450人程度収容可能なイベント・スペースや小劇場などもあり、施設としては大変充実しています。

 更に今回は野外に中規模の特設ステージも作り、これまでと同様、大中小の3ステージにおいてパフォーマンスが行われ、規模としてはこれまでの数倍アップグレードしたと言えます。

 また、各ステージ間の通路にはマーチャンダイズ販売コーナーの他に、このイベントらしい出店、例えば手作りのアクセサリーや楽器、動物愛護運動の広報宣伝、マリファナ関連グッズなどの出店が建ち並び、普通この手のフェスティバルだとバーガーやホットドッグ、フレンチ・フライやチップス程度しかない飲食に関しても、ヴィーガン・カフェ、移動式のブリック・オーブンを持ち込んだ本格的なピッツア、タイ/ベトナム系のアジア料理、オーガニックのジュースやスムージーなど、実にバラエティ豊かなラインナップでした。

 

 それでもハードコアなキャンパー達の中には施設のきれいさと商業的な面に不満を述べる人達もいるようですが、やはりこれだけの会場施設の充実ぶりにはほとんどの来場者が大満足でポジティヴなフィードバックが圧倒的で、セールス的にも好調であったようです。

 実は今回は私の娘のバンドも同イベントに出演していたので娘に招待してもらい、娘のバンドが親しくしているウィリー・ネルソンと息子のルーカス・ネルソンにも紹介してもらうという大きなおまけまでついたのですが、都会の喧噪を離れた大自然と充実した施設を兼ね備える同フェスティバルは、何か心を洗われるような3日間になったとも言えました。

 

 このマウンテン・ジャムは来年も同地ベセルで行われる予定のようですが、ニューヨーク最大の音楽&キャンピング・イベントから、音楽イベントのみとしてもニューヨーク最大のイベントとなり、更に全米最大規模の音楽イベントの一つに成長していくことは間違いないように思われます。 

 マウンテン・ジャム自体には政治色はありませんが、それでもヒッピー思想やピース&ラブのコンセプトを継承し、ウッドストックとも繋がる部分の多いフェスティバルですので(出演アーティストの多くが、オリジナル・ウッドストックで演奏された曲のカバーも取り上げていたのが印象的でしたし、観客も一層の声援を送っていました)、会場に集まった観客・参加者の中には現状に対してかなりアグレッシヴで力強いメッセージとプロテストを表明している人達も多く見られました。

 中でも面白かったのは、トランプの掲げる「Make America Great Again」(アメリカを再び偉大な国に)というスローガンを逆手に取って、「Make America Not Embarrassing Again」(アメリカを再び恥ずかしくない国に)というTシャツや帽子を付けたり、キャンピング・カーに掲げているのを良く目にしたことです。

 観客もオリジナル・ウッドストック世代のおじいちゃん・おばあちゃんから小さな子供まで。3世代で音楽フェスを楽しんでいる姿は実に微笑ましいと言えましたし、これこそがアメリカの“グレート”なところであると改めて感じました。

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 July 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

                                         

今年の日本の梅雨は長雨と聞いていますが、ニューヨークは一足お先に本格的な夏到来です…というのも変な話で、これまで梅雨というもののなかったニューヨークは、5月末のメモリアル・デーの後に海開きとなって夏に入っていくのが通常のパターンでした。それがここ数年、5~6月は雨が多く、突発的な豪雨や雷など、天候が安定せず、ずるずると7月になってようやく夏という感じになっています。

 7月4日の独立記念日に大雨とはならなかったのは良かったですが、これから先、天候は更に変わっていくでしょうか、どうなるかはわかりません。

 カリフォルニア南部の地震も心配ですが、アラスカで摂氏30度以上の異常な暑さというのも驚きです。先日はグリーンランドで氷の上を走る犬ぞりが、氷の溶けた海の上を走る画像と、インドでは熱波による死者が100人を超え、このままでは人間が生存できる限界気温を超える、というニュースにも驚愕しましたが、アメリカもどこもかしこも、“前例のない”、“観測史上最高(または初)の”異常な気候ばかりです。

