【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 December 2018」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

ここ数ヶ月、立て続けにロサンゼルス側主導のプロダクションが相次ぎ、それらに協力する形で参加していましたが、映像も音楽もプロダクションはやはりLA側主導が数的には依然多く、特に日本とはニューヨークよりも距離的に近いこともあって、日本からの特に大規模なプロダクションはLAの方が勝っているという状況は変らないようです。

 NYとLAというのは昔から何かと比較され、ある種ライバル関係にあり(東京と大阪のような感じでしょうか)、一般的にNYの人間はLAが嫌い、LAの人間はNYが嫌い、とも言われてきました。因みに私はNYもLAも(東京も大阪も)大好きですが、それでも仕事でLA側とやりとりする際は、ライバル意識というか、ちょっと肩肘を張ったようなプライドのような意識が両サイドに見え隠れするということも否定できないと思います。

 それが最近は何かこれまでとはちょっと違った意識が芽生えているように感じるのですが、それは恐らく、政治・司法とテロと自然災害という、特にNYとLAにとってはネガティヴでアゲンストな状況から生まれてきている一種の同情や同朋意識のようなセンチメントであると感じられます。

 政治に関して大変大雑把に言えば、現在のアメリカは党派的には、東海岸と西海岸はブルー(=民主党)、中西部と南部はレッド(=共和党)であると言えますが、その中でもNYとLA(更にはCA州=カリフォルニア州)はある種、ブルーまたは反トランプの牙城・拠点であると言えますし、司法もそこに同調している形になりますので、実際にトランプも何かにつけてNYやLAを目の敵にしています。

 テロと自然災害については共通点ではなく、NYの9/11テロと今も続く緊張と警戒態勢、LA(正確にはCA州)の自然災害、というそれぞれの事情がお互いの同情心を呼び起こしているように感じます。例えば今回もLA側のスタッフがNYに来ると、NY側の人間としてはまずCA州の自然災害(火災)について心配し気遣う、というのが一つの礼儀や心遣いのようにもなってきています。

 テロや災害を肯定視できるものは何もありませんが、それでも結果的に西と東の連帯感が強まっているというのは良いことではないかと感じます。逆に相手が中西部や南部の人間ですと、これまでにあったような、ちょっと見下げたような目線や態度に加えて、最近は特に「こいつはやはりトランプ・サポーターだろうか?…」といったような注視・危険視するような思いや態度がNYやLAの人間には多く見られる(また、その逆もあり)、というのがやはり本音的な部分であると思いますが、これも中西部や南部において頻繁に続発するテロや災害によって、気配りや同情心、助け合いの意識が、アメリカを蝕む偏見・憎悪・対立に歯止めをかける一つのブレーキにもなっているように感じます。

 そのような形で連帯感が生まれるというのは理想的なことでは全くありませんし、テロや災害の犠牲者達には本当に申し訳ない限りですが、人類は結局その繰り返しである、ということも感じざるを得ません。

 

トピック:「ファイナル」、「フェアウェル」というビジネス

 

 最近の音楽業界において最も儲かるビジネス、特に巨大マネーが動くビジネス、というのはアーティストのファイナル・ツアー/フェアウェル・ツアーと伝記映画であるとよく言われています。どちらも人気・評価の極めて高いビッグなアーティストであることが前提になりますし、前者は音楽の中でも興行業界、後者はどちらかというと映画業界という、そもそもビッグ・マネーが動く業界であることは確かですが、それでも最近の上記ビジネスの安定度・信頼性というのは一際高まっていると言えます。

  伝記映画については、ご存知のようにクイーン(厳密にはフレディ・マーキュリー)の「ボヘミアン・ラプソディ」が記録的なセールスを生み出しており、これにエルトン・ジョンの「ロケットマン」が続くのではないか、とも言われる状況ですが、“ネタ”自体は非常に限られていると言えますし、伝記映画自体アーティストにとっては“本業”ではなく、また本人の没後に制作・公開されるケースが圧倒的ですので、本人の意思とは無関係であるとも言えます。

 そこで今回は前者のファイナル・ツアー/フェアウェル・ツアーについて取り上げてみたいと思います。

 

 主に中高年層をターゲットとした大物アーティストの興行が安定しているというのは、以前にもお伝えした通りで状況は変っていないと言えます。日本でも同様かと思いますが、収入の安定した中高年層は高額チケットへの出費を惜しまない人が多いため、料金設定も高めとなりますし、更にVIPチケットなどの特典付きチケットに対する興味・関心も高いため、彼等をターゲットとした興行は売上も安定します。それに比べると若者層は当然収入も低く、その反面、一般的にはファッションや飲食費・交際費などの出費対象オプションも多くなります。更に最近の若者層は携帯電話関連への出費が圧倒的に増え、音楽に関してはストリーミング中心でコンサートなどにお金をかけない傾向が強いため、一部の超大物系アーティスト達を除くと、興行界にとってはあまり魅力ある層とは言えない、というわけです。

