【I Love NY】「月刊紐育音楽通信 March 2020」

(本記事は弊社のニューヨーク支社のSam Kawaより本場の情報をお届けしています)

Sam Kawa(サム・カワ) 1980年代より自分自身の音楽活動と共に、音楽教則ソフトの企画・制作、音楽アーティストのマネージメント、音楽&映像プロダクションの企画・制作並びにコーディネーション、音楽分野の連載コラムやインタビュー記事の執筆などに携わる。 2008年からはゴスペル教会のチャーチ・ミュージシャン(サックス)/音楽監督も務めると共に、メタル・ベーシストとしても活動中。 最も敬愛する音楽はJ.S.バッハ。ヴィーガンであり動物愛護運動活動家でもある。

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 ニューヨークに移り住んで30年以上。大停電と暴動とシリアル・キラー(77年)、戦争当事国としての開戦または戦争介入(91年湾岸、2001年アフガニスタン、2003年イラク)、テロ(1993年ワールド・トレード・センター爆破テロ、2001年9/11同時多発テロ)、ハリケーン・サンディーによる大被害(2012年)など、日本では起こりえないような様々な事件を経験してきたと思っていましたが、これほどまでに日々の生活が大きく変化する経験は初めてであると言えます。

 何しろ、マンハッタンに間借りしている自分のオフィスに行くこともできず、仕事仲間と会うこともできず、同じマンハッタンに住んでいる家族(子供達)とも会うことができず、ただひたすら自宅に引きこもり、身の回りでは徐々に感染者が増えていく一方で、娘も結果的に感染した友人と接触したため2週間の自宅隔離状態となり、私自身も感染するのは時間の問題という不安にさいなまれる、といった状況に陥っているのですから。

 それぞれが抱く、明日の収入、明日の生活、そして明日の我が身すらが闇の中にあるというこの危機感・不安感というのは、やはり置かれている状況によって異なるし、結局は当事者でないとわかりづらいものであると思いますが、今回のウイルスに関しては地域差というものが大きく、特に日米または日欧の認識・理解の格差は広がるばかりと感じます。

 日本では既にイベントが再開されたり、できる限り国や自治体による大規模な規制は行わない方向にあると聞きますし、ようやく延期となったオリンピックも、世界各地におけるウイルス蔓延の中で開催の意思や意欲が公表され続けていましたが、それらはアメリカ側から見れば信じられないことであると言えます。

 先日、ワシントン・ポスト紙は、まだオリンピック開催にこだわっている日本を“無責任“と批判する記事を掲載しました。これは日本の方々には極めて不愉快な論評であるとは思いますが、ニューヨークを始め、アメリカの一般的市民の感覚としては、正直な意見であったと思います。

 なにしろ、アメリカの感染者数は遂に中国、イタリアに続いて3番目となり、このままでは中国に迫る、または追い越すのは時間の問題と言われる。。。現在アメリカ全土の中で最大の感染者を抱えるニューヨーク州の感染者数は、ニューヨークに次いで第二位・第三位の感染者を抱えるカリフォルニア州やワシントン州(当初は感染者最多)の10倍以上となっている。。。東京都の半分ほどしか無いニューヨーク市の感染者は、既に日本全土の感染者を超え、死者も日本全国の倍以上となってしまっている。。。といった危機的状況が背景となっている部分は是非ともご理解をいただきたいと願うばかりです。

 それにしても、今回はテロ以上に目に見えないウイルスという“敵”と対峙しなければならないのですから、そのストレスや不安の大きさは計り知れません。またその反対に、目に見えないが故に現実を認識・理解できない人達、または逆に制限・禁止というストレスに満ちた現実に反駁する人達もアメリカには多いと言えます(例えば、テキサス州知事や、超保守的なキリスト教原理派など)。

 今回のウイルスで、分断されたアメリカが再び力強い絆を持つようになる、と主張するアメリカ人も多くいますが、それに関しては非常に懐疑的です。一時は敵対から強調路線へと変更するかに見えたトランプも、結局は相変わらずの排他主義とアメリカ至上主義に戻っていますし、国内のみならず、ある意味見せかけのグローバリズムの崩壊によって、国、地域、人種に関する排斥意識・差別意識は確実に以前より増していることを強く感じます(特にアジア人である自分にとっては)。