 温暖化による水位の上昇で、マイアミのビーチは沈み(5~15年以内と諸説あり)、それに続いてマンハッタンのダウンタウンも2012年のハリケーン・サンディの時のように海に沈む(15~30年と諸説あり)とも言われておりますが、先日はある科学者が「地球温暖化はこのまま止まることなく進むわけではなく、温暖化による異常気象で地球の地磁気が逆転(ポール・シフト)して氷河期を迎える」という恐ろしい説を述べていました。実はこれはかなり前から言われていた説であり、実際に地球は過去360万年の間に11回も地磁気逆転している(最後の逆転や約77万年前)ということで、そのことを発見した一人は京都大学の教授ですから、日本でも知られている説であると思います(最近の各国の宇宙開発は、実は軍事目的よりも地球脱出・他惑星移住計画がメインであるという説も…?)。

 それにしても、熱波・水没と氷河期とどちらが良いか(ましか)などという恐ろしい二者択一はしたくありませんが、各国が環境問題に対してまじめに取り組み気がない以上、これからの人類をふくめた生物は、更なる暑さ・寒さにももっと強くならなければ生き残れないことは確かのようです。

 

トピック:“ウッドストック”のスピリットを伝えるニューヨーク最大の音楽&キャンピング・イベント「マウンテン・ジャム」

 

 先月お伝えした騒動の後、予定開催地からも拒否されて変更を余儀なくされ、いまだチケットも発売されないゴールデン・アニバーサリーの「ウッドストック50」ですが、実は先日、オリジナル・ウッドストックの開催地であったベセルで行われたニューヨーク最大の音楽&キャンピング・イベントである「マウンテン・ジャム」に行ってきましたので、今回はそちらのイベントについて紹介したいと思います。

 

 このマウンテン・ジャムは、2005年からスタートし、今年で14年目を迎えます。マンハッタンから車で3時間ほどのハンター・マウンテンというニューヨーカーには人気のスキー場があり、ここに特設ステージを作り、キャンピングと音楽フェスティバルで3日間を過ごすということで、多分にウッドストックのコンセプトや伝統が受け継がれているとも言えます(スキー場なので周辺にはホテル施設もあり、キャンピングをしない人たちも大勢います)。

 

 そもそもマウンテン・ジャムは、ウッドストックのラジオ局の25周年イベントとして開催されたのですが、運営組織としても非常によくオーガナイズされ、これまでオールマン・ブラザーズ・バンド、グレイトフル・デッドのメンバー達、トム・ペティ、スティーヴ・ウインウッド、ロバート・プラント、レボン・ヘルム、スティーヴ・ミラー、ザ・ルーツ、メイヴィス・ステイプル、リッチー・ヘイヴンス、プライマスなどといったバラエティ豊かな多岐にわたる大物達が出演してきました。同時にこのフェスティバルの特徴は、地元ミュージシャンや新進・若手ミュージシャンの起用にも積極的である点で、敷地内に大中小3つのステージを設けて演奏を繰り広げ、観客が自由に楽しめるプログラムになっています。

 

 このフェスティバルの最多出演アーティストは、「ガバーメント・ミュール」のウォーレン・ヘインズです。ヘインズは90年からオールマン・ブラザーズ・バンドに参加したことで知られていますが、彼自身のバンドもアメリカでは非常に根強い人気を誇っています。

 実はこのヘインズは、マウンテン・ジャムの看板アーティストであるのみならず、このフェスティバルの共同創始者/オーガナイザー/プロデュ-サーでもあります。

 オールマン・ブラザーズ・バンドのファンの方であればすぐにおわかりでしょうが、実は「マウンテン・ジャム」の名前は、“山でのジャム演奏”に加えて、前述のウォーレン・ヘインズが在籍したオールマン・ブラザーズ・バンドの曲目にも由来しており、その二つを掛け合わせているわけです。

 