 

 そもそも今の中高年層というのは、特に1960年代以降、音楽がカルチャーの中心として文化を支えてきた中で育ってきた世代ですので、音楽に対する理解度・依存度が圧倒的に高く、市場としてはとてつもなく魅力的であると言えます。既に50台も半ばを過ぎ、自分達のライフスタイルが確立し、若者層ほど世間の動きや流行には左右されず、自分達が好きなもの(音楽)には出費を惜しまない彼等は、今も自分達のヒーローやフェイヴァリット・アーティスト達を熱心に支え続けていると言えるわけです。

 一方当事者であるアーティスト達も50台半ばを過ぎ、自分達の人生というか活動方針を再考し始めます。引き続きレコーディングは継続していきますが、特にこの広大な大陸を横断したり周り続けるアメリカ・ツアーというのは大変な体力を要する仕事でもあるわけですし(特に大型ツアーの場合は、一度に全地域を回りきるのは大変困難ですので、first leg、second legといったようにツアーを何回かに分けて行うのが一般的でもあります)、そこにワールド・ツアーが加われば、いつまでも体が続くものではありません。

 そこで順番としては、まず一番労力を要するワールド・ツアーから削減・縮小していくことになるわけですが、ビジネス的にはそれを“ファイナル・ツアー”として打ち出すことによって、それを「見逃せない」と思うファンを掴むことになり、非常に大きなアドバンテージとなるわけです。

 つまり、アーティストとファンの高齢化によって、ツアーの終焉というのは必然となっていきますし、いつまでも生涯現役としてツアーを続け、次第にアーティストも衰え、集客数並びに売上も落ちていく形を取るよりも、潔く(?)区切りを付けて、そこにビジネス・チャンスを得る、というのが特に最近の興行スタイルのトレンドと言えるのかもしれません。

 

 このファイナル・ツアーやフェアウェル・ツアーという形式を誰が始めたのかは特定できませんし、昔からあるにはあったことでしたが、これだけ多数の大物アーティスト達が「ファイナル」や「フェアウェル」を掲げて最後のツアーを行っているのは、特にここ数年において顕著なことであると言えます。

 それは特に60年代から70年代にかけて人気を博したアーティスト達が、そろそろ引退時期に差し掛かっているということが一番の理由ですが、音楽業界において、アーティスト達にも一つの定年基準または定年指向というものが生じてきたと言えるのではないか、といった少々シニカルで辛口の意見や分析もメディア内にはあるようです。 

 

 まず、現在ファイナルまたはフェアウェルのツアー中、またはツアー終了直後、またはツアー開始間近の大物アーティスト達を見てみたいと思います。

 ポール・サイモン

 ジョーン・バエズ

 エルトン・ジョン

 オジー・オズボーン

 キッス

 スレイヤー

 アニタ・ベイカー

 レイナード・スキナード

 ソフト・セル

 モス・デフ

 

 ジャンルは様々であり、年齢も実は結構な開きやバラツキがありますが、年齢に関しては個人差があることですから、基本的にはそれ以上の意味は無いと言えます。

 その中でも超大物の数人・数組について更に触れてみたいと思いますが、まず同い年(1941年生まれ、77歳)のポール・サイモンとジョーン・バエズは、完全なファイナル&フェアウェル、つまりシンガー・ソングライター活動からの完全な引退となります。この二人はアメリカにとって、そして特にニューヨークにとって、一つの時代を象徴する偉大なアーティストですから、ファンやメディアの反応は一際大きいと言えます。

 

 ポール・サイモンは前々回にもご紹介したように、ニューヨーク市クイーンズ出身のアーティストです。クイーンズの中流ユダヤ人家庭の中で育ったそのリベラルな庶民感覚は音楽の中に色濃く現れており、サイモン&ガーファンクル時代からニューヨーク市にちなんだ題名や歌詞も多く、本当にニューヨークを代表するトップ中のトップ・アーティストであると言えます。それだけに、引退表明後から先日9月22日地元でのツアー最終日まで続いたメディアの取り上げ方は敬意・賞賛と愛惜の念に溢れたものでした。彼の場合は昔から子供のための音楽教育普及振興運動に深く携わっていますが、今後も彼のそうした慈善運動家としての活動は変らないようです。

 

 一方のジョーン・バエズはニューヨーク市スタテン・アイランドの出身。その長く、常に意欲的な活動は、特に最近の「#MeToo」ムーヴメントを始めとする女性の権利運動の側からも再注目・再評価されてきており、ここにきて益々女性アーティストの代表として敬われているだけに、彼女の引退にはとても残念な思いがあります。本人曰く、引退は極めて肉体的な問題(表現手段としての声域・声量の減退)であるとのことで、これは誰にも手助けのできない彼女自身の問題ですので仕方がありませんが、元々社会派としての立場を明確にしてきた彼女は、引退後も、社会・政治に対して様々なアピールを続けていくことは間違いようです。