 それでも、ポジティヴな面をいくつか挙げるとするならば、みんな不健康な外食をしないようになり、車や飛行機などの利用や工場の稼働などが減って大気汚染が軽減され、自宅にとどまって自分たちの生活を見つめ直す機会になっているということでしょうか。そして何よりも、今まで以上に「時間」があり、「家族」が共にいるということ(もちろん別居・独立している家族は別ですが)。そのことを真っ先に感じ、我が家でこの状況を一番喜んでいるのは、日頃留守番ばかりであった愛犬であるようです。

 

トピック:襲い来るウイルスに対して音楽は無力なのか

 

 前述のテロや戦争、大災害の時も同様な印象を持ちましたが、今回ほど、音楽というものがあまりに無力であることを痛感したことはないと言えます。現在、ニューヨーク州では、市民の生活にとって重要(エッセンシャル)であるかどうかで、ビジネスのオープン/クローズが決められ、市民生活も厳しく規制されていますが、音楽はもちろん重要では無い(ノン・エッセンシャル)ビジネスとなりますし、その厳しい規制の中で動ける余地はほとんどありません。

 何しろ人が集まることを規制するわけですから、コンサートやライヴ・ハウスの運営は許されません。つまり、音楽ヴェニューのシャットダウンによって、ミュージシャンは完全にパフォーマンスの場を失っているというのが現状です。

 内輪の話で恐縮ですが、ドラマーである私の娘は最近、ある新人歌手のバンドに加入して、2月末からオープニング・アクト(前座)として有名アーティストの大型アリーナ・ツアーに参加し始めましたが、その矢先のこの騒動で、ツアーは3月後半から全て延期となりました。しかも、ツアー先の西海岸にいる間にカリフォルニア州で外出禁止令が出て、その後にニューヨーク州でも同様の法令が発令されて身動きが取れなくなってしまいました。飛行機はガラ空きですので、ニューヨークに帰ること自体は可能でしたが、何しろ航空会社(客室乗務員など)も空港(セキュリティ業務の空港従業員など)も感染者が続出しているので、飛行機で帰るのは感染のリスクが高すぎるということで、何と車で5日間かけてアメリカを横断してニューヨークに帰ってきました。しかも途中、アジア人であることで泊めてくれないホテルがあったり、車が故障してもやはり同様な理由で断られたりなど、散々な思いをしたようです。

 こんな話は今、ミュージシャン達の間ではあちこちで聞かれていますし(差別に関してはアジア人ならではですが)、今はショーの延期またはキャンセルと、感染の恐れという二重苦ならぬ二重の不運から逃れることは誰もができない状況です。

 一般的な興業の世界においては、所謂スケジュール変更や延期というのは可能です。特に今回の場合はアーティスト都合ではありませんし、結果的には全ての公演がずれていくという形になります。しかし、いつにずれ込むのかということに関してはまだ未定で全く確証も保証もありませんし、それまでは無収入状態が続くことになるわけです。また、延期というものにも限度がありますし、延期期間が長くなれば、その分間引き(つまり完全キャンセル)されるアーティスト達も増えていくことになります。

 音楽活動に対する制限はパフォーマンスの場だけではありません。人が集まることを規制する以上、レコーディングやリハーサルといったスタジオに集まっての活動も禁止されます。

 これは地方自治体によって多少異なりますが、現在はまだ10人以上の集まりを禁ずるところが多いので(ニューヨークなどは3人以上禁止ですが)、少人数であればまだ対応は可能な場合もあると言えますが、感染というセンシティヴな問題故、人数の問題だけではありません。なにしろ、ほとんどが外気換気が可能な窓などの無いスタジオという“密室”での作業となるわけですので、感染のリスクは極めて高くなります。

