【I Love NY】月刊紐育音楽通信 March 2016

ステレオタイプや固定観念、または十把一絡げという発想は最も避けるべきことの一つである、ということはわかっていますが、やはりそうは言っても人間はマイナス面・ネガティヴ面で人や物事を判断してしまいがちです。
度重なる不祥事と不幸な事件によって、ニューヨーカーだけでなく、全米の主に有色人種にとって警官・警察のイメージは相当地に落ちてきていることは否めません。
  そんな重苦しい状況の中で、先日ちょっと心温まるストーリーがありました。
ニューヨーク市クイーンズの屠殺場から、一匹の子羊が逃げ出し、ストリートを走り回ってちょっとした騒動になりました。
結局この子羊はニューヨーク市警の警官に捕らえられ、屠殺場に送り返される予定だったのですが、こんな生まれて間もない可愛い子羊をすぐに殺してしまうのは忍ばれる、と仲間の警官達と3人と割り勘で、この子羊を屠殺場から買い取り、ニューヨーク州の北部にあるアニマル・サンクチュアリーという、主に屠殺場から救い出された家畜の愛護施設に送られることになりました。
  買い取り金額は45ドルということで、一人15ドルずつというわずかな額ではありますが、
引き取った子羊と一緒ににこやかな笑顔で写真に収まった警官達の行いが、日頃何かとギスギスした人間関係に陥りやすいニューヨーカーの心を少し温めてくれたことは間違いありません。