 マウンテン・ジャムというと、ヘインズとオールマン・ブラザーズ・バンド、そしてヘインズが長年交流を続けてきたグレイトフル・デッドの元メンバー達の音楽といったジャム・バンド的なカラーまたはイメージが強いとも言え、集まる客層もヒッピー系/アウトドア系が多いと言えますが、それでも上記のようにジャンル的には全く偏っていませんし、ファミリーや他州からやってくる観客も多く、世代を超えた実にピースフルなイベントと言えます。

 ヘインズ自身はノース・キャロライナ州アッシュヴィルの出身ですが、マウンテン・ジャムの前(1998年)から地元でクリスマス・ジャムというミュージック・マラソンを開催しており、組織・運営といったオーガナイザーとしての才能にも長けた珍しいミュージシャンであるとも言えます。

 

 そんなマウンテン・ジャムですが、これまで天候にはあまり恵まれてきたというわけではありませんでした。3日間のフェスティバルで雨が降り続いた年もありましたし、出演者も観客も、マウンテン・ジャムに行くには天候に対してある程度“覚悟”して臨まなければならないという状況でもありました。

 そうした中でマウンテン・ジャムは今年2019年から場所を移して開催することになったのですが、何とその移転先が前回のニュースレターのトピックとしてお話した、オリジナル・ウッドストックの開催場所ベセルとなったのです。

 「オリジナル・ウッドストックの開催場所」と言っても、ベセルは当時とはすっかり変わっています。約3.2キロ平方メートルという広大な敷地内には、「Bethel Woods Center for the Arts」という1万5千人収容の一部屋根付き大野外コンサート・ホールが2006年にオープンし(オープニングを飾るこけら落としは、ニューヨーク・フィルと、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの2本立て)、オリジナル・ウッドストックの歴史を伝えるミュージアムも2008年にオープンしています。

 

 そのため、マウンテン・ジャムのベセル移転開催には賛否両論がわき起こりました。賛成派の意見としては、オリジナル・ウッドストックが開催された“聖地”こそマウンテン・ジャムの開催地にふさわしい、というものが主流で、逆に反対派の意見としては、ベセルの地は既に巨大ホールとミュージアムという“商業施設”や観光地となり、山(マウンテン)の中のスキー場で演奏(ジャム)が行われてきたマウンテン・ジャムにはふさわしくない、ということが多く言われました。

 確かに、マウンテン派と言いますかキャンピング派には現在のベセルはあまりにきれいで人工的で、スキー場でのキャンピング&野外ミュージック・フェスからは離れたイメージとなることはもっともであると言えます。

 ですが、これまで何度もあった悪天候による困難な状況(演奏と鑑賞という点だけでなく、上水・下水の水回りや食料品の管理・販売といった衛生上の問題もありました)から大きく抜け出すことができたのは大きな前進であると言えますし、特に女性や子供にとっては衛生環境的な悩みの種が解消されたことは大切であると思います。また、キャンピング派以外にも足を伸ばしやすい状況となったことは、フェスティバルの今後にとって決して悪いことではないと言えるでしょう、

 

 人工的と言えばその通りですが、一大アート・センター・エリアとなったベセルには、パビリオンと呼ばれる前述の大野外コンサート・ホールとミュージアムの他に、1000人程度収容可能な小さな野外ステージと、ミュージアムの中に450人程度収容可能なイベント・スペースや小劇場などもあり、施設としては大変充実しています。

 更に今回は野外に中規模の特設ステージも作り、これまでと同様、大中小の3ステージにおいてパフォーマンスが行われ、規模としてはこれまでの数倍アップグレードしたと言えます。

 また、各ステージ間の通路にはマーチャンダイズ販売コーナーの他に、このイベントらしい出店、例えば手作りのアクセサリーや楽器、動物愛護運動の広報宣伝、マリファナ関連グッズなどの出店が建ち並び、普通この手のフェスティバルだとバーガーやホットドッグ、フレンチ・フライやチップス程度しかない飲食に関しても、ヴィーガン・カフェ、移動式のブリック・オーブンを持ち込んだ本格的なピッツア、タイ/ベトナム系のアジア料理、オーガニックのジュースやスムージーなど、実にバラエティ豊かなラインナップでした。