 

 エルトン・ジョンとオジー・オズボーンはどちらもイギリス人ながら、ある意味で本国以上にアメリカで愛され、活動し、評価されてきたアーティストであると言えます。しかし、彼らの場合は引退ではなく、あくまでもツアー活動の終了のようです。つまり、今後もアルバム制作は続けていくようですし、特にエルトンは元々多才でミュージカルや様々な分野でも活躍してきた人ですので、今後もそうしたツアー以外の音楽活動が衰えることはないと見られています。

 

 オジーの場合は2017年のブラック・サバスのファイナル・ツアーと活動終焉に続く彼自身のファイナル・ツアーであるだけに、ファンは寂しさを一層つのらせますが、何しろ問題児の多いロック界の中でもダントツに破天荒で素行不良のオジーですから、ツアー引退後も何をしでかすかは全く予想がつきません。しかもはっきり言ってしまえば、既にシンガーというよりもロック界のパフォーマー、更に言えばエンターテイナーにも匹敵するほどのアピール度とインパクトを持ち、シンボル/アイコン化しているオジーですので、ツアー引退自体や、ファンやメディアによるその捉え方については、他のアーティストとはかなりの温度差があると言えます。

 

 ポール・サイモンとジョーン・バエズのファイナル/フェアウェルは正真正銘の本音、エルトン・ジョンとオジー・オズボーンのファイナルは限定的なファイナル/フェウアウェルでビジネス的な“戦略”も感じられますが、エルトンとオジー以上に、もうこれはビジネス以外の何物でもないのではないか、と思えてしまうのが、最後に紹介するキッスとスレイヤーです。

 私自身はキッスもスレイヤーも長年の大ファンですし、特にキッスは1977年の「Rock & Roll Over」ツアーを初体験としてこれまで数多くのコンサートに足を運び、今回の「End of the World」ツアーと命名されたファイナル・ツアーも真っ先にチケットを購入しましたし、スレイヤーに関しても先日のファイナル・ツアーでは久々にモッシング&ヘッド・バンギングを楽しんできた、いわばファイナルという言葉や“商法”に乗せられている典型的なファンの一人と言えます(更にキッスのジーン・シモンズとスレイヤーのトム・アラヤは自分にとってのベース・ヒーローでもあります)。それでもこの2バンドのファイナル/フェアウェルのワールド・ツアーには、並々ならぬ戦略的な意図・狙いを感じないわけにはいきません。

 

 なにしろキッスは2000年に解散宣言をし、その年から2001年にかけてフェアウェル・ツアーを行ったにも関わらず、あっさりと解散を撤回し、2003年にはエアロスミスとの豪華ツアーを行った“前科”もあります(ちなみに、私はその両方も観に行きました)。

 その膨大且つ多岐に渡るマーチャンダイズやコレクターズ・アイテムといった販売戦略から、映画やコミックなどでの露出に至るまで、彼等は音楽以外でのビジネス・センスに関しても実に巧みなバンドであると言えますが、そんな彼等にはファイナル/フェアウェルという言葉も一つの大きなビジネス・チャンスであるように感じられます。

 

 スレイヤーに関しては長年に渡る過激なステージ・パフォーマンスとハードなツアーにメンバー達の体は様々な支障を来しているということは事実であるとは思いますが、それでもまだ50歳台後半の彼らがこのまま演奏活動に終止符を打つとは到底考えられません。実際に彼等はツアー活動からの引退は表明しましたが、これが単に大規模ツアーに関する終了であるのか、またバンド自体の解散となるのかは明らかにしていません。

 

 キッスもスレイヤーも、いわゆるイメージ戦略に長けたバンドですし、アイコンというよりも一つのブランドにもなっているようなモンスター・バンドですので、そのブランドが簡単に消え去ることは無いと思われます。

 ファンもその辺りはお見通しであると言えますし、単に連続集中型のワールド・ツアーはもう行わないだけで、国内や一部海外といったレベルでは今後もツアーを継続していくのではないか、または、しばらくすれば再開・再結成してワールド・ツアーに繰り出するのではないか、という“疑い(または希望?)を強く抱いていると思いますし、「どうせ、奴らはすぐに戻ってくるさ」くらいの気持ちで、ファイナル/フェアウェルを楽しんでしまおうというノリが感じられます。

 前述のキッスの“前科”の際もそうでしたが、ファイナルや解散宣言を撤回したからと言って、嘘つき呼ばわりするような杓子定規さや了見の狭さは全く無く、むしろ再開・再結成を喜んで楽しもうというのが“アメリカ流”と言えるかもしれません。何しろ、「武士」もおらず、「二言」もありのお国柄ですので(笑)。

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