トピック1:今年のスーパーボウル・ハーフタイム・ショーの波紋


アメリカの音楽界はスーパー・ボウル(国歌斉唱とハーフタイム・ショー)からグラミー賞と、華やかで話題の多いシーズンになっていますが、まず今年のスーパーボウルは、いろいろな意味で話題が集まりました。
レディ・ガガの国歌斉唱は、彼女が単にアイディアや奇抜さ・カリスマ性だけではない、シンガーとしての優れた才能としっかりとした基礎・基盤を持っていることを改めて見せつけた(聞かせつけた)と言えます。
  それに対して賛否両論となって様々な波紋を起こしたのがハーフタイム・ショーです。
まずは何故またビヨンセ(2013年出演)なのか、何故またブルーノ・マーズ(2014年出演)なのか、という批判は、出演者決定時から起きていました。
もちろんビヨンセやブルーノ・マーズは当代きっての人気タレントまたはセレブ・アーティストですし、彼等がハーフタイム・ショーに出演すること自体の資格や適性に関しては誰も文句は無いと思います。
しかし、前回出演から2〜3年しか経っていないにもかからず再び出演というのは解せません。
若い彼等のファン達は大喜びであったようですが、地元サンフランシスコ/ベイエリア出身の大物アーティスト達はもちろんのこと、音楽関係者やテレビ関係者の中にも今回の選択に疑問・不満を感じた人達はかなり多かったと言えるようです。
  “疑問”と書きましたが、その理由は誰もがわかっています。
NFLとテレビ局(CBS)、そしてアーティストやレコード会社との間の至って“政治的”な理由です。
国民的行事と言えるスーパー・ボウルですが、実は視聴率自体は伸び悩んでいます。
それはゲーム自体の内容という点もありますが、特に今の若者達 の間では、“猫も杓子もスーパー・ボウル”的な傾向は薄らいできているとも言われています。
つまり、そうした状況の中で、若者を中心とした視聴率を稼ぐにはビヨンセやブルーノ・マーズということになるわけです。
  グラミー賞もそうですが、最近は特に賞の行方よりも、受賞の合間に行われる共演パフォーマンスやトリビュート・パフォーマンスの方が目玉・話題となっています。
はっきり言ってしまえば、グラミー賞の授賞式自体を何時間も見ようという人はそんなに多いわけではありません。
よって、そこにお祭り的な要素とスペシャルなイベント要素を加えることによって視聴率を稼ぎ、スポンサーの広告料をしっかりと取ろうということになります。
もちろん音楽業界は“業界”であり、ビジネスであるわけですから、金儲け自体に悪いことはありませんが、あまりにそれが露骨になってくると、ゲームや授賞式自体のバリューが下がり、本筋から外れていくことは否めません。
  その意味で今年のハーフタイム・ショーのもう一人の出演者であったコールドプレイのパフォーマンスは、その歌唱力・演奏能力の拙さはあったにせよ、非常に好評であったようです。
確かに大勢のエキストラを使った、色彩的にもカラフルなパフォーマンスは、スーパー・ボウルに相 応しいお祭り的な楽しさに溢れたものであったと言えます。
  それに対して、ゲームの後も様々な波紋を呼んだのがビヨンセのパフォーマンスでした。
何しろかつての黒人戦闘派集団ブラック・パンサーを 思わせる衣装と振り付け、マルコムXやここ数年大きなムーブメントとなっているBLM(Black Lives Matter)のメッセージを振り付けや歌詞に巧みに取り込んだパフォーマンスは、白人保守層の神経を逆なでし、方々で大きな反論・批判を呼び起こしました。
  スーパー・ボウルの開催月である2月は、アメリカはブラック・ヒストリー・マンス (黒人の歴史月間)です。
そうした誇りを持って再認識する月に、上記のようなパフォーマンスをして何が悪いのか…と黒人達はもちろん、黒人教会に身を置く私なども思います。
しかし、白人保守層が過半数以上のアメリカで、スーパー・ボウルという国民的行事であり愛国的要素も 強調されるイベントにおいて、今回のビヨンセのパフォーマンスは白人保守層に限らず沈黙・躊躇・緊張を生み出すほどのインパクトがあり、 今後の彼女の活動に影響を与える可能性があるだけでなく、人種間の軋轢が更に増していく危険性もあります。
  実はビヨンセのパートナーであるJay Zは、スーパー・ボウルの直後にBLMに対して多額の献金を送っていますし、彼等は間違いなく“確信犯”として行動してい ることは間違いありません。
スーパー・ボウルの翌日、案の定様々な白人保守層が反発し、元ニューヨーク市長のジュリアーニは「黒人がすべ きことは、ニューヨーク市警に対する敬意を持つことだ」などという報復的な発言をし、これもまた波紋・反論を呼び起こしました。
  こうした人種的な波紋とは別に、今回のハーフタイム・ショーに別の確度・視点から異論を投げかけたのがサンタナです。
今回のスーパー・ボウル開催地の地元大物アーティストである彼は、スーパー・ボウルのハイライト・シーン放映の中でそのギター・パフォーマンスがフィーチャーされましたが、今回のハーフタイム・ショーに不満を持った彼は、NFLと放映局であるCBSに対して公開批判レターを送りつけたのです。
  レターの要点は、「スーパー・ボウルのハーフタイム・ショーは、開催地の地元を代表する世界的な大物アーティストによる“本物のライヴ音楽”をフィーチャーすべきである」(例えば今回で言えばメタリカ、ジャーニー、スティーヴ・ミラー、そしてサンタナ自身など)というものでしたが、これもリップシンクによるヴァーチャル・ライヴ・パフォーマンスに飽き飽きしているファンや音楽関係者の大半(私も含め)には極めて最もな意見でしたが、若者達の間では、「サンタナは自分が選ばれなかったから嫉妬しているだけ」、「単なるギタリストのサンタナに ビヨンセやブルーノ・マーズのようなパフォーマンスができるのか」、「サンタナって誰?」などというリスペクトのかけらもないような反論 が沸き起こり、人種間だけで無く世代間の分裂・軋轢まで起きてしまっている状態です。
  来年のスーパーボウルはテキサス州ヒューストンですが、何しろブッシュ一族のホームタウンですし、利権が絡んだ政治的な動きは今年以上になると予想されます。
ハーフタイム・ショーも既に、テイラー・スウィフト、ジャスティン・ビーバー、アデル、レディ・ガガ、カニエ・ウェストなどが有力候補とも言われていますが(ブッシュ家のお膝元であるヒューストンとなると、恐らく最後の二人は外れると思いますが…)、 土地柄から大物カントリー系となる可能性もありますし、ヴァン・ヘイレンを出そうという署名運動なども起きているようです(実は今年もメ タリカ出演の署名運動がありました)。
  とにもかくにも、アメリカの国民的行事としてみんなが楽しむスーパーボウルのハーフタイム・ショーで、今回のような確執を残す後味の悪さや見苦しさはできる限り避けたいものです。
例えば思い切ってアーティスト単体ごとのパフォーマンスはやめて、グラミー賞授賞式のパフォーマンスのように、世代・人種・ジャンルを超えたスペシャルな共演パフォーマンスにしてみたら?などと私は思うのですが、残念ながら様々な レベルの分裂・対立は益々エスカレートしていくように見えます。