 実は先日、まだニューヨークで10人以上の集まりが禁止であった際に、エンジニアの自宅スタジオにて3人ほどでのプリ・プロダクションの話がありました。お互いによく知る間柄ですし、最初はまあ大丈夫だろうという軽い気持ちであったのですが、急激に感染が広がって深刻な状況となっていったため、一人は喘息持ちであることを理由に、もう一人は軽度ではありますが免疫システムに問題があるということを理由に、3人が集まってのプロダクションはやめようということになりました。

 ご存じのように今回のウイルスは新型の肺炎ですし、その死者の圧倒数が、呼吸器系機能の弱まっている老齢層と、既往症を持つ人達(つまり、合併症を起こして死に至る)となっています。そのため、人々は自分の持病や既往症に極めて敏感にならざるを得ませんし、安易な判断や過信は禁物となっています。

 こうした状況故、アーティスト/ミュージシャン達は益々神経質になっていき、実際に次々と活動面での行く手を阻まれているわけですが、彼らもただ手をこまねいて見ているわけではありません。今、多くのアーティスト/ミュージシャン達は、突然降ってわいた時間を使って、これまで以上に自分達の演奏スキルを向上させることや自分の音楽(曲や歌)を書くことにフォーカスすると共に、多忙な人ほど手をつけることが少なかったマーケッティングとソーシャル・メディアのスキルを磨くことに熱心になっているようです(そして、外出の多い彼らが中々見つけることのできなかった「家族との時間」も)。

 具体的には、アーティスト/ミュージシャン達はオンライン上で新しい音楽を発表し、演奏し始めています。それらはつまり、ライヴ・ストリーミングということで、これまでにも頻繁に行われてきたものではありますが、その比重と意味合いは全く変わってきたと言えます。

 これまでライヴ・ストリーミングに関しては、大がかりなイベント的な性格を持つ物以外は、どちらかというとマニアックなニーズに応えるようなものであったり、プライベートな内容のものであったり、インディーズ系など予算の無い場合が主流であったと言えますが、現在は発信する(できる)場所が基本的には自宅しかなくなっているため、自宅がスタジオであり、ライヴ・ハウスであり、大げさに言えばコンサート会場であり、全ての活動と発表の場の拠点となっているわけです。

 前回のニュース・レターをお読みの方は、今年のグラミー賞を制覇したと言えるビリー・アイリッシュに関する下りを思い出されるかもしれません。彼女の音楽パートナーとして、作編曲、レコーディング、プロデュースを手掛ける兄のフィニアス・オコネルとの音楽制作は、今回のグラミー賞受賞作品を始め、基本的には彼らの自室(寝室)を拠点としていました。つまり“宅録”という究極の低コスト・プライベート・プロダクションが彼らの基本であるわけです。

 自分のベッドルームでくつろぎながら、手頃な値段で手に入る機材を使って音楽制作を行い、しかもグラミーも制覇してしまったビリー・アイリッシュですが、そのパフォーマンスは相変わらず大勢の人の集まる音楽ヴェニューであり続けています。しかし今、その場所自体がシャットダウンされ、あらゆる場が剥奪されている状況において、音楽の発信場所、つまり現在の“音楽ヴェニュー”すらもが自宅・自室となっているわけです。

 これは非常時のやむおえぬ対応であるとは言え、音楽界における一つの“小革命”になり得ると思われます。

 もちろん、今のウイルス問題が収束すれば、音楽パフォーマンスの場は従来の音楽ヴェニュー中心へと戻っていくでしょうし、音楽産業としてはそうならねばなりません。しかし、インディーズ系を中心にほとんどの音楽活動がそのビジネス・モデルがほぼ独占的にライヴ/コンサート収入に基づいて構築されている状況と、特にメジャー系においてはしっかりとしたプラットフォームを構築することなく、安易でお手軽なチケット・リセール行為と販売サイトを公認したがために、あまりに不健全なチケット販売が主流となってしまっている状況、そしてそれらのシステムを基盤としている興行界に対して、今回の非常時対応による“小革命”がくさびを打ち込むような形になる可能性もあると期待しています。