 

 それでもハードコアなキャンパー達の中には施設のきれいさと商業的な面に不満を述べる人達もいるようですが、やはりこれだけの会場施設の充実ぶりにはほとんどの来場者が大満足でポジティヴなフィードバックが圧倒的で、セールス的にも好調であったようです。

 実は今回は私の娘のバンドも同イベントに出演していたので娘に招待してもらい、娘のバンドが親しくしているウィリー・ネルソンと息子のルーカス・ネルソンにも紹介してもらうという大きなおまけまでついたのですが、都会の喧噪を離れた大自然と充実した施設を兼ね備える同フェスティバルは、何か心を洗われるような3日間になったとも言えました。

 

 このマウンテン・ジャムは来年も同地ベセルで行われる予定のようですが、ニューヨーク最大の音楽&キャンピング・イベントから、音楽イベントのみとしてもニューヨーク最大のイベントとなり、更に全米最大規模の音楽イベントの一つに成長していくことは間違いないように思われます。 

 マウンテン・ジャム自体には政治色はありませんが、それでもヒッピー思想やピース&ラブのコンセプトを継承し、ウッドストックとも繋がる部分の多いフェスティバルですので(出演アーティストの多くが、オリジナル・ウッドストックで演奏された曲のカバーも取り上げていたのが印象的でしたし、観客も一層の声援を送っていました)、会場に集まった観客・参加者の中には現状に対してかなりアグレッシヴで力強いメッセージとプロテストを表明している人達も多く見られました。

 中でも面白かったのは、トランプの掲げる「Make America Great Again」(アメリカを再び偉大な国に)というスローガンを逆手に取って、「Make America Not Embarrassing Again」(アメリカを再び恥ずかしくない国に)というTシャツや帽子を付けたり、キャンピング・カーに掲げているのを良く目にしたことです。

 観客もオリジナル・ウッドストック世代のおじいちゃん・おばあちゃんから小さな子供まで。3世代で音楽フェスを楽しんでいる姿は実に微笑ましいと言えましたし、これこそがアメリカの“グレート”なところであると改めて感じました。

【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 June 2019

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

 Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

                                             

 ニューヨークの再開発は各地でとどまることを知りませんが、最近は単なる高層ビルではなく、周囲の景観を変えてしまうような奇怪・奇抜な建築が増えています。その中でも代表的なのは、新ワールド・トレード・センター・エリアのトランスポーテーション・ハブの外郭建築として建てられて「オキュラス」です。恐竜の骨を思わせるデザインは、9/11テロの残骸をイメージしたものであるとのことですが、建築アートというよりは単なる悪趣味なオブジェ、“メモリアル”というよりはまるで万博のテーマ館かテーマ・パークのランドマークのようです。

 次に目下マンハッタンの最新人気スポットとなりつつあるハドソン・ヤードにできた展望台「ヴェッセル」。その名の通り血管を思わせるデザインには趣味の悪さ、センスの無さを感じますが、そもそも既に他の高層ビルに囲まれ、更に今後高層建築が増えていく中で、僅か46メートルの奇怪なインスタレーションに登ってどこが絶景と言えるなのでしょうか。このハドソン・ヤードには更に「ザ・シェッド」と呼ばれる新しいイベント・スペースができましたが、ビル群の中に巨大なマットレスが立てかけられたような、このバランス感覚の無さは一体何なのでしょうか。

 そもそもハドソン・ヤードは「ハイライン」というチェルシー/ミート・パッキング・ディストリクトから北に延びる、廃線となった高架線を再利用したニューヨークらしい遊歩道の最終地点とつながることになるわけですが、このハドソン・ヤード自体が、「ハイライン」のコンセプトとは相容れない、いびつな人口都市スポット空間と言えます。

