【I Love NY】月刊紐育音楽通信 March 2013

(ここではSTEPのNYスタッフから届く、現地の最新音楽情報の一部をご紹介しています!)

 アメリカは、グラミー賞やアカデミー賞などの季節を迎え、巷はそうした話題で賑やかになっていると言えます。
 ブロードウェイのミュージカルも移行の季節でもあり、いろんな演目が終了して新しい演目が登場し始めています。
 リンカーン・センターは、クラシックもバレエもオペラもシーズン真っ直中。ジャズも人気アーティストの出演が多く見られます。


 クリスマス・シーズンが終わって、大物アーティストのコンサート活動なども年明けから活発化しています。
 季節はまだまだ冬の真っ直中ですし、仕事もスロー気味ではありますが、私はこの春を迎える前の2月前後というのが結構好きです。観光客も少なめで、春から夏の開放感や、ホリデイ・シーズンの賑わいからは離れている分、ニューヨークらしい落ち着いた雰囲気の中での力強い活気というようなものが感じられるからです。

トピック:アメリカの最近の肖像権・著作権事情

 かつては、ニューヨークの街中で高級ブランドのショッピング・バッグを手に、カメラをぶら下げ、所構わずシャッターを切るのは日本人の観光客であると言われてきました。しかし、最近では圧倒的な数を誇る中国からの観光客がそれに代わり、さらに長引く不況を反映したアメリカ国内からの(つまり近場からの)観光客も、そうした汚名(?)の仲間入りをしていると言えるようです。
 特に最近は、名所や店舗などの前だけでなく、レストラン内でオーダーしたメニューを食べる前に撮影する人が実に多くなっています。これはご存知のように、デジカメとブログの普及によるところがとても大きいわけですが、場所によっては周りで食べている人達に迷惑がかかることも多々あります。
 そのため、実際にいくつかの高級レストランでは、店内の写真撮影だけでなく(これは意外と知られていないかもしれませんが、基本的にホテルやレストランなどの店内は公共の場ではなくプライベート・スペースとなるので、撮影は不可であり、それを知らずに勝手に撮影すると、カメラを没収されたり、警察を呼ばれたりなどのトラブルが起こることもあります)、たとえ自分がオーダーした食べ物だけであっても禁止という店が出てきています。
 これは、フラッシュを用いた撮影が、周りのテーブルに座っている人達にとって食事の邪魔となり、店にクレームが入るということが最も大きな理由となっているようで、レストランによっては、写真撮影を禁止する代わりに、オーダーしたメニューの写真を画像データで提供する店も出てきています。

 ところが、食べ物の写真撮影禁止には、もう一つ別の理由があります。それは“肖像権”という問題です。そのレストランで作った食べ物(メニュー)にも肖像権が存在し、レストランはそれを保持し、守る権利があるというものです。
 例えば、レストランは客が撮影した自分の店の食べ物の写真がどのように使われるのかわかりません。個人使用については問題ありませんが、ブログと言うプライベートとオフィシャルの区分けが曖昧なものについては、食べ物のクオリティーや評価(撮影された食べ物が美味しそうに見えるか見えないかなど)、さらには広告宣伝活動(特にブログは、当該レストランの意向・意図に反する宣伝内容となることもある)も関わる問題をはらんでいるため、特に高級レストランを中心に神経をとがらせる店が増え始めているわけです。

 自分の店で作った食べ物にも肖像権が存在するというのは、いかにもアメリカらしい考え方であると言えます。
 確かにアメリカという国は、何に関しても権利というものが存在し、その権利を主張する国と言えます。よく、パパラッチがセレブの写真を無断で撮影・公開し、問題となることがありますが、レストランの食べ物というのもひとつの“商品”ですし、それを守る動きが出てくるというのは、起こり得る話ではあります。

 この肖像権と共に、また肖像権以上に、センシティヴで厄介な問題が著作権です。著作権の歴史というのは、意外なことにそれほど古いわけではありません。アメリカで著作権法が制定されたのは1790年ではありますが、音楽に拡大されたのは19世紀に入ってからのことであり、楽曲だけでなく、歌手や演奏者、編曲者などの権利もしっかりと守られるようになってきたのは、この20〜30年くらいのことです。

 それまでは、音楽界でも“バイアウト”と呼ばれる買い取り契約(“契約”と呼べるほどの法的なものとは言えませんでした)がほとんどでした。
 よって70年代くらいまでは、権利や印税なども与えられなかった有名な歌手やバンドや、権利や印税はおろか、満足な報酬すら得られなかった有名バンドのメンバー達や、有名曲のアレンジャー達が山ほどいました。
 あまり大きな声では言えませんが、私がこれまで仕事をしてきた中でも、モータウン、ザ・バンド、アース・ウィンド&ファイア、ウェザー・リポートなど、著作権クレジットなどから判断される一般的な解釈の通りには権利もお金も動いていないということに愕然とするケースも多々ありました。

 大雑把に言えば、それらのほとんどは、“取っ払い”と呼ばれるその場限りの取り引き、つまりキャッシュ(借金の肩代わりなどというケースもあったそうです!)の魔力にごまかされてきたとも言えるわけです。
 このバイアウトは、具体的にはレコード会社やプロデューサー達(時にバンドのリーダーなど)による利潤の独占、つまり搾取という形で行われることが多かったわけですが、実際にはそれが故にアメリカの音楽産業は巨大なものになったという見方もできます。
 とは言え、その影には破産・破綻してどん底に陥り、不遇の人生を送る羽目になったアーティストやミュージシャン達が山のようにいることも事実です。

