【I LOVE NY】月刊紐育音楽通信 March 2019
(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)
Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

先日、赤ちゃんを連れた若いアフリカ系アメリカ人女性が、ニューヨークの地下鉄の階段から転落して死亡(赤ちゃんは無事)するというショッキングな事件がありました。転落の原因については、その後異なる見解も報道されましたが、赤ちゃんを抱きかかえ、荷物を持った状態で転落して死亡したことは事実です。
1904年の開業以降、追加・継ぎ足しによってインフラが脆弱且つ老朽化しきっているニューヨークの地下鉄は、その運行状態の酷さ(様々な故障トラブルによる徐行・停車、早朝深夜・週末を中心とした運休、路線の急遽変更など)は世界でもトップ・クラスであると言えます。先日は、高架線部分の路線からがれきが落下し、高架線下の車両が破壊されるという恐ろしい事件も起き、市民の不安は益々高まっています。
今回の転落死亡事件も地下鉄の駅設備の不備や粗末さを物語っており、特に妊婦や乳幼児を連れた母親、老人や身障者に対する対応は、僅かな駅を除いてほとんでされていないのが現状です。
修理や改築・改善も日々続けられてはいますが、一層進む老朽化と次々に発生するトラブルに追いつけないというのが現状で、運行状態や設備の問題は益々酷くなる一方です。それにも関わらず、運賃の値上げが行われることになり、市民の怒りは頂点に達しつつあると言えるでしょう。
結局全ては金の問題であり、予算が足りないというのが毎度の言い訳なのですが、その反面、地下鉄運営側(バスや列車も含めたMTAというニューヨーク州都市交通局)の役員・幹部、そして評議員達が受け取っている巨額報酬については、いつまで経っても改善の余地が無いようです。
そんな状況に真っ向から異を唱え、ニューヨーク市内の公共交通を全面的に改革するプランを出したのが、最近人気が高まっているコーリー・ジョンソンという37歳の若き市議会議長です。彼は次のニューヨーク市長にも目されている人物ですが、とにかく弁の切れ味が鋭い行動派で、恐れることなく問題を斬っていくことで市民の信頼を集めていますが、今回はニューヨーク市の公共交通の運営を、現在のMTAというニューヨーク州都市交通局からBAT(Big Apple Transit)というニューヨーク市の運営組織に切り替えるプランを発表して大きな話題を呼びました。特に注目を集めたのはMTAの評議員の問題で、現在23人いるMTAの評議員は全員ニューヨーク市ではないニューヨーク州北部に住んでいるということで、ニューヨーク市に住んでもいない人間達にニューヨーク市の公共交通を任せていいのか、と主張してニューヨーカー達からは拍手喝采を浴びました。
ところがこれにはニューヨーク州を代表するクオモ州知事が反発し、「市で管理したいのならやればいい。その代わり州は金を出さん(予算援助しない)」という子供じみた発言をして、州と市の関係は更に険悪になってきています。そもそも現在のクオモ州知事とデブラジオ市長も犬猿の仲ですが、州も市もどちらも自分たちの利害と支持者を最優先として対応していくので常に対立・衝突は避けられないのですが、市民としては何でもいいから一日も早くまともな公共交通を実現してくれ、と願うばかりと言えるでしょう。
トピック:音楽界を震撼させる超ビッグ・アーティスト達の醜聞
前回は音楽業界における女性の地位向上と躍進ぶりについて、その一部をお話しました。また前回では「1月は「女性月間」という印象も強くなっています」ともお話しましたが、実際にはこの3月が「女性月間」とされ、第一四半期は「ブラック・ヒストリー月間」を挟んで女性の地位向上や権利運動に対する注目度が上がり、ある意味で社会のマイノリティに対する認識・評価を新たにする風潮が強まっています。