 このような辛辣な意見は、最近の再開発や新建築物に浮かれはしゃぐ巷の観光ガイドや観光ブログなどでの紹介記事とは正反対のものであると思いますが、敢えて言うなら、これらは古き良きニューヨークを愛する住人(本当の意味でのニューヨーカー)の“目”でもあると思います。

 そうした中、テロの記憶を刻む「9/11メモリアル」(「グラウンド・ゼロ」という呼び名は、テロ直後の凄惨な姿を言い表すもので、復興した今はもう使われるべきものではありません)に5月の末、打ち壊された大きな6つの石が置かれた「メモリアル・グレード」と呼ばれるエリア(グレードは「空き地」の意味)ができました。これは{ファースト・レスポンダーズ}と呼ばれる、テロ直後、最初に現場に飛び込んで救助活動を行いながらも、有害物質を吸い込んで病気になったり亡くなった人達を称えるもので、隣接するメモリアル建築のみならず、周囲の景観とも調和した、静かなメッセージを持った威厳のあるデザイン/コンセプトであると言えます。そしてこの“調和”こそが、今のニューヨーク、そしてアメリカに最も欠けているものに思えてなりません。

 

トピック:ウッドストックと新たな日本叩きの影

 

 マンハッタンから車で約3時間のところにウッドストックという町があります。ニューヨーク州北部のアルスター郡にある人口5~6千人程の小さな町で、キャツキルという山岳地帯・公園の麓に位置しています。避暑地・リゾート地として知られるウッドストックは、19世紀末の「ハドソン・リバー派」の画家たちの拠点となり、その後も様々なアーティスト達が集まり、移り住み、ミュージシャンではジミ・ヘンドリクスやボブ・ディランが住んでいたことでも知られています。

 このウッドストックという名前自体は「ウッドストック・フェスティバル」によって知らぬ人はいないほど有名になりましたが、実は「ウッドストック・フェスティバル」はウッドストックでは開催されていません。そもそもはウッドストックに暮らすアーティスト/ミュージシャン達が自分達のスタジオなどを建設するための資金集めとして同フェスティバルは計画されましたが、結局このウッドストックにはフェスティバルに適した場所が見つからず、ウッドストックの町自体も開催を断ったため、アルスター郡の西隣の郡であり、ウッドストックからは車で約1時間半程離れたサリヴァン郡のべセルという町で伝説のフェスティヴァルは開催されたわけです。

 よって、ウッドストックという名称は、既に一地方名を遥かに越えて、当時のヒッピー・ムーヴメントやサイケデリック・カルチャーの集大成、更には愛と平和の象徴として、単なるコンサート・イベントやフェスティバルではなく、アメリカの精神性やカルチャー(カウンター・カルチャーと言われてきましたが、もはや“カウンター”という言葉も必要ないかもしれません)を物語る偉大な“伝説”として、アメリカ人の心にしっかりと刻まれることになったわけです。

 このフェスティバルの共同プロモーターであったのがマイケル・ラングという人物です。ブルックリン出身の彼は1967年、22歳の時にフロリダに移り、翌68年には僅か23歳で「マイアミ・ポップ・フェスティヴァル」という2日間で延べ5万人規模の大コンサートを行い、ジミ・ヘンドリクスやフランク・ザッパ達を出演させましたが、2日目は大雨のため途中で中止となりました(ここからラングの波乱のプロモーター人生が始まっているとも言えます)。

 マイアミで大コンサートの実績を得たラングはニューヨークに戻り、時代を象徴する社会ムーヴメントと成り得る大コンサートの企画を更に推し進め、ウッドストックに着目します。しかし、前述のようにウッドストックでは開催不可となったため、隣の郡のベセルにある大牧場を借り受け、結果的にアーティー・コーンフェルド、ジョエル・ローゼンマン、ジョン・ロバーツを加えた4人による共同運営として世紀の大イベントを実現させます(この4人のオーガナイザーと牧場主の全員がユダヤ人であるというのも、この国の音楽事情を物語る興味深い点でもあります)。