 今回はあまりに厳しい状況故、その反動としてあまりにポジティヴというか楽観的な見方・話になってしまったかもしれません。実際に、Facebookなどを利用してライヴ・ストリーミングに取り組んでいるインディー系アーティストの収入はドネーション(寄付)頼みですので、ごく僅かです。ですが、そこには何の仲介もマージンも発生しませんし、これは極めて健全なソーシャル・メディアの利用法とも言えるかもしれません。

 また、人々は予期せず「時間」と「家族との時間」を得たわけですが、せっかく得た「時間」であっても何もすることが無いという人達は多いと言われます。必要最低限のショッピング以外は御法度で、バーやレストランでの飲食はできず、スポーツ自体も無くなり、映画も観に行けず、新しいテレビ番組すらも制作されないこの状況においては、自宅における娯楽(または癒やし)として、音楽がこれまで以上の比重を占める可能性が高まってきていることも事実です。

 毎度コントラヴァーシャルな発言で世を騒がせるマドンナは、今回のウイルスに関して「全ての人に分け隔て無く感染することで“平等”がもたらされている」という意見を述べて、またしても賛否両論を巻き起こしています。彼女は常に逆説的、または極端に誇張した物言いをする人ですから、その言葉を文面通りに捉えるのは危険ですが、

「私たちは皆同じ船に乗っている」という彼女の意見には賛同しますが、「(ウイルスが)全てを平等にする」という意見には、ウイルスに感染する確率に関しては確かに“平等”かもしれませんが、ウイルスそのものに対する認識・理解に関しては、平等どころかアジア人差別が起きているという点でも、彼女の意見には無理があると言えます。

 「ウイルスの恐ろしさが素晴らしさになる」というのも、これまた彼女ならではの極端な物言いですが、但しこれに関しては上記のライヴ・ストリーミングという取り組みが結果的に“素晴らしさ”をもたらしていると言うことは可能だと思います。

 今回起き始めている音楽表現や音楽制作(パフォーマンスでもレコーディングでも曲作りでも)の場の“解放”(つまり、ソーシャル・メディアの利点を生かしたコミュニケーションやライヴ・ストリーミング)は、音楽ヴェニューと自宅、スタジオと自宅、といった制作現場と自宅との距離感を縮めることに役立っているのは確かであると言えます。

 例えばストリーミングであれば、自閉症や何らかのハンディキャップや疾患を持った人でも、音楽ヴェニューに足を運ぶことなく、平等に音楽を楽しむことができます。具体的には、家に引きこもって孤立して出られない人に対して、音楽がよりストレートに語りかけることもできるわけです。

 また、曲を書くことや演奏すること、レコーディングすることなどが何らかの理由でうまくできない場合、ソーシャル・メディアを利用した共同作業という方法も可能です。

 つまり、ストリーミングまたはソーシャル・メディアそのものというのは、音楽表現や音楽制作においてインスピレーションを得るためのユニークなソース(源)を見つける良い機会/場となり得るわけで、これこそソーシャル・メディアのアーティスティックでクリエイティヴな活用方法と言えるのではないでしょうか。

 例えば、孤立した個人から別の孤立した個人へと繋がることもできるという点で、これまでとは異なる、また、これまで経験したことのない感情や状況を掘り起こす可能性もあると言えます。

 フリーランサーが労働力の大部分を占めている音楽ビジネスおいて、ウイルスという目の見えない敵に領土を侵された、この恐ろしいまでの不確実性に満ちた現状というのはあまりに過酷であると言えます。

 しかし、ビリー・アイリッシュではありませんが、今や音楽アーティストはいつでもどこからでも仕事ができるような状況となっています。そのための時間が与えられる結果を引き起こした今回のウイルスに対して感謝するなどという意見や考え方はもちろん不適切ですが、ウイルスによって引き起こされた生活の変化を可能な限り有効に使うということは可能なのではないでしょうか。

 苦境は人間を、そして音楽をも強くする。そう信じて私も微力ながら音楽の復活に力を注いでいきたいと思う今日この頃です。

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