トピック2:今年のグラミー賞授賞式の波紋

 2月頭のスーパーボウルに続いて、2月半ばはグラミー賞、そして2月末はアカデミー賞となります。
今年のアカデミー賞 は、前述のBLM運動の盛り上がりもあり、以前から人種差別的な傾向が強いとして 批判を浴びているアカデミー賞をボイコットする黒人俳優や監督が出てきています(Oscars So Whiteというアンチ・アカデミー運動も起きています)。
  さすがにグラミー賞ではそうしたボイコットまでは起こっていませんが、実は今年のグラミーでは、今後様々なレベルで確執を残すような問題が内部で間際に起きました。
それは、今年1月10日に亡くなったデヴィッド・ボウイと1月18日に亡くなったグレン・フライ、そして2月3日に亡くなったモーリス・ホワイトに対してのグラミーの対応とパフォーマンスでした。
  デヴィッド・ボウイに関しては、今回のグラミー賞授賞式においてレディ・ガガがナイル・ロジャース等を加えてトリビュート・パフォーマンスを行うことが既に2月の頭に公表されていました。
グレン・フライに関しては、 イーグルスのメンバー達にジャクソン・ブラウンが加わってのパフォーマンスを行うというアナウンスがあったのは、2月15日の受賞式の5日前のことでした。
ガガによるデヴィッド・ボウイ・トリビュートは、さすがにガガだけのことはあって実によく構成されたショーに仕上がっていました。
一方のグレン・フライ・トリビュートは、イーグルスらしい、またはイーグルスならではの“テイク・イット・イージー”的なほのぼのとしたその場での一発セッションでした。

  ところが、モーリス・ホワイトに関してはトリビュート・パフォーマンスとも言えないようなMC/ コメントの延長のようなアカペラ/パフォーマンスのみ。
しかもアカペラ・グループのペンタトニックスによるもので、スティーヴィー・ワンダーが加わったことで何とかトリビュート的な“形”にはなりましたが、アカペラだからペンタトニックスだとは言え、アース(E,W&F)のモーリス・ホワイトのトリビュートで何故ペンタトニックスなのかということには意味も説得力も全くありません。
私自身も観ていて呆然となりましたが、賞の後には様々な音楽メディアやファン、そしてモーリスを慕うアーティストやミュージシャン達からかなりの非難と落胆が寄せられることになりました。
  日本から見たら信じられないと思いますが、実はアメリカにおけるアースの評価というのは、恐ろしく低いものがあります。
特にグラミーはアースに対して充分な評価をしているとは言えません。
数としては、アースのグラミー賞ノミネートは17回で、内6回受賞していますが、実は受賞は全てR&B部門であって、ポップ部門はもちろんのこと、メインとなる主要4部門(最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀新人賞)では一度も受賞したことはありませんし、ノミネートされたのも1979年の「アフター・ザ・ラヴ・ハズ・ゴーン」(最優秀楽曲賞部門)の1回のみです。あれほど名曲・名作(ア ルバム)の数々を生み出し、あれほど後のアーティスト達に多大な影響を与えたスーパー・グループながら、この評価の低さというのは信じられないことであると多くの音楽関係者は昔から言い続けています。
  今回のモーリスに対する対応も、こうしたグラミーによる過小評価・軽視を表していることは否定できません。
確かに、バンドは80年代以降低迷・分裂・活動休止し、現在のバンドはオリジナル・メンバー3人を残すのみです。
そして、モーリスは90年代後半にパーキンソン病を患い、その後引退しました。
とは言え、70年代の音楽シーンを代表するバンドの一つであったアースのリーダー、モーリス・ホワイトの死と功績に対してアカペラのみのトリビュートというのは、 いくら何でもひどいだろう、というのが多くの音楽メディア関係者やファン、アーティスト達の声であると言えます。
  私自身は残念ながらモーリスとは会うこともありませんでしたが、アースのメンバー達とは様々な場で一緒に仕事をしてきましたが、その度に彼等がいかにアメリカの音楽業界において不当な評価を得て過小評価され、あれほどのスーパー・バンドのメンバーに相応しいとは決して言い がたい仕事状況・生活状況に驚き、落胆もしました。
もちろんこうした話はアースだけに限ったことではありませんが、こうしたところにも前述したような様々なレベルの分裂・対立が起こり得る火種や状況があることは否めないと言えます。

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