 その辺りのいきさつは様々な形で本となっていますし、ここでは詳しく紹介しませんが、その中でも当時ニューヨーク州知事で後にフォード政権の副大統領となるネルソン・ロックフェラーがこのイベントの安全性を危惧して1万人の州兵を出動させようとしたのを説き伏せて回避させたこと(これに関してはロバーツの手腕)は一つの象徴的な出来事であったと言えますし、結果的にこのイベントを理由に郡が非常事態宣言を出した中でも大きな事件も起こらず、様々な面で大混乱のイベント(特に会場運営や天候の問題)となったにも関わらず、正に“愛と平和のイベント”を実現したことは“奇跡”として物語られているわけです。

 そうした中で、諸説・異論はありますが、イベントのメイン・コンセプト、つまり“愛と平和”という部分を推し進め、貫いたのはラングであったとされ、他の3人はもっとヴェンチャー・ビジネス的な視点を持っていたとされています(それによる4人の対立も様々な本に残されています)。

 お気楽なヒッピーでありながら独創性に満ちた起業家であり、実にタフなネゴシエーターであるラングは、このイベントの成果によって、アメリカでは(世界でも)知らぬ者はいないほどの豪腕・辣腕プロモーターとなりました。前述の“奇跡”も彼の“売り物”と言えますが、ウッドストック・フェスティヴァルもイベント自体は赤字となったものの、その記録を残したレコードと映画によって結果的には黒字に転じさせるというタフさ・強運さも彼の底力であると言えます。

 ウッドストック・フェスティヴァル自体はその後10周年の79年、20周年の89年にも行われましたが、ラングはオリジナルのコンセプトを継承した大規模なフェスティヴァルを、25周年の94年と30周年の99年に行うことになります。しかし、音楽的には評価されながらも、特に99年は69年以上に会場運営と天候に大きな問題が生じて観客が暴徒化し、暴行・レイプ・略奪・放火などが起きて軍が出動するという忌まわしい悲惨な結果となったことは、まだ記憶に新しいと思います。ラングもそれによって多大な損害を被ったと言われますし、何より「愛と平和の象徴たる(オリジナル)ウッドストックの時代は終わったと」いう評価・レッテルは否定できない結果となってしまったわけです。

 しかし、オリジナルから50年の時を経て、ウッドストックは不死鳥のように蘇りました…と見えました。アメリカ史上屈指の独裁強圧路線を走るトランプの時代を迎え、対立と憎悪ですさみ、疲れ果てつつあるアメリカを癒やし、人々の心に再び“愛と平和”を取り戻すべくあのウッドストックが50年のゴールデン・アニバーサリーとなる「ウッドストック50」として帰ってきた…と多くの人々は期待しました。しかし、その試みは資金提供者の撤退とそれに続くイベント制作会社の撤退で暗礁に乗り上げてしまったのです。常に問題が問題を呼ぶいわく付きのイベント、ウッドストックですが、今回は一体何が起こったのでしょうか。

 既にこれまでの報道でいきさつをご存じの人も多いでしょうが、今回の問題に関しては、その矛先が日本(正確には日本が母体の企業)に向けられている部分も大きく、大変センシティヴな問題もはらんでいるため、ここでは私見はできるだけ避け、アメリカのメディアにおける報道やアメリカ一般大衆のセンチメントという部分にフォーカスして話を進めたいと思います。

 まず、事の起こりは去る4月22日。予定されていたチケット販売が延期となり、しかも同イベントは、ニューヨーク州保険局からの開催許可もまだ得られていない、と報じられたことでした。ここでまず、フェスティバルの中止が危惧されたわけですが、主催者側はそれを否定。

 しかし、その後のアナウンスが待たれる中で、今度は一週間後の4月29日に、今回のウッドストック50に資金を提供する主要投資会社の一つである電通イージス・ネットワーク(以下DANに略)が突如、イベントの中止を発表しました。その声明には「我々はこのフェスティバルがウッドストックのブランド名に見合うイベントではなく、出演アーティスト達、パートナー達、観客の健康と安全を確保できないと判断しました」と記され、その理由の詳細に関するそれ以上のコメントは出ませんした。