そうした中で、3月を迎える前後のアメリカ音楽界は、この「女性月間」に後押しされるような動きも加わり、衝撃的な醜聞に震撼したと言えるかもしれません。「震撼」というのは少々大袈裟なニュース・メディア的物言いで、実際には醜聞の劣悪さに「当惑・困惑」していると言うのが正しいかもしれません。その主人公は既に皆さんもご存じかと思いますが、R・ケリーとマイケル・ジャクソンです。しかも、この二人に関しては、いわゆる女性に対するセクハラ/性的暴行ではなく、少女・少年に対するものということで、更に醜悪ぶりは倍増と言えます。
まずR・ケリーに関しては、事態はほとんど泥沼の“戦争”状態になっているとも言えます。ケリーの歌手、ソングライター、プロデューサーとしての才能には、誰もが敬意を払い、異を唱えることは無いとも言えます。マイケル・ジョーダン主演の映画「スペース・ジャム」のサントラ曲として大ヒットした「アイ・ビリーヴ・アイ・キャン・フライ」は、その年のグラミー賞4部門にノミネートされ、2部門を受賞した名曲であり、アメリカのポピュラー・ミュージック史上永遠不滅の名作の一つであると言えます。
しかし、素顔のケリーに関しては昔から問題・噂・醜聞に包まれていました。そもそも彼はデビュー当時からセックスを題材にした極めてストレートな歌詞で知られ(「セックス・ミー」や「やみつきボディ」などというタイトルの曲もありました)、わずか22歳にして飛行機事故で亡くなったアリーヤとの婚姻では年齢詐欺を行い(当時アリーヤは15歳)、その後もケリーの周りには常に未成年の少女達が取り巻いているという話は、昔から多くのアーティスト達や音楽関係者達の間では語られていました。
更にアリーヤと分かれて間もなくして、またしても未成年(15歳)の少女と交際し、グループ性行為を強要し続けて裁判となり、その後も別の未成年少女達から同様な犯罪によって訴えられてきたものの、全て無罪や示談となってきました。
2008年には当時14歳の少女との性行為や排泄を収録したビデオ・テープが流失したことに端を発してまたも裁判となり、今度こそは有罪かと思いきや、これもケリーと少女双方の否定で、またもや無罪放免となりました。
しかし、ここ最近益々活発になっている「#MeToo」や「#Time’s Up」といったハッシュタグによる運動の後押しもあって、昨年はケリーの楽曲ボイコットを訴えるハッシュタグ「#MuteKelly」が注目を集め、遂に今年の1月には、アメリカのケーブルTV局によってケリーの被害者達や彼の“悪事”を伝える関係者50人以上の証言を集めたドキュメンタリー番組が3夜連続で放映され、ケリーによる少女達への性的暴行や彼自身が率いていると言われる“セックス・カルト”組織の実態などが暴露されることになりました。これには検察も即座に反応し、ケリーは2月末に性的暴行容疑で逮捕されることになりましたが、彼は全面的に無実を訴え、わずか2日間の拘留後、100万ドルの保釈金で一旦釈放されたわけです。
ここまではアメリカにおいては“ありがち”な展開であるとも言えますが、ケリーは釈放後10日ほどしてCBSのニュース番組に出演し、涙を流しながら無罪を主張し、立ち上がって激昂して叫び、暴れ出すのではないかという状態のケリーをパブリシストが出てきてなだめる、というド迫力・ド緊張のインタビューとなりました。しかも、続いては現在ケリーと交際中のガール・フレンドという二人の女性も同じ番組でインタビューを受け、一人は号泣してFワードを交えながらケリーの無罪を主張し、更には自分達の父親を「ケリーと無理矢理交際させた」とか「それにもかかわらず、今度は金目当てでケリーを非難している」などと発言して視聴者を驚愕させました。
その直後には上記女性の父親が「娘をケリーに紹介したことは無い」、「娘はケリーに洗脳されている」などと弁明発言し、何が何やらわからぬ泥沼状態となっています。当人達の発言の真偽の程については、ここでは触れませんし、裁判の行方を見守るしかありませんが、今回の事件には様々な疑問が生まれています。その代表的なものは「なぜケリーはここまで逮捕されなかったのか」、「なぜ被害者の女性達はここまで黙っていたのか」であると言えますが、その答えとしては、スターを特別視・別格視する音楽界の悪しき風潮・構図と、アフリカ系アメリカ人女性達の社会的地位の低さ、が極めて大きな位置を占め、問題になっていると言えます。