 こうした反省から、今ではあらゆる才能や作業に著作権が発生する方向になってきています。ですから、一般的にアメリカの音楽クリエイター達は、僅かではあっても権利を主張し、バイアウトという取り引きを非常に警戒する傾向にあります。
 それが故にバイアウトの場合は、“権利の放棄”という意味合いで、印税のアドヴァンスとは桁違いの膨大な金額を要求することが一般的にすらなっており、一方の支払う側も、バイアウトを避ける傾向になってきているわけです。
これは、日米の音楽著作権事情の大きな違いの一つとも言えるのではないでしょうか。

 もう一つの大きな違いは、プロモーション効果またはプロモーション効果のメリットを交換条件にした“バーター取り引き”に関する解釈です。
 こうした取引はこれまで、特に無名の新人や新人バンド等に適用されることが多かったものですが、ここ最近は、現実的な売り上げ数字に結びつく具体的なプロモーション効果が提示されたり、アーティスト・サイドが希望するタイミングに合わせたプロモーションでないと、簡単にはバーター取引とはなりにくいことが多いと言えるようです。
 これはある意味で、“弱者の権利保護”というアメリカの建国精神につながる健全な思想が、音楽業界においてもようやく現実化するようになってきている現れでもあると思います。

 これに関しては、これまでプロモーション的な意味合いが強かった雑誌インタビューに関しても同様であると言えます。
 一般的に、インタビューを受ける側は、インタビューをプロモーションの一環と見なし(または、出版社からそのように見なされ)、ギャラを要求することは非常に少ないですが、インタビューに関してもギャラを要求するアーティストは増えてきており、これも話す内容に関する権利主張という動きが無視できない状況になっています。
 例えば、同じバイオ的ヒストリーに関しても、それが本として出版されれば著作権は発生します。雑誌のインタビューもそれと同じだというのが、その主張の論拠ですが、理屈としては最もであると理解できつつも、今のブログやオフィシャルでないウェブサイトの氾濫から考えると、現実的なアイディアとは言いにくい面もあります。

 さらに著作権には、「盗用・盗作」と「期限」というややこしい側面も多く存在します。
 例えば、ある曲と全く同じリズム・パターンの上に、全く別のメロディを乗せた曲は「盗作」でしょうか? 又、ある曲と全く同じコードの上に、全く別のメロディを乗せた曲は「盗作」でしょうか?
 曲のリズム・パターンもコードも、その楽曲の一部であって権利は発生する、というのが基本的な解釈ではありますが、実際には同じリズム・パターンやコードのヒット曲というのも山ほどあるわけで、それらすべてに盗作疑惑や訴訟が起こっているわけではありません。それらはあくまでもケース・バイ・ケースの判断と、当事者間の認識・解釈の問題となり、極めてグレーなものであることは否めません。
 実際に、盗作に関する訴訟に関しては、純粋な権利主張という面だけではなく、お金に関わる政治的な側面も否定できないようです。

 「期限」に関しても、著作権フリーのいわゆるパブリック・ドメインとなるのは、日本の場合は著作者の生存期間および死後50年までを保護期間の原則としていますが、アメリカの場合も基本は同じく50年ですが、1998年に成立した「ソニー・ボノ著作権延長法」によって、1978年1月1日以降に創作された著作物については、著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則となっています(EUの大半も70年)。
 また、無名著作物などの場合は、最初の発行年から95年間、または創作年から120年間のいずれか短い期間だけ存続するという解釈になっています。
 さらに、ガーシュインの楽曲などのように、保護期間の解除、つまりパブリック・ドメインとなる年自体が、遺族や関係機関や団体などの意向や圧力によって延長することもあるのですから、問題はさらに複雑・曖昧です。

 もう一つ複雑な問題は、先日、日本のJASRACが要望を行って再び注目されている「戦時加算」です。第二次世界大戦の戦勝国の音楽作品に関しては、敗戦国では戦時中の10年間は“著作権が保護されていなかった(そのような文化が存在しなかった)”と見なされて、50年プラス10年に延長されているわけですが、これは敗戦国と言っても、ドイツやイタリアには課せられず、日本だけが対象になっているという“屈辱的な”不平等条約規定であるわけです。
 今のところ、アメリカがその要望に応えるという動きは見られませんし、これも“お金の話”であるだけに、是正は困難であると言えるようです。
 このように、著作権には極めて政治的で曖昧な解釈や判断が存在することも否定できません。 

 “訴訟国家”アメリカで仕事をしていると、日本に比べて弁護士と接する時間が圧倒的に多いのは事実です。移民法、不動産、交通事故や労災、離婚など、それぞれの分野に専門の弁護士がいて、一人の弁護士ではすべての事柄をまかなえないというのも頭が痛いところですが、音楽エンタメ界にも専門の有能・敏腕弁護士がたくさんいて、私自身も何度か仕事をしたことがあります。しかし、大半の弁護士の視点は、クライアントからいくらお金が取れるか、訴訟相手からいくらお金が取れるか、という部分にあって、それが故に、微妙で曖昧な音楽著作権の分野に関しては、かつてのサンプリング問題やダウンロード問題などのように、時代の波に則した、よほどの規模の事例でない限り、積極的には動いてくれません。また、仮に弁護士が動いてくれたとし
ても、訴訟には膨大な時間を費やすため、勝訴しても“一文の得にはならない”し、“儲かるのは弁護士だけ”というのも当たらずとも遠からずと言えます。
 
 肖像権や著作権は守られているのか?というテーマは、ある意味人種問題と同様で、最低限の権利は守られ、以前よりは格段に良くはなったけれども、依然、微妙で曖昧で根の深い問題がまだまだ存在し続けていると言えるようです。

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