 更にその2日後の5月1日には、今回のフェスティバルの制作を手がけるイベント制作会社のスーパーフライが撤退を表明。フェスティバルの最も有力な資金源が絶たれた現在、自分達の仕事を継続することは不可能になった、というのがその理由でした。

 金も人も失ったとあっては、ウッドストック50の開催はもう絶望的、と見るのは当然です。しかし、ラングはそれでも「新しい資金源も制作プロダクションも既に探しているし、直に見つかる」と豪語し、実際に5日後の5月6日はイベント会社のCIEエンターテインメントがウッドストック50のプロデュースを行うことが発表されました。

 更にラングは前述したオリジナルの69年の“奇跡”を例に、希望と努力を力強くアピールしましたが、立て続けの撤退には怒り心頭で、DANへの訴訟に踏み切りました。控訴内容はDANが今回のウッドストック50の銀行口座から約1700万ドルを不当に引き出したこと、4月22日のチケット発売を妨害したこと、そして了解同意なくイベントのキャンセルを企てたこと、となっていますが、更には既に出演者達へのギャラを全額支払ってきたDANは出演者達にウッドストック50への出演も断念させ、その穴埋めとして2020年の東京オリンピックへの出演を打診している、と言うのです。

 これらはあくまでも訴状内容ですから、真偽の程はまだわかりません。DANも契約違反やラングの虚偽を理由にフェスティバルを引き継ぐ権利やキャンセルする権利を出張して逆控訴を行いましたが、アメリカのメディア・サイドによる報道内容、そして音楽業界や音楽ファンまたは一般市民の感情面から言えば、DANの方が明らかに不利な状況にあります。

 その理由の一つは、DANがアメリカの会社ではなく日本の会社であるという点です。厳密に言えばDANはロンドンにヘッドクォーターがある国際メディア会社でCEOも日本人ではありません。元々は1966年にフランスで設立されたCARATというメディア・エージェンシーで、その後買収・分裂を経てイージス(Aegis)社となり、2013年に電通が買収して電通イージス・ネットワークとなり、その後もニューヨーク、ロンドン、マイアミ、シンガポールのメディア会社を次々と買収して巨大な多国籍メディア&デジタル・マーケティング・コミュニケーション会社となっています。

 しかし、アメリカでの報道においては常に「ジャパニーズ・カンパニー」、または「ジャパニーズ・デンツー」です。「デンツー」と言う名前はアメリカの一般社会においてはまだまだ浸透しておらず、音楽業界においても日本とのビジネスを行う人間か、ある程度の役職者以上でないと知りませんが、いずれにせよ常に“ジャパニーズ”として報道されるのですから、アメリカ人にとっての印象は極めてよろしくありませんし、しかも単にアメリカ音楽という面のみではなく、アメリカ人の魂・スピリットと密接につながるウッドストックとなれば尚更です。しかも、「その穴埋めとして2020年の東京オリンピックへの出演を打診」という部分が事実であったり、何らかの証拠が発覚でもしたら、ウッドストックの名によってアーティストを集めてアメリカ国外でのイベントに利用すると解釈され、ウッドストック、引いてはアメリカの音楽文化の名誉に関わることにもなりかねません。

 そうした危惧が高まる中、5月15日のニューヨーク最高裁の判決は形の上ではラング、つまりウッドストック50側の勝訴となり、DANにはウッドストック50をキャンセルする権利は無いとの判決が出ましたが、1700万ドルに関してはDANに返済義務は無し、とされました。これはラング側にとっては依然資金の調達が見込めないわけで、勝訴とは言え、現実的には引き続き困難な状況となるわけですが、何と2日後の17日にはアメリカの名門投資銀行であるオッペンハイマー・ホールディングスが新たな財務支援者となることがアナウンスされました。