前者はこの後お話するマイケル・ジャクソンに関しても同様ですが、後者はケリーの問題、そしてアフリカ系アメリカ人女性が被害者の場合のセクハラ/性的暴行問題においては非常に深刻です。上記のドキュメンタリー番組の中で、「被害者が白人であったら、もっと大騒ぎになっていただろう」というコメントがありましたが、これはアメリカ社会においては紛れもない真実であると思います。つまり、社会的地位や収入において、全体的・平均的にはいまだに白人女性よりも圧倒的に低いアフリカ系アメリカ人女性は、裁判に踏み切るための経済的余裕や援助・サポートも白人女性よりも圧倒的に少なく、特に経済的には現状を維持することに精一杯であり、裁判沙汰となることのリスクを避ける傾向が強い(避けざるを得ない)、というのは否定できない側面であると言えます。 その意味では、今回のケリーの大騒動は、アメリカ音楽業界はもちろんのこと、アフリカ系アメリカ人女性達にとってとてつもないインパクトを与え、これまで白人主導で進んできた「#MeToo」や「#Time’s Up」運動を、アフリカ系アメリカ人、そして更に多種多様な人種を巻き込んで一層広げていく大きなきっかけになることは間違いないであろうと思われます。
さて、次はR・ケリーよりも更に深刻な面が取り沙汰されるマイケル・ジャクソンですが、マイケルの場合もアメリカのケーブルTV局によるドキュメンタリー番組の放映によって、予想以上の波紋を広げつつあります。番組は、既に30代となっている、当時7歳と10歳の少年であった2人が当時マイケルから受けていたと言われるセクハラ/性的暴行についてフォーカスしたもので、ことはスーパースターの同性愛・少年偏愛であるだけに一層衝撃的であると言えます。しかも非難・糾弾されている対象が既に故人であるというのも、事態を一層センシティヴにしています。
ケリーとは異なりますが、マイケルに関してもその醜聞は昔からありました。簡単に言えばケリーの少女偏愛に対してマイケルの少年偏愛と言えるわけですが、マイケルの場合、話は80年代の半ばから始まっているわけです。
事の起こりは1986年、マイケルの有名なペプシCMの撮影時からと言われています。このCMに採用された子役の一人が、今回のドキュメンタリー番組の“主人公”の一人であるわけです。このCM撮影をきっかけにマイケルはこの子役の少年に接近し、“ギフト責め”や少年の家族とのバケーション旅行へと発展し、ついには少年と“ベッドを共にする”に至ったと言われています。
それから7年近く経った1993年、上記とは異なる4人の少年への性的いたずらの疑惑で、ロサンゼルス市警はマイケルに対する調査に乗り出しました。しかし、LA市警は証拠をつかめず、4人の内の一人の家族がマイケルに対して訴訟に踏み切ったものの、残る3人は証言を拒否したため起訴とはなりませんでした。しかも、訴訟となった案件の裁判において、マイケル側の証人に立ったのが、上記ドキュメンタリー番組のもう一人の“主人公”であったといのが、今回の話を更に複雑にしています。 更にこの時の少年の証言が、その後のマイケルの性癖に関する“隠れ蓑”のようにもなってきました。つまり、“ベッドを共にする”というのは性行為ではなく、単に“添い寝をする”というものであると言われたわけです。
ところがその年の暮れに、今度はマイケルの姉のラトーヤによる爆弾発言が飛び出しました。彼等の母親がマイケルから被害を受けたという少年の家族に示談金を支払っていたことを暴露することにより、マイケルの少年偏愛を認めたわけです。更には彼等兄弟は両親からアビュースを受けていたことも告白。これらには彼等の母親が否認・反発し、ラトーヤはジャクソン・ファミリーから半ば追放されると共に、ジャクソン・ファミリー自体も泥沼関係へと向かっていきます。
それから約10年がたった2003年、マイケルの児童偏愛にフォーカスしたドキュメンタリー番組が放映され、それをきっかけにマイケルに対する犯罪捜査が再び始まります。その結果、マイケルのテーマ・パーク的豪邸「ネヴァーランド」に地元サンタ・バーバラ郡警察による強制家宅捜査が入り、マイケルは逮捕されて10の罪状が言い渡されます。マイケルは300万ドルの保釈金で釈放され、裁判はその1年3ヶ月後の2005年2月末から始まりましたが、6月にはマイケルはまたしても全て無罪放免となりました(この時も1993年の裁判でマイケル側の証人となった元少年が再び証人となっています)。
そしてそれからちょうど4年後の2009年6月にマイケルはこの世を去るわけですが、実は今回のドキュメンタリー番組の伏線とも言えるアクションとして、このドキュメンタリー番組の主人公となる2人の元少年は、それぞれにマイケルの財団を相手に訴訟を起こしましたが、どちらも一昨年の2017年に却下されています。つまり、内一人はこれまでマイケルの証人として証言台に立っていたわけですから、マイケルの死後にマイケルを“裏切った”または“かつての自らの証言を虚偽とした”ということで、マイケルをサポートするサイドからは「嘘つき」、「金目当ての訴訟」と猛烈な批判を受けることになります。よって、今回のドキュメンタリー番組は彼等2人による“リベンジ・マッチ”と取ることもできるわけで、何しろその赤裸々な内容はここに記すのも臆されるほど醜悪なものですし、「マイケルのレガシーは完全に変わった」、「この作品を観た後にはマイケルの音楽を二度と聴きたくはなくなるかもしれない」とまで論評するメディアがあることも確かに頷けます。
その証拠に、今回のドキュメンタリー番組の波紋は世界中に広がり始め、ニュージーランドやカナダのラジオ局ではマイケルの楽曲のオンエアを禁止するところまで出始めています。これが本国アメリカにおいて、今後どのような措置が取られていくのかはまだわかりません。沈静化に向かうだろうという意見もあれば、最終的にマイケルの楽曲は全て市場から消え去るだろうという意見もあり、ケリーのケースと同様、世間のみならずファンの間でも意見は真っ二つに割れています。ただ、間違いなく言えるのは、マイケルに関しては今後裁判よりも音楽業界/音楽産業がどう対処・対応していくのか、ということが問われてくると思います。もっとはっきり言えば、音楽業界/音楽産業はマイケルのこの問題に対して何か動くのか(動くことができるのか)どうか、ということですが、今の「#MeToo」や「#Time’s Up」運動の盛り上がりから言えば、今後の進展次第では、動かなければ音楽業界/音楽産業自体が足下をすくわれかねない事態になる可能性もあります。
ここで最後に、先程述べた「スターを特別視・別格視する音楽界の悪しき風潮・構図」について再度お話しましょう。もちろんスターを特別視・別格視するのは音楽界に限ったことではなく、映画界やミュージカル界、演劇界などいわゆるエンタメの世界ではどこでもある話です。しかし、その中でも音楽界が特に問題視されるのは、今も続く「専属契約アーティスト」というシステムです。昔は映画界にも「専属契約アーティスト」というものはありました。例えばMGMなどはその代表ですし、それが故にMGMは他に類を見ない程の黄金時代を形成しました(映画「ザッツ・エンターテインメント」をご覧になれば、そのことが良くおわかりいただけるでしょう)。
しかし、そうした時代は既に終わりました。専属契約アーティストを基盤にするビジネスというのは、別の言い方をするならば、専属契約アーティストが、契約する会社とその従業員、更にその関連会社やスタッフに至るまでの全ての人々の生活に対して“責任を負っている”、ということです。つまり、専属アーティストは社員/スタッフを喰わし、社員/スタッフは専属アーティストに喰わしてもらっている、というわけです。この「喰わす/喰わしてもらっている」という依存関係は巨大な産業においては一層、双方にとって切り離せない癒着・しがらみとなり、一方では専属アーティスト達へのプレッシャーや専属アーティストの“商品化”、もう一方では社員/スタッフ達の甘えや怠慢、金銭感覚のズレ・欠如を生み出している、というのは昔から方々で指摘されてきたことでもあります。
アカデミー賞受賞男優のケヴィン・スペイシーは、セクハラ/性的暴行疑惑によって映画業界から追放されました。まだ判決の出ていない“疑惑”であっても映画界はスペイシーをバッサリと切り捨てたわけです。しかし、音楽業界・音楽産業は R・ケリーやマイケルを切り捨てられるのでしょうか。事件の真相と共に、アメリカ音楽界の動きにも注視したいと思います。
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