 これで一応形の上ではウッドストック50のための金と人の目当てはついたわけですが、ラングとDANの間の訴訟は更に泥沼化する可能性が高まっています。

 実は今回の訴訟でラングが雇ったのが、マーク・コソヴィッツといういわく付きの弁護士です。彼はトランプ大統領の個人弁護士であった人物で、今もトランプ罷免の鍵を握る2016年大統領選におけるロシア介入疑惑に関する調査に当たってもトランプ側を代表し、ロシアのプーチン大統領と密接な関係を持つ人物やロシアの銀行の弁護人も務めているということで、これまで反トランプ側の人間からは脅迫状も送られてきているほどです。

 そんなコソヴィッツは、ニューヨーク最高裁の判決を受けて、DANに対して「非道な」「ゲリラ的」などという言葉を使って強く批判し、控訴による仲裁・調停を目指すことを発表しました。やはりラング側としては1700万ドルをDANが横領したとする認識は変えておらず、今後のフェスティバル運営のためにもDANによる返済にこだわっていると言えます。それに対してDANはニューヨーク最高裁の判決によってラング側の主張は既に退けられていることから、コソヴィッツの主張に真っ向から反対する声明を出しましたが、問題は金銭面に絞られてきたことから、どう決着するのかが気になるところです。

 そんな法廷闘争が行われる中、フェスティバル自体はまだチケット発売の目処も立っていませんし、ほとんどの出演アーティスト達は沈黙を守ったままです。そうした中、ウッドストック50とほぼ時を同じくして、オリジナル・ウッドストックが行われたベセルでは、リンゴ・スターのオールスター・バンド、サンタナ&ドゥービー・ブラザース、ジョン・フォガティといった有名アーティストを集めて50周年のゴールデン・アニバーサリー・イベントが行われることになっています。

 常に“難産”を経験してきたウッドストックではありますが、今回のように開催約3ヶ月前で法廷闘争にまでもつれ込んだドタバタ劇というのは異例というよりも異常と言わざるを得ませんし、それ以上に、今回の事件とその報道が日米関係に何らかの傷跡を残さないか、また、日本に対する風当たりが強くならないかも気になります。

 全ては今後の法廷闘争の結果次第ではありますが、今のアメリカにおける報道ぶりだと、判決に関わらず日本に対する印象が悪くなることは避けられないようにも感じられます。

 実は先日、私の恩師でもあり、長年のお付き合いである米3大レコード会社の元重役二人に今回の件についても話をする機会がありましたので、最後にその時の話も紹介して締めくくりたいと思います。

 二人とも大の親日派であり(一人は夫人が日系アメリカ人)、音楽業界の中でも際だったリベラル派と言え、既に一線を退いたことからも以前よりもストレートな意見を述べてくれるようになっていますが、一人は「ラングは興行界のトランプのような男だ。百戦錬磨の手強い男だし、財界・政界にまで強力なコネクションを持っている。今回雇った弁護士もそのいい例だ。その一方でウッドストックというのはアメリカ人にとって一つの“ソウル”なんだ。ラングとウッドストックを敵に回してしまったのはまずい。デンツーには気の毒だが、相手が悪すぎる」と同情し、もう一人は「デンツーの撤退時のアナウンスは良くなかった。ウッドストックというのはアメリカでも屈指の“問題児”なんだ。99年の悪夢もあるし、今回の50周年が問題だらけであることもみんなわかっていた。だからこそ対応はもっと慎重にならなければならないんだ」と辛口の意見を述べました。

 もちろん、冷静且つ客観的に見ればDANの判断・決定は充分理解できるし、それ自体は責められるべきでは無いが、ポピュリズムとアメリカ第一主義が大勢を占める今のアメリカの世相が、そうした冷静で客観的な視点を持ち得るかということには、二人共大きな疑問を呈し、今後のDANそして日本への風当たりを心配していました。

 この問題はまた追ってお伝えする機会を持ちたいと思います。